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甲斐源氏 源義清

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甲斐源氏 源義清
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
さて、義清は新羅三郎義光の第三子で、刑部三郎・武田冠老と号した。『吾妻鑑』には安田冠者とも記している。刑部三郎とは刑部丞義光の三男ということであり、『武田系図』などによると、義清は承保二年(一〇七五)四月の生まれとなっている。『小笠原系図』には近江国志賀御所で出生したとある。四九歳で出家し、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没したとある。しかし義清開基の若神予・正覚寺の牌子には法名を「正覚寺殿陽山清公大居士」、久安元年の没としており、その没年に四年のずれがある。長兄は刑部太郎・相模介と号する義業(常陸.佐竹氏祖)であり、弟に刑部四郎・平賀冠者盛義(信濃・平賀氏祖)らがいる。
甲斐源氏武田の発祥地 常陸国那賀郡武田郷
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。
義清がはじめ武田冠者と号したのは、さきの任地が常陸国那賀郡武田郷に拠ったからであるとされ、一子清光とともに常陸国三の宮の神領を犯して濫行したことにより甲斐国へ配流された。ここで武田氏の出自は常陸・武田郷よりの発祥説が生じているのである。ただ常陸国における義清.清光の父子濫行説については、義清の甲斐入部を天永年間とし、また清光の出生を天永元年とした場合、年代的に合わないことにもなるのであるが、いずれにしても、この義清が甲斐源氏のなかで最初に甲斐に土着した人物(磯貝正義氏著『武田信玄』)と目されているのである。義清の甲斐入部は平安時代後期の天永年間(一一一〇~一一一五)ごろと推定されており、はじめ市河荘・青島荘の下司として市川・平塩岡(市川大門町)に居館を定めた。のちに逸見の地へ移り、大八幡・熱那・多麻などの荘園を掌握し甲斐源氏の基盤を築いた。義清がのちに逸見冠者と称したのはこのためであろう。
ところで、この義清が甲斐に入国したのは國司としてではなく、前述のよう常陸國における濫行の罰を蒙って流罪されてきたという説の一つの根拠となっているのは、
「尊脾分脈」に「配流甲斐国市河庄」と記されていることからであるが、
これに対して、「二ノ宮系図」は「甲斐ノ目代青島の下司」として入部したと記されている。
「甲斐国志」も古跡部で「義清流罪説」に疑問を投げかけており「京師ヨリ出デ外土ノ宰トナルヲ左遷、左降トイフ、義清初メ官ヲ授カリ市川ノ郷ニ入部シタルヲ誤リテ、京師ヨリ遷サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ、「二宮系図」ニ、甲斐ノ目代青島ノ下司トアルヲ得タリトス、即チ市川ノ下司カ云々」
と記して流罪説には否定的である。



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