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川を捨てた勝頗 (「川は見ていた」島田一男氏著より)

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川を捨てた勝頗


 釜無川水源地帯(「川は見ていた」島田一男氏著より)


 釜無川はまぼろしの川。法規上は存在しないといった。現実に、笛吹川への合流点                   に近い中巨摩郡甲西町と西入代郡市川大門町とを結ぶ三郡橋から、最上流の山梨県北巨摩
郡白州町(現北杜市白州町)と長野県諏訪郡富士見町にまたがる国界橋まで、そのあいだの大きな橋のたもとには、一つ残らず″富士川″と書いた標示板が立てられている。しかし、その沿岸の町村の人々は、依然として″釜無川″と呼んでいる。時には、″富士川″では通用しないこともあるほどである。(筆註―昭和46年当時)
 東京では地番整理と同時に、町名の変替が行なわれた。江戸以来四百年間馴れ親しんだ町名が、東上野、西新宿、外神田などと味気ないものとなったが、わずか二年余りで、もうもとの町名では手紙が届かない。郵便配達ばかりか、警官にも、タクシーの運転手にも旧町名では通用しない。
 これに比べて、釜無川が法規上富士川に統合されて三十年以上もたっている。東京の植民地性と、地方市町村の土着性の違いであろう。
 南アルプス赤石山脈の鋸岳は、甲斐駒ガ岳の北西。尾根伝いに行けば四キロ余りである。その北斜面の沢から富士川は出ている。川伝いに水源へ辿り着く道は開発されていない。したがって、道路状況や宿泊施設の点から、まず甲斐駒に登り、鋸岳へ移。これが富士川源流探索の常識になっている。
 鎗岳は標高二六〇〇メートル程度の山である。富士山の三七七六メートルに比べれば一〇〇〇メートル以上も低い。甲斐駒でさえ二九六六メートルであるが、この山は初心者はもちろん、登山の中級者クラスは入山しないように赤信号が出ている。

その名の示すとおり、鋸の歯のような岩稼が重なり、南アルプスでは特異な山だからである。したがって、沢を出た富士川の源流は岩肌の裂け目を縫い、白い渓流となっていっきに甲信国境を北へ走る。やがて、東に雨乞山、西に白岩岳を眺めるころから、流れはややゆるやかとなって、釜無山の断層崖の下へ出る。

 釜無山は長野県の富士見町に入っているが、標高は二一一六メートルで、赤石山脈の北の端になっている。
「日本地名大事典」によると、「釜無川は釜無山に発して北東に向う」と書いてあるが、釜無川の水源が鋸岳である以上、これは間違いということになる。
 釜無山と釜無川であるから、当然釜無川の水源は釜無山と考えるのも無理からぬことであるが、長野・山梨両県の河川課に確かめても、全然関係ありません……と、まったく同じ答であった。                                          
 無関係で同じ″釜無″を名乗るのはおかしいではないか、などと開きなおるのは野暮というものであろう。そもそも富士川は富士山から発していないのであるから……。
 釜無山の東麓、釜無川の西岸に、釜無という小さな部落もある。このあたりまでは、国道二○号線信州往還からどうにか車で入ることができる。が、普通は武智温泉どまり。あとは歩いたほうが無難だし、景色もすばらしい。
 武智温泉は中央本線富士見駅から四キロ。共同浴場一方所のひなびた山間のいで湯であるが、いわゆる富士見高原の南端ともいえるところで、釜無川渓谷を探勝する絶好の足場であろう。清列な釜無川の流れは早い瀬をなして爽やかな音を響かせ、晩春から初秋にかけては、いろいろな野鳥の声を楽しむことができる。
「このふしぎな『おもむき』に、大げさにいうと、かぎりなき『時』のながれを、しみじみと感じて、しばし、夢みるような心もちに、なった。」
 とは、宇野浩二作「富士見高原」にある釜無川渓谷の描写である。
 釜無川は武智温泉からほんの一キロほどで白州台地の北端に達し、長野県側の瀬沢の集落を前にして大きく湾曲し、ここからは甲府の西側にある龍王町まで、ほとんどカーブらしいカーブもせずに、南東へ流れる。と、喚いているが、手の出しようがない。なにしろ、ゴロン、ゴロン、ゴロン、ゴロンと、押し流されてくる大きな石が、まるで雷のような音をたてて、ただ恐ろしゅうて、足がすくんでしもうた。」
 大洪水を幾度か経験したという老人は溜め息まじりにこう語った。

 見渡す限りの泥海。これを甲府盆地にあふれた湖水伝説に結びつけることは牽強付会の独断であろうか。向山土本毘古王や僧行基の富士川切り開きは湖水を美田にするためではなく、沃野を護るための治水.の努力であったと考えるのは、こじつけに過ぎるであろうか。

「郷土誌大系」(清水書院)山梨篇は、つぎのように述べている。

「山梨県に特に洪水が起りやすく、しかもその被害が甚大なのは、次のような原因による。
(イ)まわりが高い急な山地であり、盆地の水系は富士川に集中する。だから大雨のときは短時間で広い地域の雨が甲府盆地に集まる。
(ロ)河川が急で、大雨の時はことに水の勢が強く、大石や砂礫を流し出す。(ハ)多くの川は、河床が平地より高い天井川で、河床が年々高くなり、堤防がその役を果たしにくくなる。
(ニ)地質の関係で、地盤がもろく、山崩れなどが起きやすい。
 甲府測侯所が設けられたのは明治二十七年だというが、同測候所の記録によると、昭和十年までの四十年間に三十三回の暴風雨、集中豪雨があり、その度ごとに釜無川が、笛吹川が、つまり富士川が暴れて被害を出している。大体三年に二回強の割合であるが、どちらかというと、暴風雨のときよりも、風を伴わない豪雨のときに恐るべき大洪水をひき起こしている。
 そして、平均十年に一回の割で最も悲惨な水魔の爪あとが甲府盆地に刻まれることを、測候所の記録は示している。
 
 「山は石垣・川は濠」治水に力をつくした信玄(「川は見ていた」島田一男氏著より)
 

古来、「河を治めるものは天下を治める」といわれている。天下をとる、とらぬは別とし

て、治山治水が民心把握の道へつながっていたことは確かである。
 されば、湖水の水を切り落とした向山土本毘古王物語も、国司としての笛吹川、富士川の治水の功績が伝説化したものと考えられるのであるが、「日本土木史」はこのほかに、景行天皇の四十三年(一一七年)に、甲斐の国に入られた日本武尊が洪水に出会って治水工事を指図され、また淳和天皇の天長二年(入二五年)、甲斐の国に大洪水あり、ほとんど湖水のようになったので、勅使がはるばると甲斐まで出向いて水防の祭りを行なった。と述べている。為政者として当然なすべきことをしたのだ。ともいえるし、為政者として、民衆慰撫のための手段であったとも考えられる。
 行基は決して天下を狙って富士川を開いたのではない。もともとが百済系の帰化人で、中国・朝鮮のすすんだ土木知識を身につけていた行基は、年中諸国を歩き回り、水路をつくり、堤を築き、橋をかけ、道路を開いている。それが、土地の人々にどんなに感謝をされ、同時に布教に役立ったかは、想像にあまるものがあろう。
 事実、山梨県下の古寺院の創建由来を見ると、行基の開創というものが一番多く、弘法大師開基をとなえるものをはるかにしのいでいる。富士川汚水につくした行基への民衆の帰依がいかに深いものであったかを物語っていよう。
 だが、「日本土木史」は、富士川に於ける治水の施工としては、甲斐の国主武田信玄を以て囁矢とし、以後甲斐を領するもの、みな武田氏の遺法によって遭切なる水利の法を講ぜり…と、述べている。言い換えれば、上古以来、いろいろと語り伝えられている治水利水の物語には信憑性がなく、遺跡・記録などの裏付けがあるのは、室町時代―武田信玄以後であるというのである。
 確かに武田信玄は富士川の治水に心を使っている。その第一回は天文十一年(一五四二年)の大洪水のあとで、甲府盆地をめぐる数カ所の堤防、護岸の工事を始めると同時に、水源地帯の森林を保護する山法度なる林制を布告している。
 このときの防水工事は、いわゆる甲州軍学から割り出したもので、決して釜無川の流れにさからわず、要所々々に霞堤というのを設けて水の勢いを弱くし、重点的に水の当り場を定めて、そこには頑丈な護岸工事を行なったのであった。
 その霞堤は四百三十年を経た今日もなお中巨摩郡龍王町の釜無川畔に現存して信玄堤と呼ばれている。天文十一年といえば、信玄が父信虎を追放して自ら甲斐の国守となった翌年で、時に二十二歳である。                                          
 信玄はその後も、二十年間にわたって堤防の増改築を行なったり、釜無川の支流御勅使川の合流点を付け替えたり、常習水難地域の農民を水除け堤の地方へ強制移住させて夫役や年貢を免除するなど、いろいろの手を打っている。


 信玄曰く「富士川は戦略の川」(「川は見ていた」島田一男氏著より)


「農は国のもとなり」で、農政強兵策をとらねばならなかった戦国大名としては当然のことといえば当然のことであるが、果たして信玄は農民を水難から護るため、甲斐の穀倉地帯 を確保するためだけの目的で富士川を、さらに上流の釜無川や笛吹川を眺めていたのであろうか。

ここで、さきに述べた言葉を再び繰り返してみる。山梨県にとって、富士川とはどんな

 川であったか。この質問を、今日の山梨県人を代表する幾人かの人々に向けてみたが、 申し合わせたように、「さァ~」と、首を傾げた。それからしばらく考えてから、いろいろ
な答が開かされた。
 曰く、富士川は今日の果樹王国山梨県の育ての親である……。
 曰く、東の甲州街道、西の富士川は、甲州と他国を結ぶ二大路線であり、甲斐の経済と文化の動脈であった……。
 曰く、過去はともかく、現在の富士川は東海第一の電力資源である……。

曰く、甲州商人の根性を鍛え、いわゆる甲州財閥を築いたのは厳しい富士川の影響力である。          

さて信玄である垂川をどう見ていたであろう。「甲陽軍鑑」は武田流(甲州流)軍学の中心で、戦国時代の軍事・政治の哲学書とさえいわれているが、それに、つぎのようなことが述べられている。

「信玄、手柄は、若き時分より他国の大将をたのみ、馬を出させ、両旗をもって、弓矢を取りること、一度も無し。まきたる城をまきほぐしたること、一度も無し。味方の城をひとつとして、敵に取りしかれたることなし。甲州のうちに、城郭を構えへ、用心することもなく、屋敷構えにて罷り在りたり。」
 要するに信玄は常に独力で他国と連合したことはないし、包囲した敵城の囲みをといたこともないし、味方の城を故に奪われたこともない。甲州には城を構える必要もなく、甲府の本拠地もただの屋敷だった。という意味であるが、これを突っ込んで考えれば、勝ち目の無い戦いは絶対にやらないし、やるときには必ず攻めて出て、甲州では戦わないということになる。

武田信玄とは、徹底した合理主義者であったといえよう。その信玄が、

人は城 人は石垣 人は濠

惰は味方 仇は敵なり

などと、極めて理想的な格言めいた歌をつくっている。もっともこれは信玄の作ではなく中国の古典兵書にある「衆の心は城をなす」という故事成語の焼きなおしだという説もあるが、一応は信玄の作として「甲陽軍艦」やこの歌のとおり、甲斐の国には城をつくらなかったかというと、とんでもない。

「日本城郭全集」によると、山梨県には二百二十五の城跡がある。もっとも、すべてが天守閣が聳え立つ、いわゆるお城の跡ではない。館と呼ばれたもの、さらに蜂火台を持ち、監視硝的な役割を果たした砦というものまで含まれている。
と同時に、これらの二百二十五城が、すべて信玄によって繁れたものでもない。築城年代
も沿革もわからぬ鎌倉時代以前のものや、武田家滅亡後、徳川時代に入ってから築かれたものもある.
この中から、信玄にかかわりのあった思われるものを拾ってみると少なめに数えても百に近い数字を示している。しかもそのほとんどが富士川の上流、釜無川と笛吹川の沿岸に配置されている。
 そこで信玄の富士川に対する考え方であるが、彼は、「富士川を戦略の川」と考えていたと判断してよさそうである。


 甲州の歴史を左右した武田氏(「川は見ていた」島田一男氏著より)


 甲州は山国である。甲斐という文字は、「古事記」・「日本書紀」・「続日本紀」などにも現われているが、別に、村彼・歌斐・加比と書いて″かひ″と読ませているものもある。したがって、甲斐という文字には特別の意味はなく、″山間の国″ ″峡の国″という意味から生まれた地名と見られている。
 ついでではあるが、山梨という地名にもふれておこう。「山国なのにヤマナシ県とはこれいかに」と、落語の頓智問答でよく聞かされるが、この由来にはいろいろあってまだ定説がない。山梨という地名は、奈良時代の記録から現われているが、平安朝中期の大漢和辞典ともいうべき「和名抄」には、「甲斐の国に山梨・入代・都留・巨摩の四郡あり」とあり、山梨が甲府盆地一帯であることを説明している。ところで、
  甲斐がねにさきにけらしな足ひきの山梨岡の山梨の花(夫木集 能因法師)
 この歌でわかるように、むかしは甲斐一帯には山梨が繁り、春になると白い花が一面に咲いたようである。千年前の宮中のできごとを記録した「延喜式」にも、「甲斐の国から青梨五担が貢物された」と書き留められている。これらのことが都人のあいだに語り伝えられ、巨摩や都留は忘れられて、「甲斐は山梨」いわれるようになったとみなす説。
 また、「甲斐国誌」が述べているように、山梨は山無しであるという説。四方を山に囲まれてはいるが、甲府盆地だけは広々として山がない。ここには山が無い、盆地に立って四面を見廻したおおむかしの人々の感動の言葉が山無しであり、山梨に転じたのであるというのである。
 さらに、山梨は〃山ならし″の転誰であるという説もある。甲府盆地は、「神々のカによって開拓され、地ならしがされた」という考え方である。
 とにかく、甲斐の国では奈良朝時代から山梨の郡が中心であった。国府(春日居)、国街(一宮)そして国分寺(一宮)も置かれたし、大化改新後の条里制がひかれると、一条荘はいまの甲府付近に置かれた。
 やがて荘園時代に入る。甲斐の武士団の黎明であるが、それでも荘園は国府を中心に四方に散らばり、甲斐の国政は形式的ながら国府の手に握られていた。                               
 ところが、長元四年(一〇二二年)に源頼信が甲斐守に任ぜられて、甲州と源氏の深いつながりがはじまる。頼信は清和天皇の皇子貞純親王の子経基王の孫である。いうなれば頼信は清和源氏の直流であるが、その子が頼義、孫が義家と義光。わかりやすくいえば八幡太郎義家と新羅三郎義光である。
 この新羅三郎義光も甲斐守に任ぜられた。「甲斐国志」によると、「相伝う、若神子は新羅三郎義光の城蹟なりという」と述べている。若神子は現在の北巨摩郡須玉町の中心集落から釜無川を控えた要害の地へ移ったということになる。
 義光から四代目の源太郎信義は、若神子の城よりひとまわり大きい城を釜無川の西岸武田村に築いて移った。「甲斐国古城跡誌」には、北巨摩郡武田村に武田城の跡がある。石垣の長さは三、四町ほどであろう。この城跡には菱形の芝が生えている、という意味のことを述べている。この場所は現在の韮崎市神山町武田で、土地の人は″桜の御所″とか〃お屋敷”と呼んでいるが、そういうだけで城の跡ははっきりしない。だが、武田家にとっては大変由緒のある土地で、この城へ移ると同時に信義は武田の姓を名乗っている。                          
 だが、武田城は信義一代きりで、その子信光は石和に館を築いて移った。再び笛吹川のほとり、というより甲斐のまん中へ戻ったと見るべきであろう。武田家はここで十五代を過ごし、永正十六年(一五一九年)信虎が古府中城跡躇ガ崎館へ移り、信玄、勝頼と、武田家の最盛期と終末期を迎えることになる。
 最盛期とはもちろん信玄時代であるが、NHKの「甲州風土記」は、
「甲州には信玄伝説というのがある。武田の話となり、信玄の話となると、どうしてこんなに山梨県人は観念的になるのであろう。山梨にはじめて入った人が必ず聞かされる言葉に----人は城、人は石垣、人は濠----の一首がある。信玄は六報・三略・孫子・呉子などの支那学に心酔していたようであるから、こうした信玄の歌といわれるものが生まれてきたことは、うなずかれるが、いきなり「信玄は城をつくらなかった」というふうに展開して物を見てしまっては、郷土史の解明はつかない。」
 と述べ、「甲陽軍鑑」の研究家吉田豊氏は、
「信玄は父信虎を追放してから、西上の途中に死ぬまでの三十二年間、絶へず甲州の外に軍を動かし、甲州国内には一度といえども敵の侵入を許さなかった。これは信玄の積極戦略の反映であると同時に、領民の支持を受けているといふ自信、国の周辺がすべて天然の瞼路でさえぎられ、甲州一国がさながら一大城郭とも云うべき条件によるものであった。」
 と、書いている。
 皮肉な見方をすれば、信玄はひそかに苦笑いをしていたかもしれない。「人は石垣、人は
 濠」といえば、軍団は鼓舞され、士気は高まる。が、信玄自身にとっては、「山は石垣、川は濠」といいたいところだったのである。
 山は、南の富士連峰を始め、北西に延びる日本アルプス、北東に大手を拡げる関東山地、まさに万丈の石垣である。

そして川は、富士川、上流の釜無川、支流の笛吹川、激流岩を噛む大濠である。この山々の尾根と川岸の断崖に城を築き、砦と蜂火台でこれをつなげば、一兵たりとも敵を甲斐の国へ入れることはできない。信玄はそう確信していたにちがいない。


 実は数多くの城を築いている信玄 「川は見ていた」島田一男氏著より


 では、まず釜無川沿いに上流から、信玄ゆかりの主な城をいくつか拾ってみよう。
  • 蔦木城(北巨摩郡白州町武川)(?)

文字通り甲信国境の城である。眼下に釜無川が流れ、対岸に向かって右側は山梨県の小淵沢町であるが、左側は長野県の富士見町である。信玄は武田衆十二騎(?)の一人葛木越前守にこの城を護らせていたというが、いまは雑木林に包まれた丘陵である。

  • 笹尾城(北巨摩郡小淵沢町下笹尾)
 武田家の勇将笹尾石見守の居城といわれる。大門岳口、諏訪国警備に重要な拠点である。
  • 教来石城(北巨摩郡白州町)
 武田二十四将の一人、馬場美濃守の居城。「北巨摩郡誌」 に「西方台地に城址あり。陣場、追手、裏門、御城坂いまなお残れり」とある。
○ 中山城(北巨摩郡武川村三吹)
 三吹の西方、釜無川を見下ろす中山の項上にあり、広さ一五〇平方メートル、甲州の要衝として武川衆が守備していた。
 あまりだて
  • 甘利館(韮崎市旭町上条北割)

現在甘利山大輪寺の境内が旧城跡。東西一五〇メートル、南北約三五〇メートル。

  • 鍋山城(韮崎市神山町鍋山)
 二十四将の一人穴山梅雪の居城とされている。すぐ目の下を釜無川が流れている。
  • 勝山砦(北巨摩郡双葉町宇津谷)
 信玄自ら指揮して築いたと伝えられている。釜無川と塩川の合流点の東側にあった。
  • 金丸城(中巨摩郡八田村徳永)

城跡はいま長盛院の境内。「中巨摩郡誌」によると武田十二人衆の一人金丸筑前守の居城。釜無川が甲府へ最も近づく地点に当たっている。

  • 秋山城(中巨摩郡甲西町秋山)

釜無・笛吹合流点の西側に当たり、二十四将の一人秋山信友の所領。現在は熊野神社の境内。

 つぎに、笛吹川が戦略上どのように重要視されていたか、これも上流から眺めてみよう。
  • 荻原城(東山梨郡三富村下釜口城山)

武田家の臣荻原常陸介が守った城。蜂火台もあり、秩父連山雁坂峠方面に対する最前線の城であった。笛吹川の西側断崖上である。

  • 浄居寺城(東山梨郡牧丘町城古寺)

笛吹川に臨む窪平からわずかに入った要害の地。武田家の将大村但馬守がこの城を護り、武田家滅亡に際しては、勝頼自刃後も徳川勢と戦い続け、玉砕している。

○ 平城(塩山市下萩原)I笛吹川の支流重川の断崖を利用した要害城であるが、現在は空濠の跡がわずかに残るのみ。二十四将の一人三枝守友が入城していたと伝えられる。
○ 栗原館(山梨市栗原) 
 武田の一族栗原左衛門尉信盛が死守して徳川勢と戦ったが、勝頼白刃と知って降服し、家康につかえた。笛吹川の東、甲州街道の要衝であったが、現在は土塁と空濠の一部を残しているのみ。
  • 春日館(東入代郡石和町)

笛吹川に臨む東広岡というところにあると「甲斐国志」は述べている。二十四将の一人高坂弾正があずかっていた。

  • 勝山城(東入代郡中道町上曾根)
 笛吹川の東に饗えていた山城。築城は古く、信玄以前に武田家はこの城に拠ってたびたび敵を防いでいる。また信玄亡きあと、甲斐に侵攻した家康はこの城の重要性を考え、服部半蔵に命じて伊賀組をもって守らせたという。笛吹川の渡し場に近く、天守台の地名が残っている。
  • 一条城(西八代郡三珠町上野)
 信玄の弟一条右衛門大夫の居城。徳川勢とよく戦ったが力及ばず落城した。笛吹川と釜無川の合流点に近く、よくその地形を利用し、北は絶壁である。現在、馬場、門前、物見塚などの地名を残し、本丸跡には牛頭天王の社がある。


実は数多くの城を築いている信玄 「川は見ていた」島田一男氏著より 富士川の本流、釜無・笛吹合流点から下流


  • 下山城(南巨摩郡身延町下山)
 合流点に近い富士川の西岸。「甲斐国古瀬跡誌」 には、下山城は五丁四方ばかり。屋敷跡一カ所。右は穴山梅雪陣屋跡と申候、と記載されている。
  • 帯金城ハ南巨摩郡身延町塩の沢)
 富士川の東岸で、本城坊という山を利用して築城されたという.代々帯金氏が護っており、信玄時代は帯金兵部介が入城していた。
  • 南部城(南巨摩郡南部町南部)
 要害の山城であった。東に富士川、北には支流船山川、南にも支流戸栗川が流れている。初めの築城は後に奥州へ移っていった南部氏であるが、信玄時代は穴山氏が守将となっている。現在、木戸と呼ばれている地点がかつて城門のあったところといわれている.
  • 福士城(南巨摩郡富沢町福士)
 二十四将中の名将原大隅守の居城といわれているが、記録も残らず、城跡もはっきりしない。
 以上の二十城は、「日本城郭全集」 「笛吹川」 「甲州夏草道中記」その他に記載されているものの中から選んだ甲州の代表的古城であるが、信玄はこの五倍以上の城、館、砦を構築している。
 富士川の本支流沿いに並んだ古を数える城塞は、一発の蜂火によって、たちまち全領内に敵の動静を伝えたにちがいない。
 あるひとはいう、城には角櫓というものがあり、出丸というものがある。信玄公にとって富士川沿いの城は、椿や出丸に過ぎなかった。「人は石垣、人は濠」の歌は決して嘘ではないと。 信玄伝説を信じている人々、信玄びいきの人々のイメージを、むきになって打ちこわす必要はない。


  信玄が初陣をかざった瀬沢の地 「川は見ていた」島田一男氏著より


 「天文十一年壬寅二月中旬に、信濃の国の大身衆、小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曾義康殿、尽く申合せ、甲州武田晴信公、退治いたすべきとの評議の事、甲府へ聞こえ、武田の家老、板垣信形、飲富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守、其外皆々家老衆、足軽大将、弓矢功者の武扁者、打寄り談合仕る。」
 「甲陽軍鑑」天文十一年の項の書き出しである。信玄(晴信)はその前年天文十年(一五 四一年)六月十四日に父信虎を甲州から追放して、自ら甲斐の大守となっているから、十一年 二月中旬といえば、信虎追放からわずか入力月後のことである。時に信玄は二十二歳。
 甲州周辺の豪族四氏は、武田家の内部紛争に乗じて、一気に甲州を攻略しょうと協議を続けていた。これが、信玄が甲州の実力者となって最初の合戦となった瀬沢の戦の発端である。
 信玄の前に集まった老臣・重臣たちは、協議の結果、隣国の大々名今川義元に応援を求めること、甲斐国内、つまり本土決戦を行なうことを進言したが、信玄は首を横に振り、忍びの者三十人を敵側に放って情報を集めると同時に流言を流させた。信州諏訪の豪族諏訪頼重たち四人はすっかりこの謀略にひっかかってしまい、甲信国境瀬沢に一万数千の軍
兵を集め、三日間の休養を命じた。
 このことは、即刻忍びの者から信玄へ報らされた。天文十一年三月八日、春の遅い富士見高原には、やっと梅の花が開き始めていたという。                                      
 信玄は直ちに全軍に進発命令を下し、一隊は韮崎方面に、一隊は釜無川を渡って武川方面へと向かわせた。兵力は二隊合わせて八千であった。敵の半数である。
 甲州勢の奇睾攻撃は、翌九日の朝、川霧が晴れるのと同時に敢行された。それから、六時間。兵をまとめては突ッ込み、まとめては突ッ込む。甲州側は九回にわたって突撃を繰り返し、連合軍側の戦死者実に千六百二十一人、負傷数知れず。信玄は大守とし、最初の戦いに大勝利をおさめたが、このため瀬沢付近は一面血の海と化し、その後しばらくの間は血ガ原と呼ばれたという。「信州せさわ(瀬沢)合戦とは是也。信玄公二十二歳の御時なり」と「甲陽軍鑑」は結んでいる。


 甲信ルートの要衝だった小淵沢 「川は見ていた」島田一男氏著より


 その瀬沢の前から国界橋をくぐると、釜無川はいよいよ山梨県の川になり、東側に小淵沢町、西側は白州町となるが、この二つの町民の釜無川を見る目がまったく違っている。
 白州町は釜無川がなければ生きていけない。灌漑用水、飲用水など八○パーセントまで
は釜無川の水に頼っています、と、町役場ではいう。ここの米はうまい。また養蚕は江戸時代からの換金農業である。その稲も桑も釜無川の水が育ててくれる。                            
 と同時に役場では、「釜無川は恐ろしい川です」ともいう。白州とは、白い花崗岩質の
赤石山脈から流れ出た釜無川の支流流川、濁川、田沢川、尾白川の扇状地帯にできた町。
白い洲の町で白州という町名が生まれたのであるが、これらの川はいずれも二〇〇〇メートルから一二〇〇メートルの山岳地帯から直滑降で流れてくる川丈の短い急流であり、一度台風や集中豪雨に見舞われると、たちまち大量の水を母川の釜無川へ吐き出して増水し、しばしば逆流する.
 しかも対岸は入ガ岳の麓から韮崎まで軽々と続いている七里岩の断崖である。釜無川の水はすべて白州町側へ溢れてくる。
「早い話が、生きるも死ぬも釜無川次第ということになります。」
 そういう白州町に比べて対岸の小淵沢町は釜無川に対して極めて冷淡である。七里岩の台地にある関係上水害の心配はない。また、農業用水は全部入ガ岳の水系から取り入れ、飲用水は伏流水をポンプアップしている.
「したがって、わが方の観光施策は八ガ岳一本槍です。このごろは国界橋近くの東電の取り入れのため釜無川は流量もへり、水は濁り、アユもあまりかかりませんからなァ。」
 小淵沢町役場の観光課は釜無川に何の関心も示さないが、それは今日の考えかたであり、少なくとも釜無川をわが城郭の濠と考えていた信玄の判断は違っていた。その証拠は、輩崎から小淵沢へ出で、つぎに甲信国境を越えて釜無川右岸の蔦木へ通じる道は、むかし″中の棒道″と呼ばれ、信濃攻略のために信玄が築いた軍用道路であり、この道のために小淵沢領交通の要衝として、現在とは比べものにならぬにぎわいを見せたのであった。
 もし、釜無川という外濠、七里岩という石垣がなかったとしたら、信玄は別の作戦道路を考え、〃中の棒道″も存在しなかったかもしれないし、小淵沢という町も、入ガ岳山麓の単なる小集落に終っていたかもしれない。
 戦略家信玄は、さらに対岸教来石(白州町)に築城して勇将馬場美濃守を主将として配置している。対信州作戦上、彼が〃中の棒道″をいかに重要視していたかがうかがえよう。教来石は、その上、日本武尊が東征に際して足をとどめたところであり、その北五〇〇メートルの山口には徳川時代番所が置かれている。
 いずれにしてもこのあたり、八ガ岳山塊と赤石山脈に挟まれ、釜無川沿いの狭い平地は甲信二カ国を結ぶ重要な交通路であったわけであるが、むかしの信州往還はいま国道二十号線となり、往来する車は凄まじい数字を示している。
 この釜無川に沿った国道は、教来石から白州町の中白須、武川村の牧原、韮崎市郊外の円井を経て穴山橋で釜無川を渡り七里岩の下へ出る。途中、白須の台ガ原は王朝時代甲斐の黒駒を育てた朝廷直轄の御牧の一つであり、その裏に聳える武川村三吹の中山は武田武川衆が立てこもった山城の跡、さらに円井には釜無川西岸に一千ヘクタールの新田を潅漑した徳島堰の取入口、少し離れて三吹(武川村)万休院の舞鶴松、山高(武川村)の日空の神代桜など、たずねるに足る名所・旧蹟・名物は多いが、国道を突ッ走る車はとまらない。いや、止まれというほうが無理かもしれない。車の大半はトラック。しかも釜無川の砂利を満載している車が目立つ。
 穴山橋を渡り、環状式になった舗装道路を辿り、七里岩の上に登ると穴山(韮崎市)の町である。ここから、武田家滅亡の悲話を残す新府城跡は近い。
 七里岩は、標高五〇〇メートルであるが、西側の釜無川側は文字通り切り立ったような絶壁で、釜無川の水が黒くよどんで気味が悪い。東には釜無川の支流塩川が流れ、これまた川岸は断崖である。北は入ガ岳の山魂、南は釜無・塩川の合流点。まさに天下の要害といえよう。

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