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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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幸村、家康の誘いを拒絶 真田信尹、家康の使者となり説得

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家康の誘いを拒絶 

『名将言行録』記
 大阪冬の役で、幸村は天王寺口の出城(真田丸)を守った。前田利常の軍勢がここをしきりに攻めたてた。士卒は勇みに勇んで、
「ここを突いてでましょう」
と願いでたが、幸村はそれを制して許さず、門を閉じ、柱に寄りかかって、黙然とまるで眠っているようであったが、前田勢がまさに城中に乗り入ろうとするときになって、幸村は大きく叫んで士卒を励まし、
「敵をみな殺しにして、武名をあげるのはこの一挙にあるぞ」
といって、弓銃をいっせいに放ち、刀・槍とむに刃を並べて討たせた。前田勢の死傷者は千余にも及んだ。幸村はこの小さな出城にいて、敵を四方にうけながらも恐れるようすもない。そのため、敵はみだりに攻められなかったそうだ。
真田隠岐守信尹は、幸村の叔父にあたる。かれが家康の内意をもって幸村のもとにいき、
「その方の軍略は抜群である。その方の武名は天下にとどろいている。秀頼公のお供をしていろいろお世話申してくれるなら、信濃国三万石をつかわそうとのことだが、どうだろう」
といった。幸村は
「まず一族(叔父・甥)の誼(よし)みをもって、こうしておいで下さったこと、まことにかたじけなく存じます。しかし拙者は、去る慶長五年(一六〇〇)の関ガ原の役において家康公の御敵となり、その後落ちぶれて高野山に登り、一人の下僕の情によって命をつないで参りました。ところが秀頼公より召しだされ、領地は賜わっておりませんが、過分の兵を預けられ、担当の場所を与えられ、大将の号までも許されました。これは知行よりもありがたいことです。したがって、約束を破ってお味方に参ることはできません」
といった。
信尹は
「武士というものは忠義によって身をたてるもの。約束を破るということは人の道ではない。しかしわしもこのように 申し伝えて、その方をお味方に誘うということは、わしとしては大御所様への忠なのだ」
といってたち帰り、その経緯を申しのべたところ、家康は
「そういうことであれば、いたし方ない。まことに惜しい武人だ。どうにかして命を助けたいと思ってのことだ。ふたたび参って、信濃一国を遣わすから味方に参らぬかとたずねて参れ」
との命をうけて、信尹は再び幸村に対面して右の旨をのべた。すると、幸村はこれを聞いて
「何とありがたいことでしょう。拙者のような不肖の士に一国を賜わろうとは。生前の名誉は言葉に尽くし難き程です。しかし、いったん約束を結んだことの責任は重いと存じますので、信濃一国は申すまでもなく、日本国中の半分を賜わるとしても、気持ちを変えることはできません。またとくにこの戦は勝利を得られる戦ではありませんので、拙者ははじめから討ち死にを覚悟しております。さてもし御和睦ということにでもなれば、拙者は叔父上のご扶持を蒙りましょう。ただいつまでも戦が続いております間は、気持ちを変えることはできません。秀頼公のお味方をいたします。もはや二度と対面はいたしますま
い。もう決しておいで下さいませんように」
というと信尹も、
「このうえは何ともいたしようもない。これが今生の別れだ」
といって落涙してたち帰り、この旨を家康に伝えると、家康は
「何とあわれな、心にしみる心根か。まさに日本一の勇士だ。父安房守(昌幸)にも劣らぬ男だ」
といって称美せられたという。
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