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真田一族人物像 『歴史と旅』特集「信州戦国紀行」1998 秋田書店 

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真田一族人物像

真田幸隆(さなだゆきたか)

『歴史と旅』特集「信州戦国紀行」1998 秋田書店 
美術評論家 中野中(あたる)氏著 一部加筆
海野(うんの)の海野棟綱の子。
 
永正十年(1513)~天正二年(1574
真田郷に拠り真山弾正忠、一徳斎と号した。天文十年の海野平の戦で村上義清に敗れて上野国山野氏のもとへ逃れ、同十三年、武田信上の配下に組し、信濃侵攻の先方として活躍。同二十年、宿敵義清を戸石城に破り本領真田郷を回復した。その後も信玄の上野国攻略をたすけ、永禄六年(1,563)岩檀城、同八年岳山城、元亀三年(1572)白井城を攻略、天正二年(1574)、六十二歳で病没した。

真田昌幸(さなだまさゆき)

天文16年(1547)~慶長16年(1611
 幸隆の三男。天文二十二年より武田信玄の下に人質として育ち、武田家ゆかりの武藤姓を与えられ、信任厚かった。
 天正三年の長篠の合戦で家督を継いだ長兄信綱と次兄昌輝が戦死したため、真田姓に復した。
天正六年、越後・甲斐の同盟成立により武田勝頼が東上野に侵入すると、昌幸も沼田城を攻略、
同八年には同地を占領して北上野を武田領とした。
同十年、武田氏滅亡後は織田氏に属し、本能寺の変後は北条・上杉・徳川氏と転々と帰属を変え、上野・信濃両国四郡を守り続けた。
同十二年、上田城を築いて本拠とし、
同十七年、豊臣秀吉の命により上野沼田城を北条氏に渡すが、翌年、北条氏の滅亡により回復した。
しかし、慶長五年の関ケ原の戦で西軍に味方したため所領は没収、東軍にあった長男信之の嘆願でかろうじて助命され、高野山麓の九度山に蟄居した。

真田信之(さなだのぶゆき)

永禄9年(1566)~万治元年(1658
 昌幸の子で初名信幸。天正十年、駿府の徳川家康の許へ人質として送られる。
家康の部将本多忠勝の娘をめとり、文禄二年(1593)に沼田城主となる。慶長五年の関ケ原の戦では徳川方に属し、中山道を西上した徳川秀忠に従軍、石田三成方に与した父昌幸と弟幸村(信繁)が籠城抵抗する上田城を攻撃した。しかし落城させることができず、しかもこの城攻めに時日を要したために秀忠軍は関ケ原の戦にも遅れてしまった。
戦後、信之は父弟の命請いをして許された。翌年、父の去った上田城に入り、両度の大坂の陣にも出陣、元和八年(1622)、松代に移封され、高井、水内、埴科、更級四郡と沼田領を領した。明暦二年(1658)、隠居して松代領を嗣子信政に、沼田領を嫡孫信利に譲った。

真田幸村(さなだゆきむら)

永禄十年(1567)~元和元年(1615
昌幸の次男、名は信繁。天正十三年(1585)に上杉景勝の人質となり、
同十五年には父が豊臣秀吉に臣従したのに伴い大坂城へ出仕。秀吉麾下の大谷吉継の娘をめとり、豊臣家との緑を深めた。
慶長五年(1600)の関ケ原の戦では父と共に西軍に与し上田城に籠城、徳川秀忠軍の西上をはばんだ。敗戦後、父と共に九度山に配流されたが、
同十九年の大坂冬の陣には招かれて大坂城に入り、外堀の天王寺口に出城
真田丸を築き縦横に奮戦。翌年の夏の陣でも家康本陣を脅かすなど勇戦したが、天王寺方面での松平忠直軍との激戦に討ち死に。

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