巨麻郡&甲斐の黒駒
参考資料『白州町誌』一部加筆
大化前代の東国は、大和朝廷に対する馬の供給地であり、貢馬が盛んに行われた。甲斐が貢上した馬は、その代表的名馬として「甲斐の黒駒」の名をもって、中央でも語られていたのである。甲斐の黒駒の名声は後世へも伝えられていく。平安時代末期にできた『扶桑略記』にもこんな話が載せられている。
推古天皇六年四月、聖徳太子は良馬を求めて全国に買上を命じた。貢上された数百匹のうちから、甲斐国が献じた「一烏(黒)駒四脚白」(四本の足だけが白く、体全体が黒い馬)を選び、舎人の調使麿に飼育させた。九月になり、太子がこの「甲斐鳥駒」に試乗すると、たちまちに雲の中にとび去った。三日後、帰って来た皇太子は、まず富士山頂に至り、その後信濃をまわってきたと語ったという。
これは他愛のない伝説にすぎないが、六七二年の壬申の乱の原に、大海人皇子側として参加し活躍した「甲斐の勇者」は騎馬兵であり、『日本書紀』)、また天平三年(七三一)十二月には、甲斐守田辺史広足が体黒く、たてがみと尾が白い神馬を献じている。など、古くから馬の産地であったことを思わせる事実も残されている。
このように、甲斐国では大化前代から馬の生産、飼育が行われ、その代名詞として甲斐の黒駒の名が広く通用していたことは間違いないところであるが、その具体的な生産地である牧がどこにあったかわかっていない。古く黒駒牧があったとして、今の御坂町黒駒付近に比定する説があり、黒駒牧そのものの存在も疑わしい現在、この説に従うのは躊躇せざるを得ない。
これに対し、白州町付近が「甲斐の黒駒」の生産地であったという話が伝えられている。
慶応四年(一八六八)のある神社の社記に見ると、
釜無川の水源に神馬の精があるによりて此水を飲んで畜育にあたる駒は必す霊ありと云、又この山より流れいずる水流の及ぶ限りを一郡とす、成人の説によると、平原多くして馬を畜に便利な地なれば他郡よりも多く牧を置かれしと見えて今もそこここに牧の名残れり、されば、駒を産するの地なる故に駒ケ嶽と称し、此山の縁由をもって巨摩郡と名づけしと云えり
とあり、釜無川の発する駒ケ岳山麓が良馬の産地だったという。
荻生徂徠の『峡中紀行』には、駒ケ岳について
聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」が生まれ育ったのが駒ケ岳山麓であったという伝説を記している。
この話は、江戸時代には定着していたようで、他の史書にも
「聖徳太子、金蹄駒を召され、此絶頂に降り玉ふ」
(『裏見寒話』)
「往昔名馬出しと云傅」
(『甲斐名勝志』)
「厩戸王ノ肩駒此山こ産育セルコトヲ預説f一伝タリ」
(『甲斐国志』)
「古時厩戸王の駒此山中より出しと云傅ふ」
(『甲斐叢記』)
と、ニュアンスの違いはあるものの、皆共通として登場する。
しかし、馬が空を飛んだという荒唐無稽な聖徳太子の伝説と結びついたこの話が事実であるわけではない。多分、聖徳太子の伝説の成立後、駒ヶ岳の名称とその山麓に後述するように真衣野牧が置かれた事実を背景として、結合成立したものと思われる。
現在のところ、当地方の馬の飼育が大化前代まで遡る事実は確認し得ないが、御牧としての真衣野牧が成立する以前から馬の生産が行われていた可能性がないわけではなく、今後の考古学の発掘調査等によって新たな事実が発見されれば、この伝説も違った意味で脚光を浴びることになろう。