甲斐の勅使牧(御牧)
- 甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅旨牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅旨牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。
- 『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる
- 甲斐の三御牧とは穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説の比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、適切な資料無い中での比定である。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。
- 雄略天皇13年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長6年(829)のことなので、既に360年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われるが基礎資料は乏しい、多くの歌に詠まれているが?。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平6年(936)で穂坂牧から遅れること170年経過してのことである。
- 貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。10ケ月間調教して明年8月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は8月17日、真衣野。柏前両牧は8月7日と定められた。
- 貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。
- 貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇6年4月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇6年(597)4月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋9月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
- 天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
- また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
- 天平9年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 (『正倉院文書、天平10年駿河正税帳』による』) (『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長4年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。
- さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。
- こうした説は『国志』から始まる。それは
- 「真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々」。
- 『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
- 「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。
- 甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
- 『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる