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真田丸について勉強

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真田丸について勉強
 教材 『真田一族のふるさと』信濃毎日新聞社刊 昭和60
著者 米山一政氏・金子万平氏・柴崎高揚氏著 一部加筆
 

幸村、作戦どおり快心の勝利

 関ケ原戦後、徳川家康は政権を掌握してしだいに統制を強めていく。慶長八年(一六〇三)には征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開設。十年に秀忠に将軍職をゆずり、以後は大御所として実権を握り続けた。
 徳川政権にとって最後まで目ざわりだったのが大坂の豊臣氏で、家康はつねに圧迫を続ける。そしてついに慶長十九年(一六一四)大坂方を挙兵に追いこみ、家康は十月一日諸大名に動員令を発した。ここに大坂冬の陣が始まったのである。
 大坂方では秀頼の名で、太閤恩顧の大名たちに味方になるよう書状を送るとともに、諸国の浪人を集めはじめた。大名たちは結局一人も応じなかったが、尾羽打ち枯らした浪人たちは続々と参集してきた。
 九度山の幸村のところへも使者が来て、厚遇をもって招いた。便者は黄金二百枚、銀三十貫を持参したという。幸村は家族や手兵をひきつれて、勇躍大坂城に入った。
 城内の兵力は十万とも十三万ともいう。しかし寄せ集めの人数では統率がとりにくく、しかも有能な武将が少ないため、思い切った作戦がとれない。

幸村はこれに業を煮やしたか、城の南方の外堀の外に「真田丸」という出丸を作り、守るという作戦に出た。

 関東方の兵力は二十万をこえたといわれるが、十一月中旬には城を攻囲してしまう。家康・秀忠も十七日に着陣、小競り合いを繰り返しながら包囲網をじりじりと縮めていった。家康は一方では城内へ講和の使者をたびたび出してゆさぶりをかけ、和戦両様の構えをとる。
 幸村が築いた真田丸は、一番攻撃の主力が注がれる場所だったので、小さな衝突が絶えなかった。
幸村はここに六千ほどの兵を置いて一歩も退かない。
 十二月四日には初めて本格的な戟関らしい戦闘が行なわれた。関東方の血気にはやる武将たちが、あせって攻撃を仕かけたのだという。四日早朝前田利常の先鋒が真田丸の塀際へとりつくと、松平忠直・井伊直孝らの将兵もー斉に攻め寄せる。しかし城壁や空堀に阻まれてモタモタしているところを、城内からの一斉射撃でバタバタ倒れ、死傷者続出。さらに真田大助のひきいる一隊が打って出て追い立てた。こうして、この日の戦聞は城方の勝利で終わった。
 しかしこの後は大した戦聞もなく、家康の講和交渉が続けられた。城内では秀頼の母・淀君が実権を握っており、優柔不断な論議が果てしなかった。しかし天守閣の千畳敷にまで弾丸がとびこんで、これにびっくりした淀君が講和に応じることにしたのだという。
 十二月十九日、ようやく講和が成立。二の丸三の丸を取り壊す事が条件であった。なお、家康は城内の武将に盛んに働きかけたが、幸村には特に執心したという。叔父にあたる真田信尹をさしむけて徳川方につくよう何度も説得したが、幸村は応じなかった。
真田幸村武者絵
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真田系譜
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大阪城 真田丸はここ
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