素堂と歌舞伎役者中村七三郎
素堂67才 宝永五年(1708)
『梅の時』 中村七三郎追善集、序文と句
いきて人をよろかばしふるほど死して人をなかしふることはり、今猶昔におなじ。
世に名だたる中村七三郎、過にし初三日のよるみまかりけるに、辞世とおぼしくて、梅に種を結びて、一句をのこせり。
かつしかの同郷に追悼のこころざしあり。予もまた泣きをうつされて、
たきさしやそ架の中よりこぼれ梅
といひてさりぬ。かねてより、其人となかをかがなへみるに、風雅の酒落をしたひ、茶人の閑適をうらやみて、その業はひくきにかくるるものならし。
もろこしの何とかやいひし人山林にいらず、朝廷をかくれがとせり。
我日のもとにも髪をそらす、妻を避けず、翁和尚とよばれて、市中人なみなみにまじはり、隠逸伝にいれるも有りけるをや。
縁に随ひてものずきもまた一様ならず。
かくれがの芝居の市に花ちりぬ
衣 ( き )更 ( さら )着 ( ぎ )の日かつしかの隠居 素堂 序
中村七三郎の句
旅日記湯冷め心地に附け終わる (『ホ誌雑詠撰集』)
桜餅下げて出を待つ下手哉
【註】中村七三郎(初代)1662(寛文二年)年生まれ~1708(宝永五年)歿。
市川団十郎と二分する歌舞伎役者で、和事の名人。元禄十一年(1698)に京都で演じた「傾城浅間嶽」は百二十日続演された。
中村七三郎、関連記事 『鉢敲』 素堂序・句
素堂71才 正徳二年(1712)
『鉢敲』 億麿・素白編 「蟻道二周忌追善集」
摂州伊丹の住、蟻道子しきしに五月中の三日に、世を早うすときくは実か、其人を見すとういへとも、茂兵衛そとしりつつあへれ鉢敲といへる句を耳にとどろきて反面をいる人の如し。今きけは五文字弥兵衛なるよし。されとも東部にてひとのよろこひし茂へいにて侍れは、いまさら改るに忍ひす。
予若かりしころ、難波津にて興行
春日の山の下手代めか
藤原の又兵衛とそ名乗りけり 梅翁(宗因)
と付けられしを人々興に侍りき。又近きころ、中村七三(郎)曽我のふることを仕りけるに、朝比奈も今は落ふれて鳶のものとなりぬ。名をも八郎兵衛とあらためけるよし申けれは、見物の諸人興にいりける。自然と其名の相臆せるにや、古今集、初の名を融位、紫式部は始は藤式部、これらは皆後をよろしとす。又後たりとも、茂へいとこそいはまはほしけれ、それはさるものにて、五月十三日竹酔日とかや。亡友芭蕉が句に、
降らすとも竹うえる日や蓑と笠
この句にすがりて
竹植える其日を泣や村しくれ
辛卯の年神無月十三日 東部宿 素堂