**素堂の漢詩文**
山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳斟にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は世を風摩する勢いであった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の良き後援者となり、多くの俳諧人の撰修や茶道書に序文跋文を残し、その数は群を抜いている。後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も一部の研究者を除いて芳しいものではない。
確かに漢詩文や俳諧の作品の多くは、興にのって即興的即吟であるが、中には推敲を重ねた作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝来年の頃だが、これも俳諧集等の序分跋文依頼が多くなり撰集内の句も精錬する必要があった事に根ざしていると考えられる。
素堂は寛文年末頃から俳諧古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や、「用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた」戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが学者素堂の面目躍如を伝えている。
**素堂と芭蕉**
松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗囚が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
芭蕉も最初からこの域に達していたのではない。初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林詞に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。このことは既に「素堂像の考察」・「山口素堂俳諧資料概説」等で述べているから、詳しくはそちらに譲るとする。
素堂と芭蕉の結びつきは一般には唐突である。推察すれば、寛文年の未頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年(1674)に素堂が信章として季吟に会った時には、一通りの併殺者として遇していた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(未詳)の用で上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。(『季吟廿会集』・信章(素堂)難波津興行『鉢叩』序)大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話があり此処で宗因に紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸 「素堂像の考察」で述べたが、季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章 (素堂)の友人である京都の儒医桐山正哲(知幾 素堂と「和漢連句」五十韻あり)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われてに到り、「宗因歓迎百韻興行」には宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に風虎サロンにも紹介されたと考えられる。以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳席に一座していた。
素堂が公職の退身後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達(其角・嵐蘭等)と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。
明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの古文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」 (『素堂鬼貫全集』)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用いて元禄期の『花見車』、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。
*内田不知庵著『芭蕉後傳』
(二)芭蕉の学識修養の項の中で*
「芭蕉は実に此門(季吟)に出づ。洛に住する数年、季吟に教を受けて古しへの俳匠の為るが如く、万葉・古今・源氏・狭衣等の諸典を研鑽しぬ。芭蕉が見地の時流より一等上りしは、一つには此学問あり為めなるべし。勿論学者とし見れば、盛名今に残れる同学者若しくは儒者よりも、造詣深からざりしなるべけれども、無学者も亦一躍して点者たるを得べき俳壇にありては、通常以上の学識ありしが如し」 更に
「且つ当時の古今を崇拝し、源氏を随喜する中に、特に『山家集』と『金塊集』との気韻高きを推し、『土佐日記』を俳諧なりと喝破したる如き眼識の、決して尋常ならざりしを知るべし。殊に季吟が芭蕉の説を聞いて、万葉の一疑を釈きたりといふ逸事の如き、益々芭蕉が題意の読書眼を具せしを証するに足る」。
『土佐日記』で思い出したが、寛文元年の初冬頃、季吟が江戸の知らせで、林春斎が誰とかの注釈『土佐日記』が版本され、その序文を春斎が書いたと知り、季吟が春勝に何か訳るか、と立腹した事が「季吟日記」にあった。
また、「季吟が芭蕉の説云々」の処は。
『芭蕉一葉集』(仏兮・湖中共編 文政十年 一八二七刊)の「遺語之部」に季吟云、「或る時桃青、として載せ、末尾に季吟物がたり素堂より伝ふ」。とある。
なおも不知庵氏は、芭蕉が儒学を伊藤担庵に学んだとし、「山口素堂に益を享けたり。漢土の文芸、殊に経学に精通したる事跡伝らざる上に、林門の一書生にして不熟の悪詩を残せし素堂をすら、詩に精しと称したるほどなれば、造詣の度は想像すべしといへども、白氏を渉猟したるの痕跡は、明かに俳句の上に見えたり。且つ平生杜律を受誦じて―― 中略 ――唐詩は恐らく精読せし処なるべく云々」続けて、「然れども、芭蕉の俳骨を渾成せしは国典にあらず、儒学にあらずして禅の修養なり。芭蕉は仏頂と往来せし日短く――中略――仏頂との往来が正風間創の一導火となりしが如し。門人浪化曰く、仏頂禅師と茶話の詞あり、翁いはく、道心を求めんとするもの、若し市中の匯忙に鮑けば幽谷に隠れん。其初めに飽くものは其終りは寂莫に飽かん。左れば、今日の是非に交りながら、其是非につかはれずして自在に道を得んこと、此俳諧に遊びて名利を圧はんには如かずとなり」――中略――「然れども芭蕉は生涯禅を説かず、常に門人に道義の重んずべきを諭したれども、参禅工意の甚深なる妙趣を説法する事とて勿りき。後人が濫りに「古池の句」に附会して「特別の禅機」を這句裡に示したりと云ひ――中略――終には禅を学ばざれば、芭蕉の句を解する能はずと云ふ如きは、迂戇の妄語云々」
この個所は、本小論の冒頭の命題と同じである。不知庵氏は支考ら説や錦江の説も読んでいた。ただ芭蕉が参禅したのは禅機を得るためでは無い。己の性癖修養のためである。
「学才と眼識とは明かに時流に超えたれども、修養の深浅広狭を以て比ぶれば、季吟の篤学なる、素堂の博聞なる由的の精通なる、其他猶芭蕉に勝る者多かりしなるべし云々」
前にも述べたが、不知庵氏はこの書で(四)芭蕉の性癖及び行状の項に逸しているの だが、持って生まれた性格を分析していなかった点にある。多くの芭蕉論に洩れているのと機を一にしているのである。芭蕉は天才肌であり、軽重浮薄なところがあって、見識が高く、物事に対する自己顕示欲が強く、しかも朝令暮改的要素を含み、我が儘な点で、為に上水道改修水吏を途中で投げ出して深川に隠遁し、己の修養に目覚めて参禅した訳で、諸伝が云うような参禅では無かったのである。確かに人品備わり人を別け隔てなく接し、情が濃やかで人当たりが柔らかくといった良い点は多くある。これが 無ければ多くの門弟たちを厳しく指導しても従わなかったはずである。人柄の温かさがあったのである。
芭蕉の才能を愛した素堂は、出会いからその性格を見抜き、その欠点をそれとなく悟らせようとした。それが「蓑虫説の応答」である。その後芭蕉は素堂の意に反して行動したいたようである。芭蕉は芭蕉で俳文を綴れば素堂に見せて意見を聞くと云った(幻住庵の記まで)事が続いている。
不知庵氏は、「芭蕉が平生愛誦して幻住庵に落柿舎に、或は行脚に折々に携へしとて、明かに知れたるは「白氏文集」「杜子美詩集」「世継物語」「源氏物語」「土佐日記」 「百人一首」「古今集」「古今集序註」「山家集」「応安新式」等なり。其他の国朝諸典は季吟の門に在りしなれば、勿論ひとわたり渉猟せしならん。「徒然草」「方丈記」 宗祇・長嘯等の家集及び謡曲・小唄の如きは、好んで沈読せしかと思はる」 更に芭蕉の俳風で「芭蕉が俳諧の壇上に建し新旗識は不易流行の説なり。此不易論は、芭蕉が多年の修練工風より捉来りし見地にして、単り俳諧の上のみにあらず、自家の安心立命も亦此中に宿せしなるべし。之を俳諧の上に於てせば、不易とは時代の変化に移らず、千古に通じたる風情を咏びしをいふ。曰く、
「万台不易あり、一時の変化あり、此二つに究まる。其本と一なり。其一といふは風雅の誠なり。不易を知らざれば実に知るにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかゝはらず、まことによく立ちたる姿なり。代々の歌人の歌を見るに、代々其変化あり。又新古にもわたらず今見るところ、昔し見しにかはらずあばれる歌多し。是れ本と不易心得べし。又千変万化するものは自然の理なり。云々」(『赤草子」)
この説を唱えるのは元禄二年(一六八九)の奥州北陸吟行(奥の細道)の時であるが、(呂丸の『聞書七日草』)ここでは「天地固有の俳諧説」ではあったが、
素堂は貞享四年(一六八七)十一月に、芭蕉の第一の門人とされる榎本其角の『続虚栗集』に序文を与え、「不易流行説」とは銘打ってはいないが、
『風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず。たれかいふ、風とるべく影ひろふべくは道に人べしと、此詞いたり過て心わきがたし。ある人来て今ようの狂句をかたり出しに、風雲の物のかたもあるがごとく、水月の又のかげをなすに似たり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして、情なきをや。古人いへることあり、景のうちにて情をふくむと、から歌にていはば「穿花挟蝶深見 点水蜻蛉蜒款々飛」これこてふとかげろふは処を得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心とや、まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるべき云々-
続虚栗の序文は後項の「素堂と芭蕉の俳諧論」で、芭蕉の「虚栗の序」(天和三年 1683)と併せて紹介するが、素堂の俳論で重要なのは次の点で、
『花に時の花有り、ついの花あり。時の花はI夜妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむの心ならし。人みな時の兆にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人の師たるもの乱心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さ基さる翁のかたりける事あり。胤の浮巣の時にうき、時にしずみて、風波にもまれざるごとく、内にこころざしをたつべしとなり。余わらひて之をうけがふ。いひつづくればものさだめに似たれど、屈原楚国をわすれずとかや。これ若かりし頃狂句をこのみて、いまなほ折にふれてわすれぬものゆゑ、そぞろに弁をついやす。君みずや漆園の書いふものはしらずと。我しらざるによりいふならく。』