◎ 二十六日、四代将軍家綱の葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。
庚申五月五日
厳有公疾劇なり、継嗣未だ定まらず、館林宰相綱吉卿を召て養子とす。
厳有公、疾日に重くして、世嗣未定まらざりしかば、大老酒井忠清等はかりて、密に京師に請ふて、有栖川幸仁親王を迎へて、将軍になさんとの議あり。
堀田備中守正俊、独り其の議に従はず、親弟館林宰相を以て、義子とせんと請ふ。諸老皆同意せず、此の夜正俊一人、将軍の林下に就て、之を申し、急に宰相を召す。時に忠清以下老臣皆退きぬれば、正俊一名の奉書なり。事尤も急なりければ、宰相は優に曾我因幡守祐人を具し、馳至る。大手門を入る頃、牧野備後守成貞追付たり、夜中の事にてはあり、急なる召、何事ならんと成貞深く危ぶみ思ひしにや。黒書院まで側を離れず、従ひ参る。正俊出向つて先導し、成貞に向ひ、今夜の召は吉事なり、疑懼に及ばざる旨、神に誓つて申せしかば、成貞も始めて心を安んじて退きぬ。
かくて林下に至られしに、正俊独り公の側に侍して直命あり、養子として大任を継がしめんとの旨なりしに、綱吉卿是天下の大事なり。一身を顧みて、徒らに遜譲すべきにあらず、然れども、御疾未だ太甚に至らず、先いかにも御養療こそあらほしきとて、其の夜は神田の邸に還られたり。此の事夜明けて後に、忠清、正則等は始めて之を知りしと云。
六日、綱吉卿登営、病林に就て密命を蒙る。又館林の城は、卿の世子徳松をして相続せしめ、家臣領地旧の如くなるべしとの直命あり。奏者番久世出雲守重之供奉して、又神田の邸に還る。今夜より、大手桜田の南門を警厳す。七日、綱吉卿二の丸に還、忠清、正則等の老臣、正俊も同じく来り迎へて、本丸に至り、面命して、権大納言に任じ、伝家の宝刀(正宗の刀、国光の指添)を授けられ、過て二の丸に還る。甲府綱豊卿、紀伊光貞卿父子、水戸光囲卿父子、及び家門溜詰の大名、皆二の丸に登りて、世嗣たることを拝賀す。八日酉の刻将軍厳有公薨ず。九日、喪を発し、遺命を伝ふ。当時大老酒井雅楽頭忠清、老中稲葉美濃守正則、大久保加賀守忠朝、土井能登守利房、堀田備中守正俊、若年寄松平因幡守信興、石川美作守乗政なり。十日、諸大名登営、二の丸に至りて候問す。是より連日、発引に至りて止む。十三日、前代近習以下の諸臣落髪す(儒髪の者は、羽織袴にて事に従ふ)。十四日、霊柩を発す。北別橋より出でて東叡山本坊に遣る。本丸は堀田正俊、石川乗政留守し、二丸は、側衆内藤若狭守重療宿直す。十六日、日光門跡守澄法親王俄に疾んで粟ず。附弟天真法親王、急に京都より下向あるべきに定まる。二十六日、葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。(云々)