**素堂漢詩文**
(略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。
博学強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って学んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躯を命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで続けられた。
寛永七年、羅山は上野忍ヶ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ヶ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平と改められて、林家は歴代が弘文学士・国子祭酒を継承することになった。羅山もまた五の禅宗に関係していたのである
*素堂の漢詩文*
山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳諧にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は当時の先駆者的立場であった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の後援者となり、後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も芳しいものではない。確かに漢詩文や鑑の作品の多くは興に乗っての即興即吟であるが、中に推敲を重ねての作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝末年の頃だが、これも俳諧集などの序跋文が多くなって来たこと根ざしていると考えられる。
素堂は寛文年末頃から俳階の幽古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や、用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが機を一にしている。