宝永4年富士山噴火資料
「隆砂記」富東一禿著 正徳六年(1716)
読み下し、永原慶二氏著「富士山宝永大爆発」
第一章 六二0年ぶりの大爆発(P34・35)
これ時に宝永四丁亥の年冬十一月二十三日昼辰の刻、大地俄かに動揺して、須臾(シユユ・しばらく)あって黒雲西方より出でて一天を蓋(オオ)う、雲中に声有り百千万の雷鳴の如し、巳の刻ばかりしきりに石砂を雨(フラ)す。大は蹴鞠の如し、地に落ちて破れ裂けて火烙を出す、草木を焦し民屋を焼く、時に雷声有って東西より中途に至りまた東西に別る、これを聞く者数十里のうち己が屋上にあるが如とし、火災なき所は日中猶暗夜の如し、燭を点じてこれを見れば黄色にして塩味有り、まさに憶え三災壊空(エクウ)の時至る、男女老少仏前に座し、高声に仏名を唱え、慇懃に聖経を誦し、唯□(祈カ)臨終速、夜半に至って雲間に星光を見る、識る、天未だ地に落ちず、然りと雖も世界一般石砂従(タトイ)天地有るとも生民何を以てか生命を存せん、なお速やかなる死を欲す。二十四日に至って微明有り、燭を捨て始めて親子の面を見る、雨砂微少にして桃李の如く、二十五日雲中日光を現す、雨砂なお微かにして豆麦の如く、間に桃李の如きあり、前日他方に行きし者帰り家人に告げていわく、これ士峰(富士山)火災なり、富東数郡に及びなお平安の土地有りと、生民これを聞きて蘇息す。資財を捨て重器を忘れ、老衰を扶け幼弱を負い、牛馬を牽き西南に走る、鳴呼悲しい哉禽獣は地無くして飛走(トビサ)るべきに打殺され斃れぬ、
二十六日に至って半晴半暗、雨砂微塵の如く、まま豆麦の如き有り、
十二月初八日に至って雷鳴尽き雨砂なお止む、天気元の如し、国令命を下し、生民を弔い、石砂の深厚を計る、近村遠郷平地山沢おのずから浅深有り、富麓一村は平地一丈二尺、その山岸深沢は人カを以て計るべからず、我が村は富麓の村を去ることわずかに三里、士峰焼穴を去ること九里、なお平地三尺五寸、その山岸深沢は一丈二丈五丈七丈に及べり、士峰の火災それ希有哉、生民の辛苦大いなる哉、降砂の害を恐れ、一旦他方に走るといえども誰か食邑(ショクユウ)の地を与えん、再び砂石の中に帰り、虆梩(モッコ)を以て屋棟の降砂を山沢に除き、水力を仮りて田畠の砂石を川合に流す、累代の重器を売り老親の保養と為す、親愛の幼児を出して他郷の奴僕と為す、況や牛馬眷属に於てをや、ことごとく四方に散じ、砂を払う器具を求む、それ平世三尺の地を平げ一丈の井を掘る、人以て難事と為す、郷に食無く土地に旦夕飢渇の身あるのみ、深厚の石砂を膏腴(コウユ)の良田と為す、辛苦多少なり、余筆記して後世に伝うるものは海水の一滴、九牛の一毛なり、曲暢旁通に至って我れに孟軻子弁有り、班固子筆を与うるも未だ及ぶべからず。