☆素堂と吉野山・西行庵・吉野川
○吉野山 奈良県吉野郡吉野町を中心にした一帯を称し、吉野川に臨み山谷の美で知られ、桜の名所で歌枕にもなっている。また修験道の道場でもあり、吉野朝四代(南北朝期)の遺跡も在る。
大和めぐらせし頃よしの山に人 〔元禄三年〕
をちにミしきのふの雲をけふわけて花になれゆくみよしのゝやま
大和めぐりせし頃よしの山にて
是つらよよし野の花に三日寝て
○西行庵 吉野山の金峰神社の奥の、奥の一と目千本付近。神社より凡そ五百米所に苔清水と庵跡が在る。西行法師は号を円位、俗名を佐藤義清と呼ぶ鳥羽天皇の北面の武士であったが二十三才で出家し、諸国を遍歴して名歌を残した自然歌人で、吉野には建久年間の三年籍もった。付近は桜の名所である。
西行法師の旧庵の跡をたづねて
はなごろもけふきてぞしるよしの山やがて出じのこころふかさを
おなじとくとくの文をむすびて
山かげにひとくくとなくとりも岩もる水のおとにならひて
西行法師
とくとくのおつる岩間の苔清水汲ほすほどもなきすまひかな
○吉野川 吉野の中の千本と下の千本の中程に、殆どが集中しており、後醍醐
天皇が足元元年に足利氏の圧迫により、京都を逃れて吉野山に入って仮の皇居にしたのが吉水院(現吉水神社)後実城寺(元金輪王寺)に移った。天皇の御陵は中の千本の塔ノ尾如意輪寺の後ろ山に在る。
尋問南朝跡 行々遠市塵 前山紅世界 後嶺白雲浮
昔聴降天女 今猶有地仙 臥花南三日 可惜別苔延
どうやらこれにより『是つらよ吉野の花に三日寝て』となったらしい。
同夜興唱句
白雲花燭暈 日月笠を暈といへば(そはしトモ)たはむれにいふ
○吉野川 大台ヶ原山を水源として流下し、和歌山県に入って紀の川となる。
よしの川にて
結に鮎花の雫を乳房にて
此ではさかなにつよくなべしや
『とくとくの句合』では『鮎小鮎花の雫を乳房かよ』としている。