- ●元禄年間の濁川の水害史
- 元禄元年 1678
- 七月二十日
- 大出水、田畑皆損、
- 二十一日
- 人畜死傷あり。
- 八月十日
- 出水、蕎麦皆損、笛吹川唐柏にて切れたる為水引早し。
- 九月
- 唐柏にて八月の切所水留をなしたるを以て雨降らずとも水堪へ少しも麦蒔くるず。
- 元禄二年 1679
- 四月九日
- 出水、麦及中作豆小豆皆腐る。
- 五月二十九日
- 出水、此年は春より雨降り東之野は半分作物蒔きは不能。
- 六月
- 出水、添栗、小豆、等蒔き付けたるも皆損。
- 二十四日
- 出水、萩原筋の夕立にて出水。
- 七月六、七日
- 大出水、家屋内五、六尺十日迄水湛へ田畑皆損、潰家二軒、元禄元年の水より三寸多し。
- 元禄三年 1690
- 六月六日
- 出水、家屋内二、三尺、二年の水より一尺少し十日迄水湛へ畑は皆損。
- 九月六、七日
- 家屋内少し水湛へ此水村内は十日迄湛へたり。
- 元禄四年1691
- 二月三日
- 川除奉行主張、新掘の水盛を為し幕府に申立。
- 五月十一日
- 村役人八名江戸に發足新掘の義に付申立たるも、新掘の落口は上曾根村向に當りたるを以て遠慮せらる。
- 六月四日
- 出水、家屋内迄水湛へ大豆、小豆腐る。
- 元禄五年 1692
- 五月三、四日
- 出水、元禄四年六月の水と同様。
- 七月二十一日
- 大出水、畑皆損。
- 元禄六年 1693
- 四月二十五日
- 出水、麦、大豆、小豆皆損。
- 七月
- 出水、四月より三尺多多し、耕作皆損。
- 九月 十三日 出水。
- 元禄七年 1994
- 五月十六日
- 出水。
- 閏五月十九日
- 出水。五月より三尺多し畑皆損。
- 七月三日
- 五月より一尺多し、耕作皆損。
- 八月二日
- 大出水。七月の水に一尺多し、六日より家屋内に水湛ゆ、九日亦切れて二十三日迄浸水。
- 元禄八年 1995
- 四月三十日
- 改修工事、櫻井孫兵衛外一名掘瀬實地検分。
- 元禄九年 1996
- 三月二十八日
- 改修工事、蓬澤水抜仰出さる。
- 四月朔日
- 改修工事同上十四ケ村に仰出さる。
- 四月二日
- 川除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門見分として出張増坪より落ち口迄千八百間。
- 四月五日
- 掘始め板垣、坂折、里吉、国玉、上阿原、七澤、西高橋、蓬澤、畔村、増坪、 上村 、小瀬、落合、下鞍冶屋、千二百間は入札せり。
- 村役人八名江戸に發足新掘の義に付申立たるも、新掘の落口は上曾根村向に當りたるを以て遠慮せらる。
-
- 掘始め入札二百二十両にて堀方土手方、水門打切共に請負西油川民家十軒余堀瀬に相成請負人に申付 上村 小瀬にて屋敷を下げ、五月朔日移轉。
- 元禄九年 1997
- 五月十六日
- 掘瀬落成。川瀬早川の様に水足早く相成其の夜の内に村内の水落ち申し候。
- 濁川蛭澤通二口〆
- 一、長 千九百八十九間 濁川通
- 此人足 九千六百三十八人
- 内長 四百七十二間
- 此人足 二千七十二人 十四ケ村出人足
- 一、長 千二百四十一間
- 此人足 三千八百九十六人
- 内長 四百六十三間
- 此人足 千七十九人 十四ケ村出人足
- 外長 二百十六間西 高橋村御杯之内
- 此人足 四百十三人 土手上置
- 長二口合 三千二百三十間
- 人足合 一萬三千五百三十四人
- 内村出二口合 九一百二一十五間
- 人足合 三千百十九人
- ●『蓬澤村明細帳』享保十九年(1724)
- 貳十年己前元禄拾四巳年
- 西御丸様内領地の節、石原七右衛門様御検地
- 庄塚 二間三間 一字庄ノ木 村支配
- 是ハ山梨群郡油川村の庄塚にて御座候
- 掘始め入札二百二十両にて堀方土手方、水門打切共に請負西油川民家十軒余堀瀬に相成請負人に申付 上村 小瀬にて屋敷を下げ、五月朔日移轉。
↧
素堂が指揮したという●山梨県濁川改浚工事の概要 諸資料
↧