横手 駒嶽神社 『山梨県社寺記』
一部加筆
所祭
大己貴命 諏訪大明神御親神也、駒嶽山頂上ニ鎮座
横手村ヨリ頂上迄凡四里余
同山麓ニ前宮
依大風度々破損於斯安政年間(1854~59)再興ス
石鳥居 高壱丈余
巨摩之神社と申すことのよしハ当国西北にあたりて甲信両国の駒ケ嶽ありその麓にまします故に昔しより巨麻神社とぞ称へ奉るそもそもこの駒ケ嶽にます神ハ大己貴命、同じ所に宇賀魂神二柱を祭れり、(勅撰風土記に高麗と書り、野史には巨麻と書り)
この山脈に附属する里郷を六川筋と云(今は武川と作りけり)そのよしは一に釜無川、二に曰く濁川、三に曰く尾白川、四に曰く大武川、五に曰く小武川六に曰く御勅使(みだい)川、合せて六の流れ有、故に六川筋と名つくと云
々、このうち雄なる四川駒ケ嶽より発源す。『甲陽茗話』釜無川の水源に神馬の精あるによりて、此水を飲て畜育たる駒は必す霊ありと云、又この山より下渡る水流の及ぶ限りを一郡とす、或人の説に云、平原多くして馬を畜に依りよき地なれハ、他郡よりも多く牧を置れしと見へて、今もそこここに牧の名残れり、されは駒を産するの地なる故に駒ケ嶽と称し此山の縁由をもて巨摩郡と名つけしと云えり、又ある伝に神の代に健御名方命諏訪国にいたります時ここの
山ハいと高くしてすがすがしき地也、かれここにあか御親の神(大己貴命)を祭るべしとのり給ひきと云々。
そののち又此山の頂ニ石の半破あり、その石に延久主義光といふ五文字幽にありかれ、度々これを按ふに、古へ新羅三郎義光当国に到ります時ここの山の神に祈をこめて子を儲くと、今に到るまで土人の口碑に残れり是則義光ハ従四位下刑部丞になりて甲斐国に任せられ、其武力世に勝れたるは、偏ひとえにこの神の蒙思頼しものならんと云々(中略)
ここに横手村は当国の西隅にあたりて実に山間幽栖の土地也故に往古の人情殊に質朴にして巷談人口には説々■灸すれども、筆記は甚疎論也、是以件々の数社そのかみ土を重て家をなし、祭事捧之必以幣帛其後人情漸至りて板宮となし、又是より後世となりては朽損を恐れ石を刻て宮となすの類不少侯然則再興及数度に実に其不知源始を然るを筆頭に潤ひを以て文意を飾り件々の始末記し申上は甚恐多之至に候得ハ是迄申伝或は焼に失之今日相残り候書類等之中取調右に奉書上候已上
神主屋敷 愛宕古社地住居
許状之儀ハ武田家ヨリ代々相請ケ罷有候
先祖之儀ハ代々武田家ニ仕已ニ天正九年新府城道立之節隣郷之同職中ニ而地鎮祭相勤倹由モ御座候
又其後徳川家ニ相仕慶長已後私共仲間百六十余人内皆同意同列ニ候間不奉書上候
右之通り此度相改奉差上候已上
慶応四年辰 八月日
巨摩郡武川筋横手村
巨摩神社 諏訪大明神 神主 古屋 三河 ㊞
寺社御役所