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甲斐駒ヶ岳開山 資料 横手村 『角川日本地名大辞典』

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よこて 横手〈白州町〉
『角川日本地名大辞典』19山梨県
 
甲府盆地の北西,釜無川支流の大武川流域に位置する。地名の由来は,往古に横手姓をもつ者が隠棲したことによると伝え,これにちなむ御殿原・古御所・殿屋敷・使者窪・大濠・御牧場などの地名が残る(北巨摩郡誌)。地内には縄文時代の宮沢遺跡・古御所遺跡がある。
〔中世〕横手郷 
戦国期に見える郷名。巨摩妄郡のうち。武田氏および織田氏の滅亡後,天正10年甲斐に入った徳川家康は武田氏の旧臣の所領安堵や充行を行ったが、武川衆の諸侍も安堵をうけ天正10年(1582127日の徳川家康印判状写によれば,武川衆の一員横手源七郎の本領として「甲州横手郷八拾弐貫文」が安堵された(記録御用所本古文書/甲州古文書2)。また,同11年(1583419日神座山権現社(御坂町上黒駒)に社領を安堵した徳川家康印判状写には,同社領の1つとして「横手道内弐貫弐百五十文」と見える(神座山権現社 甲州古文書2?。
なお,「南葵文庫本武田系図」によると,武田一門一条忠頼5代の末裔一条時頼は南北朝期頃,子息たちを白須(白州町)・鳥原,牧ノ原(武川村),青木(韮崎市)などの諸村へ分封し、これらの諸家および各々の分家をのちに武川衆と
称して武田氏の重要な家臣団としたが,当郷を領した横手氏は,青木に分封された一条時光の分家といわれて,(韮崎市誌)。
近世の横手村 
江戸期~明治7年の村名。巨摩郡の内武川筋に属す。はじめ幕府領(「慶長古高帳」では「旗本馬場氏知行),のち甲府藩領,享保9年(1724)から幕府領(甲府代官所)。枝郷に大坊新田村があったが、(元禄郷帳・天保郷帳),のちに分村した。村高は,「慶長古高帳 1601161464石余(ほかに大明神領1石余),寛文2年の検地高394石余(反別は田85町余・畑99町余),「寛文宝暦村高帳 16241763」も同右,「天保郷帳 18301843396石余,「旧高旧領」も同じで,うち巨麻神社領1石余。村の規模は東西24町・南北31町。
甲州街道台ケ原宿の大助郷役を勤め,助郷勤高964石余。延享2年(1745)の戸数73(本百姓71I・水呑百姓3),人口354(男181・女173),馬14・牛55(村明細帳)。文化初年(1806)の戸数104・人口358(男181女171),馬23・牛55(国志)。畑作物は粟・稗・ソバ・大豆・油・荏葉・大根など,作間稼ぎとして男は韮崎へ薪を出荷,年貢は皆金納で村内には猟師鉄砲7があった。また入会地は奥山と中山とがあり,中山の入会料として台ケ原村へ小物成米9升を払った(村明細帳)。神社は巨摩神社,寺院は曹洞宗自元寺末横手山安福寺があり,ほかに山伏1人がいた。
明治4年(1871)山梨県に所属。同7年(1874)駒城村の一部となる。
近代の横手村
 明治後期・大正期~現在の大字名。はじめ駒城村,昭和30年からは白州町の大字。もとは駒城村の一部。同32年(1957)役場の駒掘出張所廃止。同34年(1959)むつみ保育園認可。同年台風15号により駒城橋流失。同39年(1964)簡易水道完成。同50年町営住宅完成。

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