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台ヶ原宿北原家(山梨銘醸)家相図 解説

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台ヶ原宿北原家(山梨銘醸)家相図 解説
『山梨県史 資料編13』近世6上 山梨県 平成16刊 一部加筆
 
 台ケ原宿・七賢で知られる台ケ原宿(硯北巨摩郡白州町)の北原家(初代・伊兵衛)は、寛延三年(1750)に信州高遠領から問屋宇右衛門の世話で当宿に移住し、当初は藤左衛門の家屋敷を借家して酒造業を営んだという(同家文書、明和三年(1766)「差出申済口証文之事」)。
現存する町家は、近世後期以降の宿場町に台頭した大規模な酒造家の建築遺構として極めて貴重であり、県指定の重要文化財建造物となつている。
 掲載した三枚の「台ケ原宿・北原家家相図」(六)は、酒造家としての北原家の屋敷構の変遷と大規模町家の建設過程が明らかとなる史料である。最も古い文化十二年(1815)「家相図」には、現在の町家が建設される以前の主屋建物が描かれており、表間口二間、下手(東側)に土間と連続した一四畳の居間や表側に見世売場六畳、見世一五畳があり、上手(西側)は、仏間一二畳と座敷一〇畳、床の間のある人畳が設けられる。台ケ原宿の町並に対して既に大きな間口規模を占めてはいるが、未だ賓客を迎える表門・式台と上手の座敷列が存在しない点が特徴である。また、主屋の真には文庫蔵・穀蔵・味噌蔵など土蔵が建てられる。さらに敷地の奥は大きく広がり、東西に水路が貫流し、二棟の巨大な酒造蔵と室家など酒造業に関連する建物群が建てられている。
 次に、天保十二年(1841)「家相図」では、表間口が一三間に拡張され、表門・式台さらに上手に床・棚をもつ一〇畳の続き間座敷を三部屋設け、現在の主屋に近い空間構成が実現されている。ただ、描かれた主屋の規模は現存建物よりも小さく、間取りも異なることから、この家相図は主屋再建のための計画案として作成されたものと推定され、実際には同園において主屋の両側に朱線で示された(後に補筆か)隣接敷地を購入した後に、現在の主屋が建設されたと考えられる。なお、屋敷の奥には離れ家(隠居)が建てられ、敷地の西に醤油蔵など三棟の土蔵が新築されている。
そして、嘉水七年(1854)「家相図」は、前述の隣接敷地を含めて、表間口一六間の現存建物の間取りを描いており、この時期までに主屋が建設されたことが判明する家相図である。
 ところで、当家に所蔵される「屋敷売券」7~14)によれば、近世中期以降の土地集積過程が明らかとなる。
宝暦七年(1757)の「屋敷売券(一)」(七)では、「間口七間裏行細田道迄」の家屋敷を買得し、借家人として台ケ原宿に移住した北原家が、現在地において表間口七間を占める当宿の家持層となったことを示している。
続いて明和六年(1769)の「屋敷売券(三)」(九)では、西隣の表間口四間の家屋敷を字兵衛より買得している。文化十二年(1815)「家相図」は、この時期の家屋敷の状況を描いていることになる。
その後、文化十三年(1816)の「屋敷売券(五)」で、西隣宇右衛門の居屋敷四畝一六歩の内一畝五歩(表間口一面半程度)と竹薮一カ所、さらに天保六年(一人三五)の「屋敷売券(六)・(七)」(三 十三)で残りの三畝二歩、表間口七間裏行」四間半を七郎兵衛より買得し、嘉永二年(1849)の「屋敷売券(八)」(十四)で東隣の六兵衛より表間口三尺奥行十四間を買得している。前述の様に、この間の両隣の屋敷集積状況が天保十二年の「家相図」には描かれているのであり、現存建物は、土地買得後の嘉永二年三月以降、嘉永七年六月「家相図」の頃までに建設されたことが確実である。このように、北原家は、台ケ原宿における新興の有力家持層として、十八世紀中期以降、幕末期にかけて隣接する家屋敷を集積しながら、大規模町家を成立させるのである。
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