伝説と史実 ――斐の古代史をめぐって――
山梨大学教授 磯貝正義氏著『徽典會』会報第3号 1966 一部加筆
【註】 この磯貝先生の説は現在でも受け継がれ、さらに拡大展開されている。しかしその論調には明らかな間違いや不確かな個所が見られる。歴史に携わる人々は先生を乗り越える勇気と研究が求められる。先生もそれを望んでいるに違いない。ここで確かな資料を基にして言及してみたい。 先生の記載事項で疑問のある個所は(この色で)示した。 |
はじめに
戦後の歴史学界で、最も著しい発展をとげたものの一つに日本古代史の研究がある。これは一面考古学の長足の進歩によるものであるが、他面戦前はタブーであった古事記・日本書紀(略して記紀という)等の古典に対する科学的研究の通が開かれたためでもある。
記紀の古伝説をあら荒唐無稽の物語として却(しりぞ)けるのはもちろん誤りであるが、古伝説をそのまま史実と考えるのは一層大きな誤りである。
記紀の古伝説がどのような史実を反映しているかを科学的に究明するのが、古代史上の一つの重要な課題である。ここでは甲斐に特に関係の深い日本武尊(やまとたけるのみこと)・甲斐の国造(くにのみやつこ)・甲斐の黒駒等に関する記紀の古伝説を通じ、甲斐の古代史をできる限り明らかにして見たいと思う。
1、日本武尊
景行天皇の皇子日本武尊(記は倭建命に作る)は熊襲征伐から帰ると、休む遑(ひま)もなく東の方蝦夷征伐の途に就いた。『古事記』は、蝦夷を平定して足柄の坂に登り立ち、亡き妃弟橘比売命(おとたちばなひめ)をしのんで、
「吾妻はや」といったのが、東の国の始まりであるという有名な伝承を挙げた後に次の文がある。
すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、
新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき。ここにその御火焼の老人、御歌に続きて歌ひしく、
かがなべて 夜には九夜 日には十日を
とうたひき。ここをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき。
これより信濃国に越え、更に尾張国に向かったとする。一方日本書紀は、蝦夷平ぎ日高見国より西南のかた常陸を経て甲斐酒折宮にきたが、ここから再び関東に出て、武蔵・上野を経て碓井(いすい)坂に至り、亡妃をしのんで「吾嬬はや」といったとしている。
また酒折宮での御火焼(みひたき)の老人についても、かれを東の国造に任じたとは見えず、別に靱部を大伴連の遠祖武日に賜うという記事がある。
このように記転の間に遠征の経路や事績について小異があるが、こうした相違を何れが正しいかなどととやかく詮索するのは余り重要なことではない。もともと伝説には異説が多いのが普通だからである。それよりも日本武尊東征伝説がどのような史実を反映しているかを考える方がより大切である。
これについては、宗書夷蛮伝倭国の条(宋書倭国伝)に、雄略天皇に当ると思われる倭王武が、昇明二年(四七八)に南朝宋の最後の皇帝順帝に送ったという長い上表文を載せているが、その書き出しに次のようにあるのが注目に値する。
封国は偏遠にしちぇ藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)窮ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆蝦を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。
毛人は蝦夷、衆夷は熊襲等、そして海北とは朝鮮半島を指すと思われる。記紀よりも遥かに信憑性の高い宋書に、「倭王武の祖先=大和朝廷の代々の大王達」が、東に西に国内の統一事業を進め、更に朝鮮半島へ進出した事実を述べているのである。そしてその事業は優秀な鉄器文化をもつ大和朝廷の何代もかかってなしとげたことであるが、それを記紀は、日本武尊という一英雄の熊襲・蝦夷征伐の事績に、また神功皇后という一女丈夫の朝鮮親征の物語に集約して伝えたものであろう。当面甲斐の問題についていえば、恐らく宋書にいう毛人の国五十五国の一つであったろうこの地方は、いつの時か大和朝廷の征服を受けてその配下に属するに至ったのである。
記紀の上記「酒折伝説」はそうした事実を反映しているものと見てよいであろう。もちろんいつどのような経緯で征服せられたかは明らかでない。しかし遅くもその時は四世紀の前半を下ることはなかったであろうし、征服の順序も記紀の伝説とは反対に、大和に近い地域から進められてきたものであろうと思う。
かつては甲斐にも独立の小首長がいて、この地方を支配していたのである。それが大和朝廷に征服せられてその地位はどう変わったであろうか。恐らく半独立の地位を保障されつつも、一方には大和朝廷の地方官としての性格をもつ国造に任命せられたものと思われる。そこで甲斐の国造に話題を転じたいと思う。
参考資料 甲斐の酒折考 水上文渕氏著 |
2、甲斐の国造
『古事記』中巻、開化天皇の段を読むと「わかやまとねこひこおおびびみこと」(開化天皇)が、「丸邇臣 わにのおみ」の祖「ひこくにおけつひめ」を娶って生んだ子に「日子坐王 ひこいますのみこ」があり、「ひこいますのみこ」が春日の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の女「沙本の大闇見戸売 さほのおおくらみとめ」を娶って生んだ子が「沙本毘古王 さほひこ」であり、この「沙本毘古王は日下部連・甲斐国造の祖」であると見える。
すなわち甲斐の国造は開化天皇の孫沙本毘古王を祖とするという伝承をもっていた事がわかる。しかしこの伝承は必ずしも史実を伝えたものとはいえないのである。なぜなら『古事記』は、『日本書紀』に比べ地方豪族の祖先を皇室の出身であるかのように記載することが甚だ多く、それが『古事記』の一つの特色とも見なされているが、それは『古事記』の帝紀成立の過程で造作された伝承であると考えられるからである。
現に『日本書紀』は、「沙本毘古主」に当る「狭穂彦王」について、甲斐の国造との関係を何ら言及していないのである。恐らく甲斐の国造もその他の国の国造と同じく、地方小国家の首長たちの子孫であり、大和朝廷の支配に服して国造に任命せられたものであり、もともと皇室とは直接の血縁関係をもたない土着の豪族であったと思われる。
それでは右の『古事記』の系譜伝承は何を意味するかが問題となるであろう。この『古事記』の伝承から、甲斐の国造の氏姓を以て〝日下部連〃であるとする説が一部には有力である。しかし古事記の記事は、日下部連と甲斐の国造とが同祖先であるという伝承をもっていたことを示すに過ぎないのであり、甲斐の国造りの氏姓が日下部連であったということではないのである。
連〟という姓(かばね)は、中央の伴造(とものみやつこ)豪族の姓であり、地方豪族の姓は普通は〝直〃である。日下部連は、雄略朝に皇后草香幡梭姫(くさかはたひ)のために全国各他に設置せられた名代(なしろ)の民である日下部全国的管掌者(伴造)であり、中央の豪族であった。しかしこの日下部連と甲斐の国造とを同祖とする伝承が成立したのには、それ相応の理由があった筈である。それは甲斐の国造の氏姓が〃日下部直〃であったためではないかという推定説を可能ならしめるものである。
甲斐にも日下部が置かれていたことは、正倉院宝物の中の調庸金青袋白絁に、
甲斐国山梨郡可美里日下部□□□絁一匹 和銅七年十月
という墨書があることで証明せられる。山梨郡可美里は笛吹川上流、今の山梨市北部辺りかと思われる。この地に住んだ農民日下部某が、調か庸の布として出した絁(あしぎぬ・粗製の絹布)が、今に残っているのである。
さて甲斐に日下部が置かれたとすれば、その地方的管掌者として日下部直がいたことはかなり確実性があり、それが甲斐の国造であったとする推定も成立しそうなのである。なぜなら国造がその国に置かれた名代の民の地方的管掌者を兼ねる例は珍しくないからである。
この関係を図示すれば、
日下部連(中央の伴造)➡日下部直(甲斐国造兼地方的伴造)➡日下部(名代の民)ということになる。もちろんこの関係は上下の支配関係を示すものであって、血縁的・系も譜的関係を示しているのではない。
甲斐国造日下部連説は成立の余地はほとんどないが、日下部直説は成立の可能性が大きい。そして甲斐の国造は名代の民の地方的管掌者(伴造)としての外、中央政府に対し幾多の負担的義務を負った。男子の子弟を舎人や膳夫に、姉妹や娘を采女として中央に貢進したのは人質的負担の例であり、国造軍を編成して大和朝廷の軍事行動に参加したのは軍事的義務であった。
しかしここでは、当時新しい財物としてとみに重要性を高めてきた馬の貢上のことを述べて見たい。甲斐の国造が買上した馬は甲斐の黒駒と呼ばれ、当時中央で駿馬として名声を博するに至っていたからである。
参考資料 甲斐の古代 人物と古墳 |
三、甲斐の黒駒
参考資料 |
日本書紀雄略天皇十三年九月条に、木工猪名部真根(いなべまね)を天皇がささいな事件で殺そうとして刑所へ送ったところ、実根の同僚がかれを惜しんで、
「惜(あたら)しき猪名部の匠、懸けし墨縄、しが亡けば、誰か懸けむよ、惜(あらた)墨縄」
と詠ったので、天皇が後悔し、赦便を以て甲斐の黒駒に乗って馳せて刑所に至らしめ、危く実根の命が助かったという説話が見え、更に天皇が作ったとして次の歌を載せている。
「ぬば玉の甲斐め黒駒鞍被(くらき)せば命死なまし甲斐の黒駒」
甲斐の黒駒
説話そのものは他愛のない伝説に過ぎないが、ここに甲斐の黒駒の名が現われるのは重要な意味がある。そこでわが国における馬の歴史を顧(み)るに、『魏志倭人伝』に「其の地(日本渡来地)には牛馬虎豹羊鶴無し」とあるのは問題であるが、少なくとも馬の飼育と乗馬の風習が起ったのは四世紀の後半、朝鮮半島との関係が密接になってからのことである。そのことは、前期古墳(四世紀)に乗馬を物語る資料がなく、中期古墳(五世紀)に至って馬形埴輪や馬具の副葬品としての出土があり、後期古墳(六世紀以後)では馬具が副葬品として一般化しているという古墳文化の変遷過程によっても証明せられるのであり、戦後いわゆる騎馬民族
征服王朝説が唱えられたのも、古墳における乗馬関係資料の有無・変遷を主な証拠とするものであった。日本書紀応神天皇十五年条に、百済王が良馬二疋を献上し、阿直岐(あちき)がその飼育を掌ったとあるのも、馬の飼育と乗馬風習が、四世紀後半の朝鮮半島出兵の結果起ったという事実と符合する伝承である。
こうして半島から馬が輸入せられ、馬飼育の技術者として馬飼部という帰化人も渡来するのである。そして乗馬の風習は、在来の軍隊組織に変革を与え、わが国にも騎兵隊が生まれるのであるが、馬が新しい財物として珍重せられ、
中央・地方の貴族・豪族が競って馬を飼育するようになったのである。しかも重要なことは朝廷が地方の国造に命じて馬を貢上させ、それを以て中央への忠誠のしるしとしたことである。この事実は、大化改新後の国造が、大祓の際に祓柱(はらえつもの)として馬一疋宛を出すように定められた『日本書紀』天武天皇五年条や『神祇令』の条文によって推定せられるのであるが、このように国造が馬を貢ことによって朝廷への臣従の誓いとしたことは、舎人・膳夫・采女の貢進等と相供って、国造の朝廷への従属性を高め、その忠誠な地方官に育て上げるのに役立ったのである。
しかも諸国の国造の貢馬の中でも、特に甲斐の国造の貢いだそれは、『甲斐の黒駒』の名をもって呼ばれ、中央で名声を博するに至ったのである。上記の雄略紀の説話は、そうした史実を反映したものとして興味が深い。もっとも五世紀の後半、雄略朝という年代には多少の疑問もあるが、甲斐の黒駒が古くから代表的駿馬として朝廷で愛用せられていたことは確かであろう。このよう
にはじめ甲斐の国造が、大和の朝廷に貢進した甲斐の黒駒は、その後も長く伝統を保持した。のちには聖徳太子がこれに乗って富士山頂を飛行したという伝説まで生れた程である。
そして甲斐は律令期にも東国の主要な馬産地として聞こえ、平安時代には柏前(かしわざき)・真衣野(まきの)・穂坂の三官牧(いずれも今の北巨摩地方)は、各年→定数の馬を宮廷に進めた。駒牽の行事がこれであり、かつて甲斐の国造が行なった貢烏の制の名残であろうといわれる。
十一世紀の後半には、この駒牽の行事も史上から姿を消すが、この官牧地帯を根拠として、やがて甲斐源氏が勃興するのである。
参考資料 |