甲斐駒ケ岳開山と駒獄講
駒嶽講 富士町乙事(おっこと)
村に伝わるいろいろの講(その三)④
山岳信仰 乙事の信心 「駒嶽講」
乙事 佐久吉文氏著
『高原の自然と文化』第15号 平成16年2月
富士見の自然と文化を守る会 編
富士見町の文化・民族文化
富士見町の自然・総目次
一部加筆
山岳信仰の発生については、いろいろの角度から述べられているが、古代の人々は狩猟生活を営むなかで自然災害、病気、原始農耕への苦心、近隣集落闘争などに対処するための心の寄りどころとして大自然の太陽、星、山岳その他に頼る心理を求めた。
山岳信仰の形が神格化してくると、修験道的要素が色こくなって「役ノ小角」 (役の行者とも呼び奈良時代葛城山の修験道の霊場で修行した呪術者で山岳信仰の書物に必ず登場する人物)と云う人物を理想的祖師と仰ぐ山岳信仰に基づき、呪力を目的とした教義(信仰上の教え)が天災、怪異、出産、病悩等に対して験力を現し、呪術師と呼ばれる行者等を先達者として教義の布教が山岳信仰の「講」をつくり出したのである。
甲斐駒ケ岳開山と駒獄講
甲斐駒ケ岳を開山した人物は、諏訪郡上古田村現在の茅野市豊平上古田の人で小尾権三郎と云う人である。
権三郎は父今右衛門の二男として寛政八年(一七九六)に生れ、七才にして学問を受けるも一を聞いて十を知るという智者で神仏については法力を体得し、八才になると事物を予言する神通力を持ち、変わった事を云ったり不思議な行動をするので神童だと人々は驚き呆れたという。
十二才の時、諏訪藩茅野兵庫宅に住込奉公に、三年間勤めるもこの間、神仏道の修行に勤しみながら奉公に専念しその行状は誠に立派であった。十五才になった時、元服して武士となり諏訪藩へ勤めよとの推挙があったが権三郎これを断わり、志しを立て北山村の万宝院に弟子入りをし、修験道(山野において霊験を得る法を修める)を学び、さらに東西の名師を尋ねて難苦行を三年余神道及び修験道を習得する。しかる後に万古不踏の霊峰駒ヶ岳開山への大願を立てる。
時は文化十年(一八一三)権三郎十八才にして弘幡行者と名乗り開山苦行に挑む。
巨摩郡横手村の山田孫四郎
巨摩郡横手村の山田孫四郎宅へ草鞋を脱ぎ援助を受け、村人から食物などをいただきながら明ければ開道に勢を出し、暮れれば樹下や岩穴に臥し威力不動堂のお暇し、特に六合目不動ケ岩の難所の開道に苦行せる。
時に文化十三年(一八一六)瑞雲たなびく東方雲海より旭日せる御来光をひざまずいて拝し頂上に立てり、弘幡行者小尾権三郎二十一才、六月十五日夜明けであった。
文政元年(一八一八)一月京都神道神祀管長、白河殿を尋ね、開山の旨申し伝え白河殿より「駒ヶ岳開山延命行者五行菩薩(菩薩の修すべき5種の行法。)」の尊号を賜る。
開山大偉業達成後は、弟子に行者への道をとき、山岳信仰を広むれば甲斐駒山獄神山と弘幡行者権三郎を尊する信者多数いたという。
文政二年(一八一九)正月十五目御歳二十五歳にして御臨終。おお大聖尊者、権三郎後の世にその名を残す。 (『開山由来記』より要点抜粋)
山岳信仰と駒獄講の起こり
日本石仏協会常任理事、田中英雄著「石仏からの論考」によると山岳信仰による講組織
一、江戸時代中期に起こった新しい山岳信仰の特徴は、山岳修行を積み重ね、信者を得た者なら誰れでも信仰登山の主導者になり、信者を登拝させられるというこれまでにない形態だった。
一、その初めは富士信仰にみられる行者によって完成され、弟子たちが次々に講という信仰組織をつくり広がっていった。
一、文化、文政のころ関東一円に講が流行した。同じ頃御嶽信仰も流行のきざしがあり、とくに四方を山岳にかこまれた甲斐、諏訪地方ではまだ開かれていない山岳開山をめざす行者があとを絶たなかった。
此のような時期に権三郎が叩斐駒ヶ岳の開山に勤めた。そのことをまとめてみよう。
一、当時駒ヶ岳のふもと横手地区の名主山田家が山麓の管理役を勤めていた。駒ヶ岳に入山するには山田家の許可が必要であった。
一、権三郎の父、今右衛門は安永元年(一七七二)に駒ヶ岳開山の願いを山田家に出し、十二年の長きに渡り登頂を試みたが五合目の屏風岩が越えられず断念した。それから四十一年後文化十年息子の権三郎が山田家に開山を願い出た。山田家は親子二代に及ぶ開山への熱意に入山を許可した。
一、権三郎十八歳、岩稜がつづく上部は峻険な岩場で権三郎もこの岸壁には手こずっている。なかでも父、今右衛門がどうしても越えられなかった五合目の屏風岩には苦労し、その中腹には権三郎が修行のため使った錫杖の頭で刻んだ梵字が今も残っている。
一、権三郎三年有余の苦難の末文化十三年表参道の開山に成功。延命行者の尊号を受けたが文政二年、二十五才で没した。
一、文化後期同志によって駒嶽講が結成され、講員は甲州、信州、相
州などにわたり数千人にも及んだという。上古田村に於ても威力不動明王とあがめられ、後に乙事村でも行者修行をした人々によって駒嶽講が結成された。
小尾権三郎出生地、上古田に於ける行事の古今
権三郎の生地上古田では、生家所有の道端に不動堂を建立した。
その後明治二十年現在の場所に茅葺きの草屋を建てたが、昭和三年一月十一日に全焼した。再建は甲州、筑摩、諏訪の信徒の寄進で昭和四年十月現在の威力不動堂が建立された。
しかるに我が村に偉人あり、権三郎師の業績をたたえ此れを世に知らしめ我が村の誇りとすべく、村民全員信徒となりて「駒ヶ岳開山威力不動尊総元講」を結成し、村中で毎月十五目の縁日に護摩供修法を行い、遠近の信徒多数の参詣があった。
近年威力大聖不動明王の祭事は年に一度旧暦一月十五日「お不動様」のお祭りとして村中で不動堂に集まり例祭を行っていたが、最近は区長とその関係者に依って例祭への準備ともてなし(直会)が行われている。
例祭当日の行事
一、威力不動堂は上古田の「お不動山」と呼ばれる高台にあって、急の階段を登り台地平面の入口の両側に幟旗が立つ。「奉納威力不動明王」と「奉納摩利支尊天」の二つである。
一、午前十一時頃からお不動内で信心が始まる。正面祭壇にはもろもろの祭具と供え物があげられ灯明がともされる。祭壇の前は一段高くそこへ白装束の行者九人が鉢巻姿で正座する。下段へ一般信者や参詣者が座す。
一、太鼓や拍子木を打ち鳴らし、その調子に合わせて行者は般若心経などの読経を一時間にわたって行う。
此の御祈祷中、中央に座せる行者は護摩木を炊いて炎を上げ、時々呪術的な経文を唱えて祈祷する。
一、一時間に及ぶ護摩祈祷が終わると、上位三名の行者が真剣を鞘から抜き祈りを捧げる。下段に居並ぶ一般参詣者や他の行者で身体の病める人々は行者の前に座すと、行者は病める患部に真剣をあて気合と共に病魔を払う。此の神秘法行を最後に例祭のご祈祷による信心は終了する。
一、御祈祷が終わると別棟直会所に於いて区長さん他の人達の心のこもった手料理とお神酒のもてなしを受ける。希望者は甲斐駒山獄神社、家内安全、家業繁栄の、御守護のお札を求めて解散となり、すべての上古田威力お不動様の信心が終わる。
乙事の信心 駒山獄講
起源
乙事村での駒嶽講の起源は前記駒ヶ岳開山でその根源について述べた。秀甜鹿な山を神山とする自然信仰から近代への歩みと共に修験道(山野において霊験を得るための法を修むること)的人物によって出羽三山 (山形県の月山、羽黒山、湯殿山)越中立山、相模大山などで古くから修験道が発達した。
このような時代例えば享保六年(一七二一)有快と云う人により信州有明山の開山、文政十一年(一八二八)播隆と云う人によって槍ヶ岳の開山があり、弘幡行者小尾権三郎の甲斐駒ケ岳の開山、文化十三年(一八一六)もその流れであった。
雲上に巨立する偉大なる山、神山を行者になって開山され極まった時近代への山岳信仰が発生したのである。然るに諏訪の地、上古田の住人小尾権三郎の開山は乙事の地でも脚光をあびたに違いないだらう。その功績がその後信心する乙事村でも行者等を先達者として講地を作り、石碑を建て、多くの村民が同行者となって駒嶽講を起こしたのである。
組織構成
乙事村駒山獄講の講地は上手の尾根といって、乙事諏訪社の八ヶ岳寄りの尾根にある。耕地に建った石碑に印されている三井卯左衛門、五味永作、五味荻蔵諸氏の行者を先達者として組織発展したが、たしかな年代はわからない (昭和中期まで講員であったという家を聞き歩き、記録になる横帳などが保存されていないかと尋ね捜し求めたがなかった)。推測によると行者達の活動年令からして明治の初期頃から組織発展し、大正、昭和中期まで講行事が盛んに行われた。
先代の信者を尊し次代への者が数多くの石碑を建て講地には今も石碑が林立し、駒嶽講への信心の深い歴史を知ることができる。
※講地の石碑に刻銘されていることは別に書く。
行事と様式 (五味正平氏談)
毎年一回田植上りに講地の三方に垂れ幕を張り、しめ縄を飾り御撰を供える。五色の旗が風になびき鐘や太鼓を打ち鳴らし賑やかに祭典の意気を盛りあげ神拝へと移る。
行者等は白装束の姿で前列に座し、講人が後に並び心経の読経が始まる、読経を唱える行者達の声が高まり、尚も熱狂せる行者の手は天を突き身体を左右上下に動かし、白装束の衣が波打ち、やがて行者達の体は浮遊するが如くの様にて、その雰囲気がすさまじく息もつまる思いであったという。直会には御神酒を酌み交し女、子供には甘酒などをふるまったと話してくれた。
行者、祈祷の行為 (聞き取り調べより)
行者、三井卯左衛門の場合
乙事村駒山獄講の開祖にして祈祷の業に才能を持ち、特に業績としてのこつているものは妊婦命あやうしの折、祈祷によって一命を救い、駒ヶ岳神山より分身として北斗妙見神を祀る。(北斗妙見神については別記す)
行者 五味荻蔵氏の場合
物が紛失したり落し物をした時、又は牛馬が離れて行方不明になった時、方角を拝み当てる。厄除や病気を治す祈祷もした。
北斗妙見神 (駒ケ岳神山の分身)
北斗妙見神とは、北極星又は北斗七星を神格化した菩薩で災害を滅除し人の福寿を増す。
乙事区沢組、三井いつのさんの二代前のお嫁さんタヤさん、ちやんめにて命あやうしの折、当時駒嶽講行者三井卯左衛門諸氏がタヤさんの枕元で祈祷すること一ケ月間、祈山侍の甲斐あって快復し達者になる。行者曰く、タヤさんが達者になったのは、わしらが出示拝する駒嶽様のご加護があったからだよ。此のうえは、わし等行者が駒ヶ岳山頂に参りお礼をもうして信心によって駒山獄神社の分身をおもらいしてくるから、屋敷の一角に石碑を建て命の神山様として祀り日日お拝みなさいと云うことに成り、「北斗妙見神」と銘々して屋敷
の北隅に祀る。しかしてタヤさん妙見様を信仰し八十九歳までも長生きをした。
この命の神、妙見様の御利益は乙事村内はもとより隣村まで風説は広まり、病弱の人、戦時出征兵士の家族の人々は戦地から無事帰れるようにと祈願願掛に参詣せる者多々あったと語り伝えられている。(※「ちやんめ」とは産後の肥立ちが悪いこと)(平成十年三月三井いつのさんの話しより)
明治から昭和三十年頃までの長い年月、駒山獄講を信仰せし村人達が心の寄りどころとして集い、共に酒を飲み共に語り共に助け合い信心の和によって農村生活をささえて来たのであらう。
当時は今のように科学や医学の発達もなく、人々の手ではどうすることも出来ないことは「神頼み」が唯一の身近な方法であったのだらう。山岳信仰について調べていると、しみじみとそんなことを伺い知ることが出来る。
近代への歩みと共に信仰的態度がうすれ、現代講中行事が行われていないのがなんとも残念である。荒れ果てゆく講地を我れ生きている内は昔を偲びつつ清掃を続けて行こう。乙事の信心として権現講だけが今も尚二十余名によって継続され嬉しいことである。
駒山獄講の石碑の刻銘
碑表の文字 碑陰に書かれている文字
永力霊神
講中ヲ指導セラレ、五味栄作之為 昭和七年講中建之
卯明不動明王
卯左衛門明治元年北巨摩城村山田信光ノ教導ヲ受ケ明治十五年郷ニ帰リテ乙事駒嶽講ヲ開キ講祖先達タルコト世人ノ知ル所ナリ 行年六十四才
摩利支天尊
昭和五年十二月 講中建之
手力男命
昭和六年 佐久由晴建之
駒山獄神社
御神体 昭和五年六月 駒嶽講中建之
刀利天狗
願主権少講義 三井保作
位力不動明王
石工 三井米吉
開力霊神
論中並ニ行者之カニ依此地ニ駒嶽神社ヲ祀ル当村初代先達開力行者少講義
五味荻蔵 昭和六年三月講中
獄宮霊神
獄宮講中建之 昭和五年六月
命力霊神
二代目中央先達トシテ講中ヲ指導セシ少講義三井保作ノ為昭和二七年三月
建之講中
辰間不動明王
八嶽行者先達五味伝五工間ハ良ク其ノ行ヲ修メ多クノ人ヲ助ケタリ
昭和十二年十二月辰閉講之建
秋葉大権現
北原九良左ヱ門
細滝霊神
五味斧作氏ノ爲 細滝講中建之