甲斐駒ケ岳(山梨県)聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)
『里山の石仏巡礼』田中英雄氏著 山と渓谷社 2006年刊
甲斐駒ケ岳の黒戸尾根を登るときは、横手から登っても竹宇から入っても笹ノ平の石仏の前で休んだ。
石仏は聖観音で「山田嘉三郎」と刻まれていた。山田家は横手の集落にあるかつての名主の家。諏訪の行者・小尾権三郎が黒戸尾根を開くにあたり協力したのが山田家である。権三郎が甲斐駒ケ岳を開山したのは江戸時代の文化年間、中部山岳が次々と開山されていた時代だった。
開山の目的は行者としての地位の確立と、講という信仰登山組織の立ち上げにあった。開山に成功した権三郎も延命行者の称号を与えられ、駒嶽教の布教を始めようとした。しかし組織が動きだす前に亡くなってしまう。これからという二十五歳の若さだった。これを機に駒嶽教を組織化したのが、権三郎に協力した山田家。
山田家は甲斐駒ケ岳の麓にあり名主という信頼もあって、布教は順調に進み、登山する者も増えてきた。山田家当主を盛り立て、登山者の支援に熱心に取り組んだのが二男の嘉三郎だった。嘉三郎は登山道の整備を図り、笹ノ平までの間に石仏を置いた。その一つが三十三番の聖観音菩薩だった。
観音は三十三に姿を変えて人を救う仏。その代表が聖観音菩薩で蓮華を持つ。黒戸尾根には頭上に馬頭を戴く馬頭観音もあった。この仏は馬の守護や供養のために建立されてきた。横手から笹ノ平まではゆるやかな登り、登山者は馬を利用したと聞いているので、石仏は登山の目安とともに馬の守護の意味もあったのだろう。
山田嘉三郎の銘は、横手の巨摩神社わきに立つ 「一番」如意輪観音にも刻まれていた。
昭和五十四年、甲斐駒ケ岳の西にある北沢峠に林道が開かれバスが乗り入れるようになると、黒戸尾根の利用者は激減した。かつてこの尾根の五合目の屏風岩には二軒の山小屋があったが、一軒だけが避難小屋として利用されている。七合目の小屋は健在だ。