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甲斐駒ヶ岳開山関連記事 横手と白須・台ケ原村入会出入一件

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甲斐駒を開山したと伝えられる権三郎が横手に来たとき地域の状況は切迫していた。駒ケ岳は横手の人だけで管理していたのではない事が理解できる文書である。

横手と白須・台ケ原村入会出入一件
『白州町誌』一部加筆
 
 文化十一酉(甲戌 1814)四月〔十年 癸酉〕
横手村ヨリ白須・台ケ原両村ヲ相手取出入一件諸事写覚
  大坊新田 道村源五右衛門
乍恐以書付奉願上候
巨摩郡横手村
訴訟人 名主 (横手)彦左衛門 
    町百姓  庄蔵 彦右衛門 彦兵衛 
    百姓代  孫四郎 要蔵 
    小前総代 仁左衛門
不法狼籍御吟味願
 巨摩郡白須村
 相手 名主   仁弥
     同   弥五左衛門
     同
長百姓  惣助
     同   紋右衛門
     同   杢兵衛
     同   三郎左衛門
百姓代  作右衛門
     同   勘兵衛
小前惣代 八左衛門
同郡台ケ原村
    名主   八右衛門
    長百姓  幸右衛門
     同   宇右衛門
 同   孫右衛門
     同   傳右衛門
    百姓代  文七
    小前惣代 文蔵
 右訴訟人彦左衛門外七人一同奉申上候、相手白須・台ケ原両村之者共、当四月十三日、当村分内字宮沢外荒地、草間林小物成林所々江数拾人入込、諸木伐苅荒候間、打驚駐付差押候得共、理不尽之挨拶故無據、白須村甚弥同人下男壱人・久兵衛・浪次郎・勘五郎・佐五右衛門差押、為証據右六人之持居候、木鎌等留置、即刻右場所方其段御訴申上候處、翌十四日ニ至リ而数百人押来リ、鯨波之聾ヲ上ケ、畑荒地雑木草間林居林社木、当村地内大坊新田ニ而所持仕候小物成場之無差別至乱入、大小合テ木数弐万本余伐荒、乱国同様之乱法ニ而、出逢候者打殺シ可申与罵リ、私共村方之儀者、秋ニ高三百九拾石余、人々ニ而相手両村者凡千八百石余、銘々棒・手木・竹鎚等持打散シ打倒シ、老衰罷有数足遅キ者ハ及打擲ニ、人々恐怖仕、住家江迯籠門戸ヲ閉、或ハ家財諸道具等を取片付、老幼・女共者近隣村々所縁之方江迯(ニゲ)去リ、迚茂(トテモ)難及自力ニ難ケ敷奉存候間、早速徒党乱法之御礼明被成下置度偏ニ奉願上候、尤当村西之方駒ヶ岳与申者、甲・信両国之境江引続山澤有之、出入及数度、既ニ正徳
二辰年(1712)松平甲斐守様(柳沢吉保)御領分之節、当村与台ケ原村一致ニ而、白須村江掛候山論之節、尾白川を限リ、白須・横手両村為境之事御裁許有之、裏書絵図持傳、宝暦六子年(1756)横手・台ケ原・白須三ケ村方黒沢・山高・柳沢・三吹・若神子五ケ村江掛り及出入候砌茂別紙魚絵図ニ願シ候、桑之
木沢ヨリ奥ハ、元来台ケ原・当村・白須三ケ村之持山ニ有之候得共、相手五ケ村之内柳沢・三吹二ケ村ハ無年貢ニ而入会来リ候間、柳沢ヨリ米壱石五斗・三吹ヨリ同五斗宛年々差出シ、訴訟方三ケ村江割敢為入会候様御裁許御申渡、猶同十二午年(1762)、牧野大隅守様御勘定御奉行御勤役中、長坂上条・同下条・渋澤・日野四ケ村方富村江掛り、村上方不残入会釆候段難渋申掛ケ及出入候刻も、桑之木澤ヨリ奥山江斗可為入会之昔御裁許被仰付、然上ハ、桑ノ木澤ヨリ東北瀧道山都而当村持株・薪材木等引取場ニ而、惣名横手内山与唱、其内字シリタリ澤有馬背蛇澤入江見通シ、内ハ東西弐拾四町・南北三拾壱町与村明細帳ニも顕然認メ上候、村内山外分持場共分明ニ候、然ルを内山を下り畑地居住之地迠(マデ)迫被伐荒、近来未聞之乱法ニ付、近隣村々江相響徒党騒乱ニ紛無之、殊ニ小前之者共小村を見掠メ、且村役人共不背愚昧ヨリ右鉢之儀出来候儀与、挙而可奉越訴由相聞エ候ニ付、厳敷相制止置候。尤宮村之儀ハ、山附薄地寒暖不定之地ニ付、出生之草木ヲ以御年貢上納、老幼扶助之致シ手当ニ年来大切ニ立置候を、右様剛強及不法ニ、御威光ヲ茂不奉恐御国政を相乱悪事被致候而ハ、小村之私共御年貢上納ハ勿論、住居難相成歎ケ敷奉存候間、格別之以御憐懸ヲ、徒党狼籍御取鎮メ、右頭取之者沾逸々御吟味被成下置候ハバ一村相助、大坊新田迠(マデ)無難ニ相続仕廣太之御慈悲与難有仕合奉存候、
以上
   文化十酉年(1813)四月
                        横手村
名主  彦左衛門(以下略)
  長百姓 孫四郎(山田氏?)
甲府御役所
 
右願出入、文化十酉年(1813)四月願書差出、漸々文化十一戌年(1814)十二月廿四日左右御裁許相済候事
  右御裁許写左之通差上申一札之事
 甲州巨摩郡横手村訴上候ハ、去ル酉四月十三日白須村甚弥井同人下男壱人其外都合六人、横手村持之古田荒地草間林起小物成場江入込、理不尽ニ伐荒俣間右六人之もの共差押置、白須村役人方江相届候處、大勢被相越、悪口雑言等申之ニ付、証拠之ため鎌六挺取ゲ、六人之もの共ハ同村役人方江引渡遣候處、翌十四日白須・台ケ原両村之もの共凡六七百人斗、銘々鎌・銘・鋸或ハ斧等を持参り、右場所ニ生立有之松・雑木大小之無差別数万本伐倒、右躰不法被働候而ハ小高之村方住居モ難相成、内山古田縄受之場所マデ入会秣場(マグサバ)ニ可奪取巧与被察不法狼籍之始末厳重御吟味請度ヲ申之上候
一、同国同郡白須・台ケ原両村答上候ハ、駒ヶ岳之儀ハ、横手・白須・台ケ原三ケ村山元、南ハ大武川・北ハ尾白川を限り東之方横手村田畑境追不残入会秣苅敷薪材木等前々方取来り候間、去西四月十三日、白須村名主甚弥弟粂次郎・甚弥下男一松其外都合六人三ケ村入会秣場エ秣苅取として罷越候處、横手村并大坊新田之もの共弐百五拾人余も致待伏セ、右六人之者共木鎌六挺取上候間、何様之訳合ニテ取上候哉之ヲ相尋候得共、利不尽之致挨拶、一躰横手村之者共、入会秣夥敷(オビタダシク)立出、私欲乍致稀秣取トシ而罷越候者共、木鎌取上甚心外ニ付、両村小前之者共三百人斗り、一同、鎌・鈍・手鋸を以、右立出場所立木不残拂候處、両村不法狼籍杯ニ偽之儀申立、大坊新田与致合躰木鎌取上候ハ難得其意、横手村・大坊新田一同不當之始末御吟味請度ヲ申上候
 右出入引合大坊新田一同御吟味之上御伺、左之通被仰渡慎
 
一、訴訟方之儀、南ハ字桑之木澤より北ハ尾白川を限り横手村内山ニテ、字ヲシルタリ澤より蛇澤え見通シ中尾澤を限リ、山裾ノ方ハ同村地内ニ候由ハ申口迄ニテ、既ニ相手方ヨリ通路ノ道筋モ歴然ニ相見エ候上ハ、申立ノ趣難成御信用、相手方之儀も両村入会ト心得立木伐採候場所ハ横手村字宮澤外拾五ケ所古田之縄請并小物成林ニテ、夫々名所モ致符合、正徳二辰年(1712)字尾白川ヨリ濁川マデノ山論裁許は、今般論山ニ抱候儀無之、宝暦六子年(1756)、白須・台ケ原・横手村ヨリ黒澤村外四ケ村エ相掛り候出入も、是又字桑之木澤方大武川越限り候論所ニテ可引當品々無之、同十二午年(1762)、長坂上条村外三ケ村ヨリ横手村山論之ミギリ、白須・台ケ原弐ケ村も引合ニテ御吟味請候由ハ、其節之御裁許請証文ニ両村連印いたし候趣も不相見上ハ申口マデ之儀、其外手扣(ヒカエ)書留或ハ村明細帳等ハ、自己之品々ニテ、他村江対シ候出入之証拠ニハ難御取用、引合大坊新田之儀も、前々論内エ入込伐苅いたし候ハ無相違候共、山手銀横手村江差出候趣村明細帳ニモ載有之由ハ、是以村方勝手ニ認置候品ニ
付難御取用候、依之横手村字栃平其外飛地有之場所、南ハ瀧道澤北ハ栃平宮沢、西ハ大日向山を限り横手村地内、南ハシルタリ澤方北ハ中尾澤を限り同村内山ト心得、笹ノ平・びやくび・古之平・シルタリ澤ヨリ桑之木澤之間エ横手・白須・台ケ原三ケ村入合秣苅取、大坊新田之儀ハ、奥山・前山共ニ入会小物成米ハシテ米弐斗宛年々致上納、是マデ横手村江差出候山手銀ハ以来相止メ、白須・台ケ原両村ノもの共伐拂候木品ハ、横手村エ引取、同村エ取置候木鎌ハ白須村江可相返シテ被仰渡候
一、訴訟方之もの共儀、白須村甚弥外五人、古田荒地其外小物成林江引込理不尽ニ立木伐荒侯迚(トテモ)右之もの共之持居候鎌六挺取上候段一同不埒(フラチ)ニ付急度御叱り被置候段被仰渡候
一、相手方之もの共儀大勢申合、訴訟万古田結論之場所エ心得違ヲ以入込、立木不残伐拂及狼籍ニ候始末、入込候もの共ハ勿論之儀、右場所エ不罷出ものニ候共右次第ニ候ハバ差留も可申處無其儀、村役人共ハ別而之儀、一同不届ニ付、名主ハ過料銭拾貫文・長百姓共同五貫文宛・両村惣百姓共ハ村高ニ應シ過料銭被仰付候段被仰渡候
  但シ過料銭ハ三日之内、當御役所エ可相納被仰渡候
 右被仰渡之趣、一同承知奉畏候、若相背侯ハバ重科可被仰付候、仍而(ヨリテ)
為後詮連判一札差上申處如件
   文化十一成十二月廿四日
                  甲州巨摩郡横手村
                  小前惣代  仁左衛門
                  同     氏右衛門
                  百姓代   孫四郎(山田氏か)
                  同     要蔵
                  長百姓   庄蔵
                  同     彦右衛門
                  同     彦兵衛
                  名主    彦左衛門(横手氏か)
                  同国同郡白須村
                   小前惣代  八左衛門
                   同     長蔵
                   同     庄右衛門
百姓代   作左衛門
                   同     勘兵衛
長百姓   杢兵衛
                   同     三郎左衛門
                   同     紋右衛門
                   同     惣弥
                   同     弥五左衛門
同国同郡台ケ原村
                   小前惣代  権左衛門
                   同     文蔵
                   百姓代   文七
                   長百姓   宇右衛門
                   同     孫右衛門
                   同     幸右衛門
                   同     傳右衛門
                   名主    八右衛門
同国同郡大坊新田
                  百姓代   長蔵
                   長百姓   傳蔵
                   名主    團右衛門
   野田松三郎様
  前文之通曲渕甲斐守殿・岩瀬加賀守殿御裁許之趣無相違、佃而為後証拠写相渡置者也
   文化十一成年十二月
         甲府御役所 (大坊・道村初大所蔵)
 解説
横手村訴訟と裁決状 文化11年(1814
 横手村・白須村・台ケ原村三ケ村入会境界をめぐって、横手村より白須・台ケ原二村を相手どって起した訴訟文と勘定奉行の裁許状である。 
文化十一年四月十三日に白須・台ケ原二村の者達が横手村分の草間林に入込んで、入会地を掠めたとして草を刈り、木を伐り倒した。横手村では現場の差押えとして白須村甚弥外五人を捕え、証拠として木鎌などを押収したところ、翌日に両村の者達数百人が押しかけて、ときの声をあげてあたりかまわず立木を伐り倒し、かつ出逢ったものに打殺すなどと罵り、小村のため対応もできずに代官所へ訴えた。この騒動に対する裁許状は、横手村は鎌を取りあげたことに対してお叱り、白須・台ケ原両村のものは現場に参加しなかった者も制止すべきであったとして対象者とし、名主は十貫文・長百姓は五貫文、惣百姓は村高に応じて罰金を課せられた。
 
 この訴訟には台ケ原村は納得せず翌年も続く。

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