甲斐駒ヶ岳開山関連記事 唄う坂(白州町横手尾白川南)不法道作り訴訟
『白州町誌』
解 説
横手村の人達が「唄ふ坂」に勝手に新道を拓いたことに対して、白須村・台ケ原村から代官所に訴え、両村に現場検証をするよう任命されることを願い出た史料である。この訴訟は文化十年、甲斐駒ヶ岳の開山は文化十三年である。当時村々の山の管理は厳しく、勝手に山を切り開いて登る事は出来なかった。また他国からの出入りは、通行手形や様々な手続きと了解事項が求められる時代であった。権三郎も大武川集落から山口番所を通過、上教来石・下教来石・鳥原・白須と通過してこの「唄う坂」を越えて横手に入る。当時名主は横手彦左衛門、長百姓に孫四郎の名が見える。この孫四郎の家系の人々が甲斐駒開山から以後の事に深くかかわっている。
甲斐駒ヶ岳の開山は小尾権三郎より他家によって為され維持されたことが覗われ、多くの部分で創作が覗われる。
乍恐書付を以奉願上候
- 私共一同奉中上候趣より時十三日夜四ツ時頃より横手村之者共、本村与申中處江通用道出合より唄ふ坂与申場所、私共通行之山道出合沾夜中新道作り候處、私共村方披人市左衛門と申者柳沢村より右場所通り懸り見届ケ候ニ付、名主許江告来り候間今朝村役人両三人見届ケ参り見届ケ候所新道作り候儀相違無御座候、依之早速御訴江奉申上候、尤右躰之利不尽取働仕候者共ニ御座候、勿論先達而才横手村江論所之番役被仰付候を申立ニ仕、番小屋所々二掛ケ置候而、其上論所場所江縄間竿等持参ニ而分間躰威儀等仕候義も私共村方小前百姓入会場江杯刈取ニ罷越見届ケ候儀も有之候左候得より横手村之者共一存之儀ニ而何ケ様之儀仕候哉も難斗奉存候間何卒私共両村より折々見届ヶ仕度奉存候間、願之通論所之場所見届ケ等被仰付被下置侯ハゝ両村一同難有仕合ニ奉存候、以上
白須村
文化十酉(1813)六月十四日
白須村 名主 長百姓 連盟
台ケ原村 名主 長百姓 連盟
野田松三郎様
御役所