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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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駒ケ嶽神社他 旧無格社 山田氏記載 (白州町誌)

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一部加筆
猶、由緒については歴史的に見て、史実を遠くかけ離れている。この山田家は甲斐駒開山小尾家と深い係わりを持つ。

駒ケ嶽神社 旧無格社(神社庁に登録がない)
銀座地 本社 横手字駒ケ嶽四三四九番地の二
     前宮 横手字宮沢三八〇四番地の二
 祭 神 大己貴命(おおむなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこのみこと)
社 地 頂上本社境内地  100坪
    駒ケ嶽山頂      80坪
    摩利支天山頂     20坪
    前宮境内地    1800坪
    前宮駐車場     200坪
祭 日      四月二十日 
由 緒
神の代に建御名方命この地に至りし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、「この山はいと高く清々しき地なり、かれここにあが御親の神を然るべし」
と云うに始まる。
雄略天皇の御代二年六月に、改めて賀州字迦〔✕賀州は中国の地名、○出雲郡宇賀郷〕(出雲大社)より遷祀したと伝えられている。
 祭神は国家鎮護、五穀守護の神大己貴命(オオナムチノミコト)にして、造化の神天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高皇産霊神(タカミムスビ)、神皇産霊神(カムミムスビノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、素盞鳴命(スサノウノミコト)、保食之神(ウケモチノカミ)等の諸神を合祀している。
 古代は巨麻嶽神社にして、また医薬の神、牧場の神としても信仰され、駒形明神、巨麻之神社とも称され、また駒形神社、駒形権現とも云われていた。文政六年(1823)神祇管領卜部朝臣長卿より賜わりし額字に巨摩嶽神社とあり、慶応二年(1866)神祇伯白川資訓王より賜わりし額字に駒嶽神社とあり、現在に至っている。
 駒ケ嶽は甲信に誇る高山であり、懸崖数千丈の絶壁にして、上古より神仙の集まる霊山として知られていた。
白鳳二年(662)役の行者小角が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢とも伝えられている。
 往古新羅三郎義光はこの神に祈願して子を授かり、その子孫が武運に勝れ繁栄するよう、山頂の巨石に延久主義光端光の五字がかすかに残っていたと社伝に伝えられている、延久(106974)は年号、主は祈願主、義光は新羅三郎義光と思われる、以来武田家代々の信仰が篤かったといわれている。
 この山脈に附属する里郷を六川筋と云い、六川のうち釜無川、濁川(現神宮川)、尾白川、大武川の四川が駒ケ嶽に源を発し、その下流一帯には牧場があり馬の産地であった。当山の源流には神馬の精が宿っているといわれ、この水により育った馬の中から多くの名馬がうまれたと云われる。厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の御愛馬はこの渓流によった神馬と云われ、郡名も本山により巨摩郡と称すと云う。
また広大な山中には珠玉、薬草を座し沢山の人がその恩恵に浴している。当神社は医薬の神、牧場の神として信仰されているため、牧場からの貢馬は神前にて安全を祈願し、山中から採取された薬草と共に朝廷に献上され、大同年間(806810)畏くも天皇の病を癒し奉ったと伝えられている。現在も病の平癒願って神社に訪れる人々が多い。
 大同類聚方に、
「其衣野郷の神祇より薬種を献上す、古へより牧場の事あり珠玉を産す、現今も山嶺より雑種云々」
とあり当神社の事が記載されている。(記載なし)
【注記】大同類聚方
(だいどうるいじゅほう)は、大同3年(808年)53日に成立した日本最古の医学書。                                     
 
文化十三年(1816)六月、信濃国の延命行者(小尾権三郎、死後弘幡大人(うし)と称せられる)は入山禁止の駒ケ獄に榔に許されて入山し、幾多の苦難を克服し峻岨なこの山に始めて登山の途を開かれた。他に駒ケ嶽開山として尊敬せられ神徳顕著により崇敬者の登山する者が多い。
・以米駒ケ嶽教(神仏習合)として発展し広く県の内外に多くの講社が結成され、宗教活動が盛んに行なわれるようになり、神社の発展にも大きく貢献している。また境内及び御嶽には神々の石碑が奉納され、文政六年(1823)駒ケ嶽山に元三大帥を勧請のみぎり東叡山(天台宗)の宮様より慈恵大師尊影を御下賜になり、同年、神祇管領卜部朝臣良長卿(正、「神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣良連」)より巨摩嶽神社の軸物を賜わっている。また神祇管領家(正、神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)より駒ケ嶽神社の額字を賜り、刻して前宮の鳥居に掲げている。
天保年間(183043)に至り凶年が続き「近年寒暑不時五穀不登(みのらず)百姓凍餓老餓稺顛(ちてん)連加之丙申の秋谷邨区民沸起蔓延近郷云々」とあり、ために時の代官が暴徒鎮圧を当神社に祈願している。
【注記】上記は天保騒動の事
 安政年間(185560)度々大風雨があり、社殿が破糾し再興に努めた。また祭典を春一回に改め明治初年より四月二十日と定め神楽を奉奏している。
 安政六年(1860)京都聖護院宮(天台宗)伝燈位権大僧都(でんとうい、ごんのしょうそうづ)を下向せしめ駒ケ嶽神社に天下泰平にして皇位が長く続くよう祈祷している。
 
奉修護摩供之事
    右意趣者
  今上皇帝宝祚延長
  征夷将軍御武長久
  御当城中御武長久 
  風雨須時五穀豊饒
  郷内安全意願満足
 安政六年今月今日 敬自
   伝燈位権大僧都  護摩主
 
 慶応二年(1866)には神祇伯白川資訓王より駒嶽神社の軸物が贈られた。明治初年に至り、政府は神道による祭政一致の立場から国家神道を発足されるため「神仏判然令」により神仏の分離を図った。
明治六年(1873)に神道皇祖駒ケ嶽教会が設立され、
明治十六年(1883)には内務省より正式許可され、
 明治十六年(1941)、駒ケ嶽教会が内務省より皇祖駒ケ嶽教会として正式に認可されるに当り、白川資訓卿より有栖川熾仁親王殿下に願い上げ、和歌一葉が当神社に奉納され、白川資訓卿からも添書並に和歌が奉納されている。
明治二十一年(1888)四月には、前沢の旧街道に、信州各講社の寄附金により大鳥居が建立され、信州方面からの夏山登山の入口とした。
明治二十三年(1890)神楽殿を新築し祭典も四月二十日に改め現在に至っている。
 明治三十一年(1898)に神道本局直轄(三等)皇祖駒ケ嶽教会となり、その後神道大教駒ケ嶽大教会となった。
明治四十一年(1908)各地の信徒代表者により、山頂に雄大な本社の建築が計画されたが関係官庁の認可を得られず、
大正三年(1924)に至り止むを得ず計画を大幅に縮小して現在の本社が新築され、本社鳥居は石材の都合上八合目に建設された。その後前官の社殿の新築が計画され、全国信徒の尊い浄財により大正末期より昭和初期の永い歳月により漸く完成した。
昭和十五年(1940)、各地に伝染病が発生し、このために祭典を八月二十九日、三十日に執行し、神楽を奉奏してこれが平癒を祈願した。
 戦後混乱期を迎え信仰心の薄らぐなか、
昭和二十七年(1952)には「宗教法人駒ケ嶽神社」として再出発する如になった。
昭和三十年(1955)に至り初めて神社に電燈を引く事ができ、世情の安定するに従い信仰心も旧に戻りはじめた。以来信徒各位の協力により、
昭和四十八年(1973)には前宮の社殿の屋根が銅板に、
昭和五十八年(1983)には社務所が新築され現在に至っている。
 
社殿建造物
本社 本殿、鳥居
前宮 本殿、拝殿、渡殿、神過般、神楽殿、祈祷殿、社務所、鳥居、
避雷針塔、狛犬
宝物
 ○青銅像 大己貴命像、大黒天像、刀利天像、摩利支天像、馬頭観世音像、
富士浅間大神像、宇気母智神像、牛頭天王像
 ○石 像 大己貴命像、威力不動明王像、摩利支天像
 ○木 像 恵比寿像、大黒像、摩利支天像
 ○巨摩嶽神社額字(神祇管餅卜部朝臣良長筆)
 ○駒ケ嶽神社額字(神祇伯正三位白川資訓筆)
 ○慈恵大師尊影(東叡山の宮様より御下賜)
 ○護摩供の書(聖護院宮様伝燈位権大僧都を下向せしめ下附)
 ○御 歌 有栖川宮蛾仁親王染筆、八宮良純親王染筆、白川資訓筆
○絵 画 妙見大神像、天之御中主命像、毘沙門天像、乗馬神像(英一蝶筆)、武者絵(鳥居清長筆)、官女の図(大西椿年〔チンネン〕筆)
筒粥の神事 一月十四日
 簡粥の神事は挙行年月不評なるも、延享四年(1747)の「横手村夫銭入用
帳」に、そのころ既に行なわれている事が記載されている。
 一月十四日夜半より翌十先日の日の出にかけて行なわれる筒占いの神事にして、その年の天候の平穏と農作物の豊饒を祈願して、その豊凶を予知するため蘆の筒を使用して行なわれる。
  1.  祭りの前儀
 十四日の午後祭員数名にて、その年の恵方に水を求めて山深き谷 川の水を汲み、五穀(米、麦、きび、大豆、栗)や使用する鍋等の用具を洗い清める。筒は新しい蘆二十数本用意し、九本、十本、十三本の三連とする。
 夜半十二時水行等で身を清めた祭員を先頭に社殿にて米祭式が行なわれる。祝詞奏上の後直ちに祈祷殿に移り、神前のカマドに五穀を入れた鍋をかけ点火して卜筒を入れる。太鼓の音の先導による心経奉唱が始まり寒夜を徹して行が続けられる。十五朝日の出(六時半ごろ)とともに終了する。卜粥の入った鍋は拜殿に戻される。衆人注目のうちに筒が順次二つに割られ、中に入った粥の の多少によって天候、豊凶が決められ「豊凶表」に記入する。
  1. 直会(なほらい)
 徹夜の神事が終ると、参会者に五穀の粥が配られ直会が始まる。この粥を戴くと一年中お腹の病気をしないといわれている。
開山式  七月一日 夏山開きの祭典
閉山式  十月一日 夏山じまいの祭典
大 祓  十二月二十五日
 師走祓、年越祓とも云い式典の後人形を配り、これに汚れをうつして身を清める。人形は古いお札、お守とともに、一間四方に張りめぐらした注連縄の中で教文を唱えながら燃やし一年の汚れを払う。
無形文化財
昭和五十五年・甲斐駒ケ嶽神社代太神楽が白州町の無形文化財に指定された、当社の神楽は古く徳川時代より奉奏されていたが、主として信者の奉納神楽であった。和のはめ前官の社殿が新築されたのを機に、地元の青年が諏訪神楽の流れをくむ大和神楽を伝授し現在に伝えている。別に甲斐駒ケ嶽神社代太神楽保存会を設立しその発展と育成に努力している。
当社の分社
祭神の分霊、分掌は古くから行なわれているが、昔時駒形明神とも称した時代、遠州厩崎の駒形明神、長坂上条の駒明神等は共に当社よりの分社にして、
 他にも各地に駒形明神が祀られている。
 江戸時代末期に至り、駒ケ嶽教は広く県内外に布教れ、各地に駒ケ嶽講中が成立されるに従い、駒ケ嶽大権現、駒ケ嶽社なる祠・碑が長野県平野村、甲府市山宮、韮崎市穴山町、穂坂町、甲西町、春日居町等をはじめ各地に現存している。<この項、山田瑞穂>

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