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甲斐の駒と地名伝説について 附駒嶽

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  甲斐の駒について
 

  『柳田国男全集』山島民譚集&甲斐の地誌による     

甲斐の馬関係の記載事項 馬蹄石
 
 甲斐の三御牧を示す遺跡や遺構などは未だに発見されていない。北杜市明野町で発掘された「小笠原牧」と称する遺跡は、大きな誤りである。それより小笠牧が明野町に在った事などは、後に地名となった小笠原に後世の人々が結びつけたもので、史料の裏づけもなされていない。
小笠原牧は、その後の南部氏の発展や南巨摩地方に集中して牧が文献に現れてくることを考慮しなくてはならない。最初にその比定地を限定してから論拠を展開しても無理が生じる。曖昧な箇所が多くなり、史実とはかけ離れていく結果となる。
また不思議な事に山梨(甲斐)には牧場の古称が以外に少ない。隣の長野や群馬には今でも溢れる位その関係の地名が残っている。
 山梨の研究者も専門書に自説と仮説を展開し定説化しているが、それは歴史を混迷させる結果となり、史実と遠ざかる要因とも成りかねない。
歴史は歴史家や研究者の占有物ではなく、多くの人に親しまれ理解されてこそ意味があるもので、特に甲斐に展開した古代勅旨牧の研究は一向に進んでいない。
最近柳田国男先生の『柳田国男全集』「山島民譚集」を読む機会に恵まれたが、山梨関係の記述も多くあり、それは「甲斐国志」そのた地書を引用してあるが、山梨県ではそうした先生の著作を引用している書は少ない。
  今回はそうした柳田先生の著作」から「甲斐駒」に関係する箇所を抽出して提示させていただく。
先生のその他の民俗などの記述は、又別の機会に紹介させていただくが、今回、意外と思われるくらい、甲斐の御牧比定地周辺の伝承が少ないことが気になる。
 
  御牧比定地 
『柳田国男全集』山島民譚集&甲斐の地誌による。
1、祭ノ慎
…甲州にては東山梨郡松里村大字松里上井尻組の諏訪明神は例祭旧暦の七月なり。七月一日の日より始めて此の日まで氏子の物忌最も厳重なり。
 其の間は声高、普請及び縄目を結ぶことを戒め、又祭の日には葦毛の馬を牽き出すことを禁ず。
2、祭ノ慎
…東八代郡富士見村小石和組の諏訪明神も葦毛の馬を忌みたまう。里人之を飼うことあれば神必ず之を隠す。
3、金剛の妻
…後世の学者之を記載し更に付加して曰く、葦毛の馬の糞は金剛の妙薬なることは、既に『甲陽軍艦』の松代攻めの条にも見えたり。
 今御当家に於て悉く此の毛の馬を忌みたまうとありては、飼う人の無くして次第に其の種を絶やすに至るべし。云々
4、嶽又は岳
…諸国の名山に駒ヶ岳と云うもの多きは善く人の知る所なり。云々
 (中略)駒ヶ岳に駒の住むと云う説は、北海道の渡島の駒ヶ岳にも在す。
5、駒形権現

…奥州の駒形神は成程古し、神名帳の発表より五十余年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり。《文徳実録仁寿元年(851)九月二日条》箱根の駒ヶ岳に祀らるる駒形権現の如きも、安貞二年(1228)の火災の記事に、それより又五百年前の創立とあれども(吾妻鏡)云々

6、馬頭観音
…甲州などの馬頭観音の石像は、今も馬の首を頭上に戴きてはあれど、頭より下は真の観音に成り切って、馬の首は追々小さく、殆ど丁髷ほどに退化しまるもの多しと云えり。
    (『甲斐の落葉』)
7、黒駒巡国
…最も古き記述によれば、太子の愛馬は四脚雪の如く白く極めて美しき黒駒なりき。推古女帝の第六年の始めに、諸国より献上せし数百頭の中に於て、太子は能く此の黒駒の駿足なることを見現わしたまう。

同じ年の秋太子は黒駒に召し、白雲を躡みて富士山の頂に騰り、それより信濃三越路を巡りて三日にして大和に帰らせたまう。                 (『扶桑略記』)

甲斐の黒駒は此の馬の名には非ざりしも、黒駒は夙くより甲州の名産にして、且つ俊逸の誉高かりしものなり。 
8、神馬足跡
…甲斐の黒駒の遺跡に至りては、太子に対する崇敬と伴いて更に弘く国内に分布せり。 (日本書紀雄略天皇十三年九月条)
9、馬蹄石
…先ず本国の甲斐に於ては、東山梨郡等々力村の万福寺の門前に太子の憩いたまいしと云う馬蹄石あり。此の寺今は真宗にしてもとは天台宗、而も聖徳太子のを以て開基とす。
  (『本朝国語』)

四つの蹄が四つながら鮮かに現われ居ると云えば(『甲州噺』)勢いはずみに打ち込みたるものに非ずして、静かに且つ確実に印したる痕跡なり。同じく東八代郡日影村字駒飼宿の駒飼石に至りては、五間に三間の石の面に二十一箇所の足跡ありき。上宮太子此地に於て黒駒を飼いたまうと伝えたり。此石は享保年中笹子川の洪水の障りとなりて多くの民家を損ぜしより、之を割りて川除けの石堤を用い(『甲斐国志』)今は其の片影をも留めず。       (『山梨県市町村誌』)

其の他東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野権現の小山に馬蹄石。
同郡松里村大字松里三日市場組の馬蹄石一名を駒石。
北巨摩郡穴山村字黒駒の馬蹄石。
北都留郡初雁村下初雁組カンバ沢山の馬蹄石などあれど、
何れも聖徳太子の伝説を伴わず。

穴山の馬蹄石は黒駒大神の社頭に在れども、此の神は汝と建御名方との二尊を祭り、昔諏訪の神黒駒に乗り此の地に来たりしたまいしより社を立て名を定めたりしと称し、          (『山梨県市町村誌』)

初雁の馬蹄石は数多くの馬の蹂躙したる跡なりと云。
(『甲斐国志』)
黒駒が聖徳太子の知遇を忝くせしと云うは大和の朝廷にての事なり富士往来の三日の外、後に郷里に還りたりとも見えざれば、太子の口碑の甲斐に多く存せざるは寧ろ当然なり。  
  『甲斐国志』  
  • 牧野明神
… 四方津村(現、大月市)の東を牧野と云、牧野明神の社
あり。村民皆牧野氏とす。古牛馬の牧ありにしや。云々
… 駒宮 駒宮村(現、大月市)諏訪明神(前略)野馬を遂聚め給ふ処を駒沢と云。野馬を捕繋き給ふ石を駒石云。云々
  • 諏訪明神…中条村(現、韮崎市)古名を牧ノ神社と云。
  • 黒駒明神…穴山村(現、韮崎市)。
  • 駒形明神…(現、須玉町)古牧場の守護神なりと。
   『秋山村誌』「古代と中世」
  (前文略)
甲斐は穂坂、武蔵は立野、信濃国は望月牧が中心であったことがわかる。
御牧の分布は、それぞれ地域的に結ばれた四カ国に固まっていることは、特に注目に値する。 帰化系の人々との動向にからむものとして考えられるが、もう一つ重要なのは、秋山村と国境を接する奥牧野であるけれども、元来はこの地帯は地縁的には秋山村を含め武蔵との関係の方が濃密である。
武蔵の御牧は立野・小川・石川・由比の四牧で、あるけれども、その内立野牧は町田市の小山田庄一帯で、のちに小山田別当有重の子六郎行幸が、父の所領の都留市田原に入って郡内小山田の祖となっている。
小川牧は多摩川の支流秋川にそった西秋留、東秋留付近である。武蔵七党の一つ西党(小川氏)の本拠地である。石川牧は現在の八王子を中心とする地域であった。

のちの勅使牧に加えられた小野牧は、多摩郡小野郷一帯で、いずれも甲斐国境に接し、横山党(小野氏)の本拠地といわれる。

なお上野原町には牧野牧というのがある。地名にも牧野がある。さらに注目すべきは相模牧で秋山村の一部が含まれ牧野地名がある。
天慶四年(941)に官符を下して国ごとに五十疋の貢進するように仕組みが変わり、諸国に牧が乱立した。云々  
『明野村誌』「村の沿革」(昭和三十八年発行)
三御牧の所在については国志が考証を進めるが、それによると、
穂坂の牧は穂坂・(明野)小笠原、上手、朝神村にまたがる主として茅ケ岳山麓に展開する丘陵地帯を占めていた。
柏前の牧は北巨摩郡高根町(旧樫山村地帯)であったといわれ、いまも村内に柏崎牧といわれている区域が残されている。
 地名としては南牧ヨセ・北牧ヨセ・野馬平・掛札などという地名で残っているが、国志は逸見の牧というのがこの牧の事だといっている。
 (中略)もっとも国志は異説を引例しており、勝沼町柏尾の薬師で有名な大善寺の付近に尾崎村という地名があり、岩崎山に並んで黒駒山に続いているところから、黒駒牧が即ち柏崎だと旧説にあるとあげているのである。
しかしこれは附合が強すぎるたわいのない説のようである。次に、
真衣野の牧であるが、国志は北巨摩郡武川村(旧牧原村)がその地点だといっている。たゞ証する文献がまったくなく、規模内容等が不明であるが、地名伝説は幾つか有しており、駒ヶ嶽は勿論その一つといわれ、聖徳太子伝説も、駒城村の名前の起こりもすべて真衣野の牧からおこったものと説いている。
(中略)これらの説によっても判る通り、穂坂の牧は院政の衰微期から小笠原氏の台頭期に至って二つの名前(穂坂牧・小笠原牧)が生まれ、使用されていたものであり、やがて小笠原の牧の名が次第に著名になるに及んで、穂坂の牧の名がその傘下に消えていったものであろう。云々
(中略)夫木集に表わされている歌は『みつ』がすべて『へみ』に直されている点である。どちらが正しいかは問題であるが、貫之の歌は正しく『へみ』であるのも注目されよう。云々
 
 明野村誌に見る、現存する明野村御牧の遺構
 
牧場に最も関係の深いと思われる地字を、慶長・寛文・延宝・貞享等の検地帳等から拾いだして見ると本村一帯には今もなお往時の俤を伝える遺跡が所々に残っている。
  (抜粋)
小笠原村 かこいの内・おふちかこいの内・まと場・とりて・牛ケ馬場・馬場
上手村 馬場
浅尾村 まき場・馬かい場
馬検所 
小笠原旧村から正楽寺組に通ずる路傍字机腰に、馬検場と呼ぶ遺跡があとある。石段を三段に積み、方約三十間許りの閲馬の跡といわれるところがそれで、(略)国司・牧監等が立会って、産馬を検閲し、年々定められていた貢馬を帳面につけ出した所であるという。云々
馬上坂・馬下り坂
 正楽寺組から穂坂の三之蔵へ抜ける山坂の三之蔵分を馬上坂といい、正楽寺組分を馬下坂(ばくさか)といっている。
 
若草町誌
甲斐には二つの小笠原地名があるが、中巨摩郡櫛形町にあったのが原小笠原荘、明野村小笠原は山小笠原荘の違名であると考えられる。原小笠原荘が小笠原氏の発祥地であり、(略)原小笠原荘が櫛形町小笠原付近であった。
 
富士見町誌(長野)
平安時代で明らかになっていることと言えば、甲斐穂坂牧の御料馬を京都に運ぶのに、伊那へ向かう御所平峠が利用されていたということである。(中略)恐らく、甲斐之駒牽は穂坂牧、真衣野牧、柏前牧と貢馬を集め、この古道を利用し最も近い峠を越えて京都に上ったものと推測される。(略)「武川御牧」が真衣野牧の後身であるとすると、十二世紀の末から十三世紀の前半にかけて、規模が縮小しても鎌倉時代まで駒牽が続いていたことが知れる。
 
望月の牧 長野県佐久市 『佐久市誌』他
  望月の牧地は、千曲側と鹿曲川で囲まれた御牧原台地に否定されている。(略)現在は北御牧村・望月町・浅科村・小諸市にまたがっている。御牧原の南部、スガマ地籍には菅(スゲ)も自生する湧水があって、感想地御牧原の中ではオアシス的な地域である。ここには須恵器を焼いたいくつかの窯跡が残り、平安時代初期とされる信濃最古の鉄鐘(重文)が出土している。高良社は高麗社で、このあたり牧場開設にかかわりのあった朝鮮半島からの渡来人の社といわれている。(略)牧場を面する野馬除は、断続的にその跡をとどめている。この跡はたどると、それは百沢北方から東北にのびる尾根にそって、富士塚の三角点に至り、それより西北方向へスガマを貫き、御牧中央の四つ京から、とや原を経て下之城集落の東に達している。この間、富士塚より約御キロメ-トルはほぼ直線的に通じ、いまも所々に野馬除の隍や土居跡をとどめている。(略)約千町歩が望月の牧ということになる。
当時は馬一頭に対して牧地一町歩が必要とされたという。そして馬の病気の発生や牧草地の荒廢を防ぎ、良馬を育て牝百疋につき、毎年六十の小馬を生産するという義務を果たして牧場経営の成果をあげるためには、いくつかの支牧を設けて輪牧をおこない、繁飼場や馬場を設定して、高度の飼育・繁殖・調教などを行なう施設が必要であった。望月牧には御牧寄・駒寄(略)春日にも駒寄・牧寄がる。
 塩野牧
塩野牧の名は、塩野(御代田町)の集落名にその名をとどめている。(略)馬柵口の地名は重要な意味を持っている。馬柵口を「古昔柵口」(ませぐち)と称すといい、村社を柵口神社としている。           (『長野県町村誌東信編』)(略)八満(小諸市)地籍の標高約千メ-トルに「牧留」それよりすこし下がって「古牧」の地字がある。
長倉牧
軽井沢町沓掛駅の北方四00メ-トル、東は離山下の小学校裏付近から西は借宿・追分付近に達する東西一直線に断続して連なる低い「駒飼の土手」の跡が残っている。(略)同じく軽井沢町の地籍には馬取萱(馬取が野)・馬越原・馬越などの地名や駒形神社なども所々に残っている。

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