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 親子二人で開山した甲斐駒ヶ岳 

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 親子二人で開山した甲斐駒ヶ岳 
南アルプスの北端に響える鋭峰甲斐駒ケ岳開山に秘められた伝説と史実
『歴史読本』「歴史の旅 特集 ふるさとの山河」昭和448月号
 藤森栄一氏著 一部加筆

長野県を代表する考古学者藤森栄一は、明治44年諏訪に生まれ、昭和48年に没するまでの62年間その激動の人生を考古学とともにひたすらに生き抜いた。
伝えられるところによると、甲斐駒ケ岳には、二人の初登攀者といわれる人がいる。
一人は信州諏訪郡上古田村住の延命行者、登攣年次は文化十五年(1816)。いま一人は同郡東山田村住で善心坊、これは主として諏訪湖北岸に伝わっている説話である。
今と違って、同じ峰でも、東稜登攀とか、北壁初登攀とかいったコースのバリエイションのない、二、三世紀も古い、江戸中期のことである。一つのお山に二人の開山、これは少々異常なケースとして調査に価する。
善心坊
 善心坊については、彼が生きたまゝ入ったと伝えられる。
「入定善心比丘不二位 元文四己未(1749)天十月二十日」
と刻んだ墓が、東山田区駒形丘陵の庄塚墓地に残っている他、記録はまったくない。ただ、僅かに古老の語り伝える説話の残片が残っているだけである。
 本年、八十七歳になる旧庄屋の何代目かの高木覚兵衛さんの記憶をテープにとって再現すると、次の通りであある。
「善心坊って聞いたことある?」
「善心かや。ありゃ破戒坊主だっちゃ。庄塚下に家があったてことでのう。何でも女たらしだったんぢゃろ。わしが若いころはな、後家荒らしする奴を善心坊みてえな奴っていったもんだな----
「善心が甲斐駒へ登ったことを知っていますか?」
「うむ。駒ヶ岳開山行者になるちゅうで、村から合力を集めた。お山が開けたら、入定して善心霊神になる。そうして、御恩に、村の無病息炎を護るちゅうことだった」
「で、開山したのでしょうか?」
「それがな、一夏たって帰って来た善心は、駄目じゃっていうんだな。だから、入定する代わりに、お詫びに小田野の山林へ入えりこんで、山を拓らきはじめた。人が変わったように、いくらでもいくらでも気ちげえの様になって開墾した。それが、いまの善心畑だ。ところがな、その山作り中、毎日、山の神が出て来てな。----「善心まだかや」----「善心、入定はまだかや」----っていうんだそうだな。善心は青くなって震えていたが、いくら耳を指で蓋をしても聞えるそうだな。とうとう、善心もたまらなくなったずら。村中に触れて入定することになった。断食三日目に我慢できんで逃げ出したが、村の衆に見つかり、連れ帰えされてからは、座敷牢の中で、断食をした。村人たちゃあ、善心だって、たった一度くらい、いいことをして死んだっていいぢゃあねえかって、入定を執行しただよな。大きな男じゃったが、十四日目の墓へ入る日は、骨と皮ばかりに瘠せて立てねえので、家から庄塚まで、山道にムシロ(莚)を敷いて這って行ったそうだな。秋だが暑い夕方で、西日が真赤に照らしてな。善心は、山路の曲り曲がりで、草や木にしがみついて、むしった草を噛んで涙と花水でぐちゃぐちゃ、さんざん泣(お)えたそうだな。生き埋めにしてからも、子供が墓の上で、気抜きの穴から、善心と呼ぶと、チッチンと土の中から、気狂(きちがい)のように塊を敲く音がして、七日もつづいたそうだな」
「随分お詳しいですが、誰からお聞ですか」
「誰ってこともねえがな」
 テープの覚兵衛さんの話は、もう幾代も幾度となく語り続けられ、またこれからもそうであるらしい祭文語りのような一種完成された格調をもって、信仰というものが生命という絶対者に対してどんな意味をもつものかを語り続けている。
延命行者 小尾権三郎
 延名行者のほうは、善心妨に比して、非常に史料が豊富である。
まず、上古田公会所には、彼の自画像と、雅印が一夥(かく)残っている。自画像は、色紙大の小さな絹本で、墨一色、岩へ腰巻下ろした登山姿らしく、半纏・山袴に、脚絆、額に兜金(ときん)を頂き、右が錫杖(やくじょう)にすがっているところは、まず、一般の修験者の登山姿と変らない。下駄は高い二本歯である。
変っているのは、ただでさえ、強そうに描かれる修験者姿なのに、延命行者は意外にも、小型な丸い体躯で、頭も丸く、やさしい温和ぽっちゃりした童顔に描かれていることである。特にポッんと円い両眼、それから厚い肉感的な唇が印象的である。雅印も、自刻らしい滑石製で、「延命行者」とやさしい字の陰刻印である。
 ところが、上古同区蔵の「駒ヶ岳開山威力不動尊由来記」によると、その風貌からは、ちょっと想像もつかぬ激しい人物だったらしいことがわかる。
御名は権三郎と云う。父は小尾今右ヱ門と云う、寛政八年(1796)を以って、その次男に生れ給う。幼にして穎悟、非凡の天質を備え給い、神仏を崇敬せらるゝこと大人の如し。七歳にして、学を郷車両角氏に受け給う。すなわち一を聞いて十を知る。十有五歳にして出て、高島藩家老千野兵庫に仕える。何時か神私の加護により法力を体得し、或る朝、千野氏の若殿に、庭前の梅の木にさえずっている鶯を、枝を折りながら取り来たりて、御覧に入れたと云う。
その他、驚異のことのみ多いので、藩老の仰せられるように、汝は凡人ならず、すべからく然るべき師について、法術を究めるべしと、資金を若干与えて上古田に帰す。
 この記述の内、権三郎少年の法力、特記された鶯に催眠術をかけたような挿話は、誰が考えても少々怪しい話である。
 が、しかし、延命行者(小尾権三郎)の生涯のイントロダクション(物語など)としては、かなり重要な意味を持つものと思われるので、できるだけ追及してみる必要がある。それにしても十五歳の少年の出来過ぎた話には、何か作為、つまり手品の種がありそうである。もし有るとすればそのトリックは十五歳の権三郎の仕掛である筈はなく、その父、今右衛門以外にはない。
権三郎の父小尾市右衛門
 しばらく、諏訪史談会編、「諏訪史蹟要項」(茅野市豊平篇)によって、小尾今右衛門を迫って見ることにする。
今右衛門の祖先、小尾若狭守義定は甲斐北巨摩郡小尾村(北杜市須玉町小尾)の出自である。
武由の残党
八ヶ岳中腹の逸見(へみ)筋、この小尾村から眺めた甲斐駒の突兀(とつこつ)とした山容は、前山がほとんどなく、釜無川の溪谷から直立しているだけに、日本の山には珍しい量感を持って迫ってくる。この辺りから信州の国境へ入ってから、ずっと諏訪湖岸まで、そめ景観は同じようである。遥か湖盆を越え、明石山脈の入笠山や釜無山の上に、更にグッと高く、白いピラミッドのように輝く駒ヶ岳を望むのは、ちょうど、聖なる三角形を仰ぐ感である。
そうした景観は、今も昔も、人間のあらゆる現象の移衰にも関係なく永遠におなじで、ただ、春夏秋冬の顔をかえて行くだけである。
織田信長の侵攻
 天正十年(1582)三月、天竜川を遡上して、信長の軍勢が、信州から甲斐になだれ込んできた時も、駒ヶ岳は、いまと丁度おなじ、初春の顔をしていた。多分、想像できるところでは、小尾一族はそのとき甲斐を捨てて、信濃八ヶ岳山中、上古田へ頓入したわけであろう。
すると今右衡門にいたる小尾家の歴代には、故郷甲斐巨摩の郡についての多い執念が流れていたといってもよい。
武田の残党で、国境を越えて、八ケ岳の南麓から北麓に入った人々は、まず、そのあまりにも違う風土に驚いた。麦の後に米のとれ故郷に対して、新しい開墾地では、春になっても麦はまだ、硬い根雪の下にかじかんでいた。しかし、これも止むを得ない。何分海抜千米に近い高冷地で、それに村は凹地だったため、初夏の集中豪雨や、台風の都度、八ヶ岳火山灰台地のロ-ム土が押し出して来て、何度客土しても、田圃は年々、厚い酸性の赤土で厚く覆われた。
 かといって落人であって見れば、簡単に他所へ移る訳にはゆかない。小尾一族の歴史は、断ち難い郷愁にかられ乍らへ誇り高き甲斐源氏の、次第に落魄して行く歴史でもあった。
今右衛門 木曽御嶽で開山開化
今右衛門が、上古田の庄屋小尾家を継いだのは僧、天明五年(1785)だった。村の窮状は、平常の乏しさに加える長い飢饉で、もうどうにもできない土壇場まで追い込まれていた。既に、この村が救われるためには、僅かな山畑や谷間の水田の農耕などでは、どうしょうもないところまで来てしまっていたのである。
 今右衛門には、まだ、ぼんやりとして、一向にまとまらない乍ら、一つの想念があったと思われる。
----ここには、一かけの食物もないと言うのに、あれは何んだ----
 昨日もそうだったが、今日も修験道の山伏の先達に引き連れられて、たくさんの男女が、白衣の帷子(かたびら)で、鐸鈴を鳴らし乍ら、善光寺道を下って行く。かつて、善男善女が善光寺へ流れて行った同じ道である。
 御嶽講の講中だった。聞いて見ると、来世の浄土より、家内安全・無病息災・一家福徳・災難調伏の現世名利の方が幾らか益しという。これは、どういうことだ。今右衛門は御嶽講の本拠、木曽福鳥へ行って見た。深い森林を尾張藩に押さえられ、水田はおろか、畑もない、この陽も満足に射すことの少ない谷間の街は、生き生きと躍動していた。講社を中心に、門前市は面白いようにざわめいているのである。
今右衛門は、故郷に思いを走らせた。「そうだ。聖なる三角、駒ヶ岳だ」今右衛門の幾代も続いて、夢に描きつづけてきた故郷の甲斐駒が浮んだ。
「駒ヶ岳講、そうだ、その開山だ」
権三郎初登攀(尾白川溯上)に失敗
 総領の亀次郎を家事に、今右衛門は幼い次男権三郎の訓育に打ち込んだのはそれからである。
 訓練(修行)は苛酷を極めた。走る。岩を攀じ登る。断食をする。水を断つ。眠らせない。その他、権三郎はその都度泣きさけんで嫌がったが、今右衛門は呵責なく鍛えた。つまり、権三郎の幼年は、甲斐駒ケ岳開山の悲願だけに、常住座臥の一切がしばられていたわけである。
 文化十年(1813)六月、今右衛門は十七歳の権三郎を、尾白川(白州町白須)徒渉(としょう)点に、十日分の乾し飯を与えて放置した。放置したと言う書き方は、おかしいようであるが、今右衛門の執念にとって、既に、権三郎は条件反射学の実験動物のようなものであった。この川筋をつめて、頂上を極めて帰える他、生きて上古田へ帰る方法はないと、固く信じさせられたのである。
しかし、その尾白川遡上は失敗だった。今右衛門には渓谷遡上の技術的むずかしさについては、何の知るところは何もなかったのである。
尾白川には、三の滝から始まって、現今の登山技術でも遡上不可能な千丈滝まで、数個所の滝がある。小説風に云うなら、その滝のいくつかを遠く巻いて昇り越え、とうとう、どの滝かで、進退極まって倒れた権三郎の苦闘が描写される筈のところであるが、実際には、それが、一向に分かっていないのである。ただ、分かっているのは、滝に身半ばをつかり、倒れていた権三郎を、岩魚釣りの樵人が発見して背負い降ろして、麓、北巨摩郡横手村(現白州町横手)原の旧家旅籠山田孫四郎宅に収容、命拾いをしたことだけである。
権三郎、上古田に帰る
溯上失敗で上古田に帰った権三郎に、今右衛門の激しい再訓練が、また一年続いた。今度は渡渉と、滝をまく技術にしぼられた。
権三郎、大武川本谷へ
 翌年夏権三郎は、今度は大武川本谷へ入った。滝をまく訓練は八ヶ岳の渋川・柳川の渓谷での猛訓練があったのだろう。この年は行程が割合にはかどったし、記録もある。
それは、第三日日の「子別れ」の岩陰までは、今右衛門が、鉈を持って、荊棘を伐る手助けをした日記が残っている。気の急ぐままの陣頭指揮というところでもあろうが、日記も無愛相な候から候でつながった候文で、頗る難解である。
本谷ハ水少クテ候、一ツ二ツ左方ヨリノ沢ニ出合ヒ候、倒レ朽チタル木、流し積ミタル木柏重居候水ドニ歩ヰ難ク候、透ニ落チ程ニ権三郎ガ声存天ニキコエ候ホドニ候
 以上は、ほんの大武川本谷切入口の描写である。流木倒十本が本谷いっぱいに積み重なって、水は造か深い渓底を流れていた状態がわかる。文化十年(1813)の夏は、中部日本に大旱魃のあった年である。大武川の水量が甚だし
大武川遡上
 今右衛門の手記は、百年前の山の博物誌をみるようである。
一の沢、二の沢の出合を渡って、赤薙の沢をすぎたところに、小さな滝があった。もう二日目の夕暮れだった。滝下の深い淵に、真っ黒な水が深々と沈んでいる.岩漁がしきりに腹をひるがえしては、空気を吸っている。水をくむため蔓で吊った鍋を下ろしてやると、数匹の岩魚が躍りこんできた。ふとみると、魚を追って、白い腹をひるがえしているのは、二匹の獺(かわうそ)である。
と書いているが、これはハンザキではなかったろうか。鍋の湯で蕎麦粉をかいて喰ったと木喰戒らしいことを書いているが、むろん、腹一杯に岩魚を喰って栄養をとっただろうことは、今右衛門の言動からみて明らかである。
三日目には、出発するとすぐ、上下につらなる滝に合った。水はほとんどない、二人して真っ白の御影石の滝をよじ登って見ると、そこの瀬は僅かに五六寸の水が残り、一尺もあろうと思われる岩魚がひしめき合って、今にも自ら溢れ出しそうであった。二人は夢中でそれを撲殺し、焚火をして炙った。谷の水はいよいよ涸れていった。左からの小さな沢を越えるとき、今右衛門が大きな棘(とげ)を踏み抜いた。枯れていたので斬れてしまい、今右衛門は小束で掘り出し、煙管のヤニと吸殻灰をまぜて、そのあとへ塗った。
 右側からめ沢はかなり水量があった。駒ヶ岳主稜から出るはじめての沢だった。遡上をあきらめた彼は、すぐヒョングリ(ねじれた)かえった大きな滝に当ったからである。このとき、リスの大群が一斉に滝の上を渡ったのをみた。
 この辺の倒木のびどきは、谷の上に倒れては重なり、朽ちてまた倒れ、二人は掛橋のような樹幹を渡り、いくども転落し、荊(いばら)に全身をとらわれた。ヒョングリの滝を攀じ登ると、異臭がはげしく鼻をつき、思わず二人は顔を背けた。沢は案外に平坦で、水はすっかり涸れ、そこは見渡す限りの岩魚の墓場だった。両岸は灰色の嶮しい断崖が立ち並び、高巻のしようもない。二人は嘔吐を催しながら、岩魚の死骸をグチャグチャと踏み込んで、夕暮れまで沢身を進んだ。
三日目の夜、赤い岩石の多い沢の脇に、恰好な岩陰を見つけて、背中の岩魚を降し、包を開くや、二人は嘔吐した。午前焼いた魚が凄い悪臭を放つのである。手も脚も、衣類も、二人はとうとう、何も喰わずに倒れこむようにそこへ眠った。今右衛門は夜中うなされどおしで朝を迎えた。
今右衛門の手記はここで、実況から離れてしまっている。その夜から、右足が腫れ上り、彼は一歩も歩けなくなって、大変な発熱である。それから上は、権三郎一人が登ったのである。権三郎はいくつかの滝をよじ、谷をつめて、仙水峠の向いの沢を、直接、駒主峯に挑んだらしい。そして、屹立てする摩利支天の裏白な花崗岩の巨塔に、空しく追いかえされたものと想像される。
傷ついた今右衛門(筆者挿)
 今右衛門の言う子別れの石室から、傷ついた今右衛門を負って、大武川本谷から脱出すると権三郎の苦闘は、今右衛門の手記によれば、当今向きな、ちょっとした残酷物語だが、先へ急ぐことにする。
 谷を遡上するより、下ることが、いかにむずかしいか。それも片脚きかない熱病患者をかかえてである。二人は横手村の山田孫四郎邸に再び倒れ込んだまま、三月を、そこに過していることでもわかろう。
山上阿弥陀来迎の図
権三郎単独登攀か?(筆者挿)
 三年目の文化十三年(1816)六月、権三郎は、始めて、稜線を辿って行く正攻法をとった。前二回の谷登りの苦い体験から学んだものであろう。上古田区有の自画、延命行者開山の図を見ると、どうも、この三回目も、単独行でなく、サポーターくらいは連れていったらしい疑いがある。岩に憩っている権三郎の図には荷物らしいものが全くないからである。しかし、二回目とちがって、今右衛門は同行しなかったことは確かである。足が回復していなかったのかも知れない。そのため、権三郎は手記を残していないので、コースの詳細はわからないが、横手村原の山田家を根拠に、笹ノ平、黒戸山稜線から、五合目、七各目を過ぎて頂上を極めるか現今の正面登山路を開いたものと思われる。肝心な初登攣のデータがはっきりしないのは、何としても残念であるが、若干の手がかりはなくもない。
まず、前出した「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」によれば、
権三郎乃ち腰の数日の糧として蕎麦粉を用意し、独力草、荊棘を切り開かれ、万古不伐の秘境に入り給ふ。此の如くにして、糧尽き、力極まりぬれば、乃ち家に帰り、力を養ひ、糧を携へて再び深山に分け入り、樹を亘り、岩を鬱じ、嶮岨身の毛もよだつ絶壁を伝ひ、岩下に臥し、飢餓と戦ひ、草根を食し、辛苦を重ねて、神明仏陀の加護により、遂に頭上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり。時に文化十三年(1816)六月十五日、御歳正二十歳の時なり。
 以上のような次第で、まあ、初登攀成功と言うわけであるが、どうもマスコミ文書風のきまり文句で賞讃だけに終っているのがさみしい。どうも、ここまで来て残念な次第である。
 私は再び上古田を訪ねて見ることにした。
文献は既に出尽して研究しつくされたようなので、区内の口碑伝承のたぐいを聞いてまわった。結果、案外にたくさんな、いろいろな咄が集まってきた。子供の頃、胎児の性別月数を言い当てて叱られたこと。どうもこれは、あまり頂けない話で、例の枝に呪縛された鶯の話と同じ、大人の作意がうかがえる。
 「大智は却って愚かなる如し」といった風格だった。おそらくこれこそは真を伝えたものだろう。それは自画像からも言えることだ。草根薬種の術に詳しかった。これは行者の常識。寒に入ると、寒行をして、普く人類の災難病苦を救った。どれも手掛りというほどのものはない。
 大法徳、近郷に聞え、遠くは甲斐、武蔵、相模、近くは伊那、筑摩から、善男善女が集った。これは、駒ケ岳開山の利徳といえそうである。もちろん、今右衛門の初願は叶えられたわけで、寒村上古田村の願いも見えるようである。
 ところで、信徒・門人を集め、自分の死期を予言した。そして、その予告した日の「同時刻に死んだ。これは少々おかしい。今までの挿話はまあ良いとしても人間の命、これは当るかむしれないではすまないことである。
 威力不動尊堂、即ち延命行者墓へまわった。遺骸は上古田村を眼下にした、八ヶ岳泥流台地の一つ、棚畑の上に、榧の木の木立に囲まれていた。眼を上げれば黒い程に青い空の下、入笠山を踏まえて、真っ白な聖三角、駒ケ岳の岩峯か望まれる。
付近は一面の
付近は一面のローム層火山酸性土質で、黒土はほとんどない。これでは、掘って見る
までもなく、遺骸は死後五十年を経ずに、とうの昔に、朽ち果てているだろう。墓碑は大
きな自然石で、
「駒ケ嶽開山功徳院威力不動尊・文政二年(1819)六月十五日」
と刻んである。私はそれをノートした。六月十五日、これが予言した日であるが、何か記憶にある日付の様な気もした。其の日付、六月十五日が、駒ヶ岳初登攀の当月だったとことに、気がついたのは、不覚にも十日も後のことであった。これはいったい、どうしたことだ。延命行者は、開山の日に死ぬことを予言したのである。関山と死と、何か関連があるのだろうか。「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」をいま一度、読み直してみた。あった。最後に不可解な文句があった。
「遂に頂上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり」
天日はわかる。おそらく、深い霧の中だったのを、登頂すると同時に、僅かだろうが陽が射したのだろう。そうすると、弥陀来迎は阿弥陀如来が見えた、これは何だ。そうだ。ブロッケン山の怪だ。
ウインパァの『マッターホーン登攀記』の中で、七名のうち四人のメンバーが、下山のロープ切断によって、墜落した直後に、空中に浮ぶ巨大な十字架を見ている。天保五年(1834)に日本アルプスの槍ヶ岳を開山した播隆和尚の手記が、松本市の日本民俗資料館に残っているが、これにも、この現象の記述がある。
深い霧の中を別けて、播隆が槍の肩から、突端にはい上ると、一瞬、密雲は霧散し、陽がさすと同時に、「霧の中に、弥陀の大尊像を拝す。恐懼して踞拝せんとするや、そも如何に、尊像たちまちにして消え給ふ」
と書いているのは、やはり、この「ブロッケン山の怪」の現象で懸る。自分の影であるだけに、伏し拝すると同時に消滅する筈である。霧の中に、巨大に動く虚像窄が、西洋人には十字架に見え、日本の修験者たちに、阿弥陀尊像に見えるのも、それぞれ、高山の雰囲気のうちであっては、無理からぬことであろう。
延命行者は甲斐駒の頂上で、自分の影を、弥陀来迎の図と考え、六月十五日を自分の忌日と信じ込み、また、意識的にその日に死んだのだろうか。
そうすると、仏画に一般に見られる「阿弥陀来迎之図」、が、延命行者の脳中には,抜き難い程に染みこんでいたのに相違ない。
墓参者した後、私は現存する、小尾家を尋ねて見た。かつて、大きな屋敷跡だったらしいセロリーの畑の片隅収残った、その辺の農家と一向に変らない、「ひっちく」な建物だった。
要は今右衛門・権三郎という二人の人間の執念によってわずかに消えてしまわないですんだというにすぎない。当主は信太郎、権三郎の兄、亀次郎の曽孫に当る人である。この人も丸顔なおだやかな人柄に思えた。

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