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甲斐駒ケ岳開山 田中英雄氏著

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甲斐駒ケ岳開山 田中英雄氏著
駒ケ嶽開山(こまがたけかいざん)
駒ヶ岳は小尾親子の執念と、山田家当主たちの理解があって開かれた
 
「石仏探訪」甲斐駒嶽信仰と下総の文書に見る石仏建立願い 田中英雄氏著
 
長野県諏訪郡上古田村に生れた小尾権三郎によって、この駒ケ岳が開山されたのは、文化十三年(1816)六月十五日(旧暦)のこととされる。
小尾権三郎は幼時より、特異な信仰的才能を持つ人物で、十八歳の時白ら弘幡行者と名乗って、甲斐駒ケ嶽開山の大願を立てた。
横手村山田孫四郎宅に逗留して、この山の峻瞼にいどみ、数十回の難行苦行の末に、漸く山頂に到達し得たのであった。
徳川時代の中期ころから、幕末にかけて、全国の山岳の開山がしきりに行なわれ、この時代の一つの流行となった。
例えば、享保六年(1721)七月の右快による信州有明山の開山や、文政十一年(1828)の播隆による槍ケ岳の開山などは、その顕著な例である。
弘幡行者小尾権三郎の甲斐駒ケ嶽の開山も、その一連の流れと見ることが出来る。
彼は開山後、京に上って、神道神祇管長白河殿より駒ケ嶽開闘延命行者五行菩薩という尊号を賜わったが、開山より僅かに三年後の文政二年(1819)正月十五日に二十五歳の若さで遷化する。
彼の霊は、駒ケ嶽六合目の不動ケ岩に祭られ、今、「大開山威力大聖不動明王」として尊崇されている。弘幡行老の開山により、駒ケ嶽信仰は一層修験道的な色彩を濃くし、全国に及ぶ駒ケ嶽信仰登山者が競って登頂参拝するところとなった。
その登拝路は、横手前宮を基点とする黒戸登山道と、千ケ尻前宮を基点とする尾白川登山道の二つが一般的で、他に、千ケ尻前宮から直接黒戸尾根にとりついて、笹ノ平で横手口と合流するものもあった。尾白川登山路は、源流にかかる千丈ノ瀧下流において、左方の急坂を直登して、五合目屏風岩に到り、黒戸登山道と合流するが、これらの登山道は、扉風岩の峻瞼を経て、七合目の七丈小屋に達し、八合目の鳥居場において、朝日を拝して、やがて山頂の本官に到達するように開かれている。
信仰登山が衰退して、一般登山者が盛んにこの山に登山するようになっても、一般的登山道はこの何れかの道を利用する。従って、現在その登山道の両側には、歴史の重みを感じる信仰登山の痕跡を随所に見ることができ、稀には白衣の行者の行の実際を見ることもできるのである。
屏風岩の下には、かつて、二軒の山小屋があった。荒鷲(アラワシ)と自称した中山国重の経営する屏風小屋は先年廃絶したが、五合目小屋は今も現存し、昭和五十九年、小屋番の古屋義成が、日木山岳会有志の応援を得て、創業百年を祝った。古屋義成によれば、この小屋は、明治十七年(一八八四)修験者、植松嘉衛によって行者の祈祷所として開かれたものという。何れにしても、これらの 白州町 からの登山道はその峻瞼の度において、全国有数のものであって、それだけに開山当時の弘幡行者の苦辛が十分に想像され、男性的魅力に富む豪快な近代的登山の醍醐味を味わう事が出来るのである。ここに、明治十二年(一八七九)菅原村(現白州町)井上良恭という人の出版した「役行者・えんのぎょうじゃ」大和の葛城山に籠って天災、怪異、祈雨、出産、病悩、庖瘡等に対して験力を現わした呪術師であった。その験力は異常に強大であった話は、色々の形で伝えられ、全国名山の多くは、彼の力によって、開発されたとする。従って当時の山岳信仰者にとっては、一つの理想像として考えられていた。それと共に、彼の代行をするような人物及びその行動が設定され、各山に役ノ小角(えんのおづね)的な仙翁、異人の物語が発生するにいたった。
近い例をとるならば、 韮崎市 旭町 の苗敷山の祉記に登場する六度仙人の如きは、鳳凰山の神在丘に止住して、神通力を発揮したことになっており、同じく、茅ケ岳とその近傍金ケ岳には、江草孫右衛門、金ケ岳新左衛門、さらには孫左衛門という三種の名前を持つ怪人が登場してしきりと怪異をなすのである。
 
小尾権三郎が甲斐駒ヶ岳を開くべく山麓の横手を訪れたのは一七歳のとき、あまりにも若すぎた。当時横手で名主を務めていたのは山田嘉三郎の父、孫四郎だった。この申し出を孫四郎は断っている。名主として当然の判断である。
三年後、権三郎は再び山田家を訪ねる。権三郎が二度目に訪れたとき、山田家は入山を認めている。当時の山岳開山を目指す行者の執念は、いまでは理解しがたいものがある。甲斐駒ヶ岳に挑戦した小尾家の場合もその一つで、黒戸尾根の開削は権二郎の父、小尾今右衛門により安永年間から行われていたのである。このときの山田家当主は嘉三郎の祖父、七兵ヱ。
甲斐の秀峰駒ヶ岳開山は小尾家にとって親子二代に渡る長年の悲願であった。これを支援していたのが山田家だったのである。しかし今右衛門は、黒戸尾根五合目の屏風岩がどうしても越えられず、断念したとされている。挫折した父の意思をついだのが権三郎だった。駒ヶ岳は小尾親子の執念と、山田家当主たちの理解があって開かれたといえるだろう。しかし権三郎は二五歳で亡くなってしまう。駒嶽信仰を布教する矢先の死であった。この意思を引き継いだのが、山田家当主孫四郎の二男、嘉三郎と三男・孫四郎の兄弟で長男が七兵ヱ。山田家の当主は代々、孫四郎と七兵ヱを交互に名乗っていた、なかでも嘉三郎は病弱ながら熱心に布教や登山道の整備にあたった。その一つが山田家を基点に安置された三十三観音である。私がいつも気になっていた馬頭観音はそのなかの三十三番目の石仏だった。ちなみに一番は如意輪観音でいまも山田家の先、巨麻神社の脇の路傍に黒戸尾根を背にして立っている。

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