甲斐駒ヶ岳開山の真実
『甲斐駒ヶ岳開山200周年記念誌』(p4~p5)による。一部加筆
歴史を展開する場合、その基にする史料により違った展開になる。今回の甲斐駒ヶ岳開山200年記念として記念誌が編纂された。小冊子ではあるが歴史資料も豊富であり、甲斐駒ヶ岳の歴史が分かりやすく展開されている。
しかし開山に関する記事には疑問を持たざるを得ない。
『甲斐駒ヶ岳開山200周年記念誌』
山岳信仰(修験道)は、深山幽谷は神仏が籠もる異界である、という自然崇拝であり、甲斐の駒ヶ岳は山岳信仰の名峰です。
その、甲斐駒ケ岳の信仰は今から二百年前、信州諏訪郡上古田村(現在の茅野市上古田)生まれの修験者、小尾権三郎(延命行者)の開山によって始まったといわれます。権三郎は一を聞いて十を知る神童として生地にはいくつかの逸話が残されています。諏訪地方では山水、山や巨木を御神体とする諏訪大社(祭神 建御名方命)が、庶民との生活の中心であり、権三郎もまた幼年より諏訪神を始め神仏への崇敬心篤く、修験道を修めるため真言宗当山派の修験者満法院に弟子入りし、鐇播弘を名乗って、五穀(米・麦・粟・黍・大豆)を食さないという木喰行を実践しながら各地を巡りました。さらに、修験の山々への参詣を重ね苦行を続けたといいます。
文化十年(1813年)、夢のお告げにより甲斐の駒ヶ岳開山の大願を立てた権三郎は、山麓横手村(現在の北杜市白州町横手)の名主、山田孫四郎宅に逗留して尾白川の行場で修行を積んで三年、ようやく入山の許しが与えられたと、現代の山田家には伝わっています。
横手から駒ヶ岳に入った権三郎は、捨身(自身を断崖に捨てることによって衆生を救う行法)も覚悟の修験者であれば、延命行者の事績を書き記した古書にもあるように敢えて難行に挑み、絶壁を伝い岩下に臥し飢寒に耐え、神仏に祈りつつ登路を探して三ケ月。黒戸山からの登路を見つけ「文化十三年(1816年)旧暦の六月半ば、ついに山頂に到達して大己貴命を勧請して駒嶽大権現とし、開山を遂げたのです。開山後に自ら延命護符菩薩と改めていた権三郎は、文政二年(1819年)一月、二十五歳で亡くなり、駒嶽開山威力大聖不動明王として祀られています。(大己貴命は別名大国主命、諏訪大社の建御名方命の父神でもある。また、権現とは神が山の姿で現れたものの意。)
開祖小尾権三郎は若くして他界しますが、彼の興した駒ヶ岳の信仰はその後、弟子の行者たちによって受け継がれ、文政七 年に横手で結成された駒ケ嶽講を最初として、天下泰平・五穀豊穣・家内安全を願って、甲斐駒ケ岳への登拝を勧める講社登山の形で各地に広まりました。
そして、明治の修験宗廃止令以後は神道の皇祖駒嶽教として政府の宗教政策 に組み込まれて、大正、昭和とさらに発展を続けたものの、戦後は急速に衰退して今は白衣の登拝者の姿もなく、かつての登拝道に沿ってある多くの石碑や石仏・霊神碑にのみ、盛んだった往時の信仰の跡を見ることができます。
権三郎と今右衛門の再挑戦
権三郎、大武川本谷へ
権三部は翌年夏、今度は大武川本谷へ入った。滝をまく訓練は八ヶ岳の渋川・柳川の渓谷での猛訓練があったのだろう。この年は行程が割合にはかどったし、記録もある。
それは、第三日日の「子別れ」の岩陰までは、今右衛門が、鉈を持って、荊棘を伐る手助けをした日記が残っている。気の急ぐままの陣頭指揮というところでもあろうが、日記も無愛相な候から候でつながった候文で、頗る難解である。
本谷ハ水少クテ候、一ツ二ツ左方ヨリノ沢ニ出合ヒ候、倒レ朽チタル木、流し積ミタル木柏重居候水ドニ歩ヰ難ク候、透ニ落チ程ニ権三郎ガ声存天ニキコエ候ホドニ候
以上は、ほんの大武川本谷切入口の描写である。流木倒十本が本谷いっぱいに積み重なって、水は造か深い渓底を流れていた状態がわかる。文化十年(1813)の夏は、中部日本に大旱魃のあった年である。大武川の水量が甚だし
大武川遡上
今右衛門の手記は、百年前の山の博物誌をみるようである。
一の沢、二の沢の出合を渡って、赤薙の沢をすぎたところに、小さな滝があった。もう二日目の夕暮れだった。滝下の深い淵に、真っ黒な水が深々と沈んでいる.岩漁がしきりに腹をひるがえしては、空気を吸っている。水をくむため蔓で吊った鍋を下ろしてやると、数匹の岩魚が躍りこんできた。ふとみると、魚を追って、白い腹をひるがえしているのは、二匹の獺(かわうそ)である。
と書いているが、これはハンザキではなかったろうか。鍋の湯で蕎麦粉をかいて喰ったと木喰戒らしいことを書いているが、むろん、腹一杯に岩魚を喰って栄養をとっただろうことは、今右衛門の言動からみて明らかである。
三日目には、出発するとすぐ、上下につらなる滝に合った。水はほとんどない、二人して真っ白の御影石の滝をよじ登って見ると、そこの瀬は僅かに五六寸の水が残り、一尺もあろうと思われる岩魚がひしめき合って、今にも自ら溢れ出しそうであった。二人は夢中でそれを撲殺し、焚火をして炙った。谷の水はいよいよ涸れていった。左からの小さな沢を越えるとき、今右衛門が大きな棘(とげ)を踏み抜いた。枯れていたので斬れてしまい、今右衛門は小束で掘り出し、煙管のヤニと吸殻灰をまぜて、そのあとへ塗った。
右側からめ沢はかなり水量があった。駒ヶ岳主稜から出るはじめての沢だった。遡上をあきらめた彼は、すぐヒョングリ(ねじれた)かえった大きな滝に当ったからである。このとき、リスの大群が一斉に滝の上を渡ったのをみた。
この辺の倒木のびどきは、谷の上に倒れては重なり、朽ちてまた倒れ、二人は掛橋のような樹幹を渡り、いくども転落し、荊(いばら)に全身をとらわれた。ヒョングリの滝を攀じ登ると、異臭がはげしく鼻をつき、思わず二人は顔を背けた。沢は案外に平坦で、水はすっかり涸れ、そこは見渡す限りの岩魚の墓場だった。両岸は灰色の嶮しい断崖が立ち並び、高巻のしようもない。二人は嘔吐を催しながら、岩魚の死骸をグチャグチャと踏み込んで、夕暮れまで沢身を進んだ。
三日目の夜、赤い岩石の多い沢の脇に、恰好な岩陰を見つけて、背中の岩魚を降し、包を開くや、二人は嘔吐した。午前焼いた魚が凄い悪臭を放つのである。手も脚も、衣類も、二人はとうとう、何も喰わずに倒れこむようにそこへ眠った。今右衛門は夜中うなされどおしで朝を迎えた。
今右衛門の手記はここで、実況から離れてしまっている。その夜から、右足が腫れ上り、彼は一歩も歩けなくなって、大変な発熱である。それから上は、権三郎一人が登ったのである。権三郎はいくつかの滝をよじ、谷をつめて、仙水峠の向いの沢を、直接、駒主峯に挑んだらしい。そして、屹立てする摩利支天の裏白な花崗岩の巨塔に、空しく追いかえされたものと想像される。
今右衛門の言う子別れの石室から、傷ついた今右衛門を負って、大武川本谷から脱出すると権三郎の苦闘は、今右衛門の手記によれば、当今向きな、ちょっとした残酷物語だが、先へ急ぐことにする。
谷を遡上するより、下ることが、いかにむずかしいか。それも片脚きかない熱病患者をかかえてである。二人は横手村の山田孫四郎邸に再び倒れ込んだまま、三月を、そこに過していることでもわかろう。
三年目の文化十三年(1816)六月、権三郎は、始めて、稜線を辿って行く正攻法をとった。前二回の谷登りの苦い体験から学んだものであろう。上古田区有の自画、延命行者開山の図を見ると、どうも、この三回目も、単独行でなく、サポーターくらいは連れていったらしい疑いがある。岩に憩っている権三郎の図には荷物らしいものが全くないからである。しかし、二回目とちがって、今右衛門は同行しなかったことは確かである。足が回復していなかったのかも知れない。そのため、権三郎は手記を残していないので、コースの詳細はわからないが、横手村原の山田家を根拠に、笹ノ平、黒戸山稜線から、五合目、七各目を過ぎて頂上を極めるか現今の正面登山路を開いたものと思われる。
肝心な初登攣のデータがはっきりしないのは、何としても残念であるが、若干の手がかりはなくもない。
まず、前出した「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」によれば、
権三郎乃ち腰の数日の糧として蕎麦粉を用意し、独力草莾、荊棘を切り開かれ、万
古不伐の秘境に入り給ふ。此の如くにして、糧尽き、力極まりぬれば、乃ち家に帰り、力を養ひ、糧を携へて再び深山に分け入り、樹を亘り、岩を鬱じ、嶮岨身の毛もよだつ絶壁
を伝ひ、岩下に臥し、飢餓と戦ひ、草根を食し、辛苦を重ねて、神明仏陀の加護により、
遂に頭上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり。時に文化十三年(1816)六月十五日、御歳正二十歳の時なり。
以上のような次第で、まあ、初登攀成功と言うわけであるが、どうもマスコミ文書風のきまり文句で賞讃だけに終っているのがさみしい。どうも、ここまで来て残念な次第である。
私は再び上古田を訪ねて見ることにした。
文献は既に出尽して研究しつくされたようなので、区内の口碑伝承のたぐいを聞いてまわった。結果、案外にたくさんな、いろいろな咄が集まってきた。
子供の頃、胎児の性別月数を言い当てて叱られたこと。どうもこれは、あまり頂けない話で、例の枝に呪縛された鶯の話と同じ、大人の作意がうかがえる。
「大智は却って愚かなる如し」といった風格だった。おそらくこれこそは真を伝えたものだろう。それは自画像からも言えることだ。草根薬種の術に詳しかった。これは行者の常識。寒に入ると、寒行をして、普く人類の災難病苦を救った。どれも手掛りというほどのものはない。
大法徳、近郷に聞え、遠くは甲斐、武蔵、相模、近くは伊那、筑摩から、善男善女が集った。これは、駒ケ岳開山の利徳といえそうである。もちろん、今右衛門の初願は叶えられたわけで、寒村上古田村の願いも見えるようである。
ところで、信徒・門人を集め、自分の死期を予言した。そして、その予告した日の「同時刻に死んだ。これは少々おかしい。今までの挿話はまあ良いとしても人間の命、これは当るかむしれないではすまないことである。
威力不動尊堂、即ち延命行者墓へまわった。遺骸は上古田村を眼下にした、八ヶ岳泥流台地の一つ、棚畑の上に、榧の木の木立に囲まれていた。眼を上げれば黒い程に青い空の下、入笠山を踏まえて、真っ白な聖三角、駒ケ岳の岩峯か望まれる。
付近は一面のローム層火山酸性土質で、黒土はほとんどない。これでは、掘って見るまでもなく、遺骸は死後五十年を経ずに、とうの昔に、朽ち果てているだろう。墓碑は大きな自然石で、
「駒ケ嶽開山功徳院威力不動尊・文政二年(1819)六月十五日」
と刻んである。私はそれをノートした。六月十五日、これが予言した日であるが、何か記憶にある日付の様な気もした。其の日付、六月十五日が、駒ヶ岳初登攀の当月だったとことに、気がついたのは、不覚にも十日も後のことであった。これはいったい、どうしたことだ。延命行者は、開山の日に死ぬことを予言したのである。
関山と死と、何か関連があるのだろうか。「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」をいま一度、読み直してみた。あった。最後に不可解な文句があった。
「遂に頂上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり」
天日はわかる。おそらく、深い霧の中だったのを、登頂すると同時に、僅かだろうが陽が射したのだろう。そうすると、弥陀来迎は阿弥陀如来が見えた、これは何だ。そうだ。ブロッケン山の怪だ。
ウインパァの『マッターホーン登攀記』の中で、七名のうち四人のメンバーが、下山のロープ切断によって、墜落した直後に、空中に浮ぶ巨大な十字架を見ている。天保五年(1834)に日本アルプスの槍ヶ岳を開山した播隆和尚の手記が、松本市の日本民俗資料館に残っているが、これにも、この現象の記述がある。
深い霧の中を別けて、播隆が槍の肩から、突端にはい上ると、一瞬、密雲は霧散し、陽がさすと同時に、
「霧の中に、弥陀の大尊像を拝す。恐懼して踞拝せんとするや、そも如何に、尊像たちまちにして消え給ふ」
と書いているのは、やはり、この「ブロッケン山の怪」の現象で懸る。自分の影であるだけに、伏し拝すると同時に消滅する筈である。霧の中に、巨大に動く虚像窄が、西洋人には十字架に見え、日本の修験者たちに、阿弥陀尊像に見えるのも、それぞれ、高山の雰囲気のうちであっては、無理からぬことであろう。
延命行者は甲斐駒の頂上で、自分の影を、弥陀来迎の図と考え、六月十五日を自分の忌日と信じ込み、また、意識的にその日に死んだのだろうか。
そうすると、仏画に一般に見られる「阿弥陀来迎之図」、が、延命行者の脳中には,抜き難い程に染みこんでいたのに相違ない。
墓参者した後、私は現存する、小尾宏を尋ねて見た。かつて、大きな屋敷跡だったらしいセロリーの畑の片隅収残った、その辺の農家と一向に変らない、「ひっちく」な建物だった。
要は今右衛門・権三郎という二人の人間の執念によってわずかに消えてしまわないですんだというにすぎない。当主は信太郎、権三郎の兄、亀次郎の曽孫に当る人である。この人も丸顔なおだやかな人柄に思えた。小尾家は次の受取証が一連保管されていた。