<「相川郷土史事典」より>
1)須田富守(すだとみもり)
【生没】1680~1746
佐渡奉行所地役人。『佐渡名勝志』の編者。先祖は甲州出身で、須田五右衛門といい、武田家の家臣小山田備中守の分家を父とした。武田家の滅亡後、長男六左衛門は甲府綱重に仕官したが、二男の権右衛門、三男の伊兵衛(のち六右衛門)の二人が佐渡へ渡り、六右衛門は元和四年(一六一八)に地役人に召抱えられた。富守はその三代目で、宝永元年(一七○四)に跡を継いで六右衛門を襲名する。正徳三年(一七一三)に目付役となり、享保五年(一七二○)には山方役。その後吟味役・地方役・町方役を経て、延享三年五月十日、六七歳で没した。号は含章軒または行文斉。たまたま来島した伊東玄基(号素月堂風狂子)に、それまで集めていた諸家の記録や家蔵史料を示して、『佐渡名勝志』八巻を編述させたことで、後世にその名が残った。延享元年(一七四四)六五歳のときである。これより前の享保七年(一七二二)四月、本間四郎右衛門とともに、上納金銀を宰領して江戸へ登り、約一年間滞在して翌年に帰った。この御金荷輸送旅行の一部始終を、日記ふうに記した「江戸日記」一巻を残している。道中の宿場や人馬の継立のようすがわかり、輸送日記としては、これまでになく詳細をきわめたもので、史料価値が高い。富守の墓は、下山ノ神町の日蓮宗・法泉寺に残る。
2)関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳
相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。
3)関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳
相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。
4)大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう)
相川町大字江戸沢町の浄土宗大安寺にある、慶長十六年(一六一一)銘の大久保石見守長安逆修塔。越前式宝篋印塔で、石室(覆殿)内に安置する。石質は緑色凝灰岩(笏谷石・越前石ともいう)。石室は切石を組んだ切妻平入造りで、安政三年(一八五六)の修復時(「大久保長安公 御石塔修理再建勧化帳」)にとり替えられた安山岩質がまざる。石室背後の板石三枚のうち、左右二枚の内側にはそれぞれ、蓮華座に如来形の立像を半肉彫する。向って右は智拳印を結ぶ金剛界大日如来、左は施無畏・与願印の如来像(釈迦か阿弥陀)であろう。逆修塔は、巾約五○センチ、高さ四四センチの立方形切石(安山岩)を台石とし、その上に基礎・塔身・笠を組み、さらに一石造りの伏鉢・請花・宝珠を乗せる。基礎は巾四一・五センチ、高さ三三センチで、上面は二段の造り出しとし、正面のみに田の字形の四ツ目文に区分して文様を刻む。四ツ目文の上の二ツには八本の竪連子文、下の二ツはふちどりのあるお椀形の格狭間文をうすく刻む。また、田字形の向って右側の縦線から、「大久保石見守殿」、中央に「法廣院殿一的□(朝)□(覚)」、左側に「干時慶長拾六亥暦」とあり、上の横線には向って右から「逆修」と刻む。塔身は正面に、蓮華座と周囲に蓮弁を彫り付けた月輪をうすく浮彫りし、月輪内にはやや上よりに薬研彫りの種子「キリーク」を刻む。笠は下面を二段、上は七段とし、隅飾突起は二弧造りとし、直線的に斜に開く。伏鉢・請花・宝珠は高さ二二センチ、全高は一一○センチ。本来、相輪(九輪)があったが欠損し、とりのぞいて宝珠形に加工したものと見られる。『佐渡国略記』には、明和五年(一七六八)四月、歴代の墓とともに、本堂北側の現在位置へ移したことが記されているが、元の場所は南側前部あたりであろう。平成八年、補修強化のため搬出され、五月二十五日に直された。その間、四月八日から十一日にかけて、地下の発掘調査があり、人骨の入る高取焼甕三個が出土したが、長安のものではない。平成六年五月二十四日、国指定史跡となる。
5)大久保山城(おおくぼやましろ)[田辺安政]
【生没】生・没年不詳
大久保の本姓は田辺氏、長安が甲州で鉱山業の役人をしているとき、田辺十郎左衛門という銀山衆の元で働いていた。安政は田辺十郎左衛門の子、佐渡に来て大久保長安の家臣となり、大久保氏を称した。慶長年間、佐渡陣屋に勤務し地方をつかさどった。「川上家文書」に、長安から米代金について、山城宛の指示文書がある。慶長十八年(一六一三)、大久保長安の死によって、大久保氏が佐渡から追放されるが、山城は田辺と姓を変え、元和四年、竹村・鎮目両奉行が着任するまで、佐渡金銀山代官としてその任を果たした。
1)須田富守(すだとみもり)
【生没】1680~1746
佐渡奉行所地役人。『佐渡名勝志』の編者。先祖は甲州出身で、須田五右衛門といい、武田家の家臣小山田備中守の分家を父とした。武田家の滅亡後、長男六左衛門は甲府綱重に仕官したが、二男の権右衛門、三男の伊兵衛(のち六右衛門)の二人が佐渡へ渡り、六右衛門は元和四年(一六一八)に地役人に召抱えられた。富守はその三代目で、宝永元年(一七○四)に跡を継いで六右衛門を襲名する。正徳三年(一七一三)に目付役となり、享保五年(一七二○)には山方役。その後吟味役・地方役・町方役を経て、延享三年五月十日、六七歳で没した。号は含章軒または行文斉。たまたま来島した伊東玄基(号素月堂風狂子)に、それまで集めていた諸家の記録や家蔵史料を示して、『佐渡名勝志』八巻を編述させたことで、後世にその名が残った。延享元年(一七四四)六五歳のときである。これより前の享保七年(一七二二)四月、本間四郎右衛門とともに、上納金銀を宰領して江戸へ登り、約一年間滞在して翌年に帰った。この御金荷輸送旅行の一部始終を、日記ふうに記した「江戸日記」一巻を残している。道中の宿場や人馬の継立のようすがわかり、輸送日記としては、これまでになく詳細をきわめたもので、史料価値が高い。富守の墓は、下山ノ神町の日蓮宗・法泉寺に残る。
2)関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳
相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。
3)関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳
相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。
4)大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう)
相川町大字江戸沢町の浄土宗大安寺にある、慶長十六年(一六一一)銘の大久保石見守長安逆修塔。越前式宝篋印塔で、石室(覆殿)内に安置する。石質は緑色凝灰岩(笏谷石・越前石ともいう)。石室は切石を組んだ切妻平入造りで、安政三年(一八五六)の修復時(「大久保長安公 御石塔修理再建勧化帳」)にとり替えられた安山岩質がまざる。石室背後の板石三枚のうち、左右二枚の内側にはそれぞれ、蓮華座に如来形の立像を半肉彫する。向って右は智拳印を結ぶ金剛界大日如来、左は施無畏・与願印の如来像(釈迦か阿弥陀)であろう。逆修塔は、巾約五○センチ、高さ四四センチの立方形切石(安山岩)を台石とし、その上に基礎・塔身・笠を組み、さらに一石造りの伏鉢・請花・宝珠を乗せる。基礎は巾四一・五センチ、高さ三三センチで、上面は二段の造り出しとし、正面のみに田の字形の四ツ目文に区分して文様を刻む。四ツ目文の上の二ツには八本の竪連子文、下の二ツはふちどりのあるお椀形の格狭間文をうすく刻む。また、田字形の向って右側の縦線から、「大久保石見守殿」、中央に「法廣院殿一的□(朝)□(覚)」、左側に「干時慶長拾六亥暦」とあり、上の横線には向って右から「逆修」と刻む。塔身は正面に、蓮華座と周囲に蓮弁を彫り付けた月輪をうすく浮彫りし、月輪内にはやや上よりに薬研彫りの種子「キリーク」を刻む。笠は下面を二段、上は七段とし、隅飾突起は二弧造りとし、直線的に斜に開く。伏鉢・請花・宝珠は高さ二二センチ、全高は一一○センチ。本来、相輪(九輪)があったが欠損し、とりのぞいて宝珠形に加工したものと見られる。『佐渡国略記』には、明和五年(一七六八)四月、歴代の墓とともに、本堂北側の現在位置へ移したことが記されているが、元の場所は南側前部あたりであろう。平成八年、補修強化のため搬出され、五月二十五日に直された。その間、四月八日から十一日にかけて、地下の発掘調査があり、人骨の入る高取焼甕三個が出土したが、長安のものではない。平成六年五月二十四日、国指定史跡となる。
5)大久保山城(おおくぼやましろ)[田辺安政]
【生没】生・没年不詳
大久保の本姓は田辺氏、長安が甲州で鉱山業の役人をしているとき、田辺十郎左衛門という銀山衆の元で働いていた。安政は田辺十郎左衛門の子、佐渡に来て大久保長安の家臣となり、大久保氏を称した。慶長年間、佐渡陣屋に勤務し地方をつかさどった。「川上家文書」に、長安から米代金について、山城宛の指示文書がある。慶長十八年(一六一三)、大久保長安の死によって、大久保氏が佐渡から追放されるが、山城は田辺と姓を変え、元和四年、竹村・鎮目両奉行が着任するまで、佐渡金銀山代官としてその任を果たした。