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河口湖情話「留守が岩の悲恋伝説」(泉雅彦著作集「伝説と怪談」より)

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河口湖情話「留守が岩の悲恋伝説」(泉雅彦著作集「伝説と怪談」より)



嵐に消えたともしび



「この留守か岩は、むかしから若い男女が逢引するところじゃったんや」

初冬の陽射しをからだいっぱいにうけた老漁夫は、ワカサギ捕りの地曳き網をつくろいながら、大石湖畔(河口湖」北岸)の留守か岩におこった河口湖情話をひとくさり語りとつとつきかせてくれた。

訥々(つかえつかえ)としたはなしっぷりは、まことに味もそっけもない荒すじにすぎななかった、が、むかしながらのひたびた湖畔に腰をおろし、ゆるやかなさざ波に洗われている留守か岩の黒い肌をみていると、昔から語りつがれてきた大石村の「みよ」と、対岸勝山村の「幸右衛門」との悲恋におわった逢引の情景が、おのずからまのあたりに、つぎのように展開されていった。



<笹舟>

「ギィ、ギィ」、

笹舟をこぎよせてくる幸右衛門の姿が、みよのかかげるともしびに浮かびあがると、みよはもう待ちきれずに、手にした松明(たいまつ)を波の上に投げすてて、岩の上から一足とびになぎさへはねおりた。

「みよちゃん、ずいぶんと待たせたな」

幸右衛門も幸右衛門でみよが力強く砂浜へひきあげてくれた笹舟からとびおりざまにかげよると、ことばより先にみよの両肩を抱きしめた。

「どうして三日もおらを待ちぽうげさせただよう。にくらしい」

みよは、夏の夜風にあたってさえ、こきざみにからだをふるわせている坊ちゃん育ちの幸右衛門の背を、さらに力をこめてかきいだくと、やっと逢えたうれしさあまって、恨みをことば尻にこめて、幸右衛椚の肩先をかるく噛んだ。

「それがよう、ちょっとふたりにとっては面倒のことが起こって来れなかったんや」

「面倒のことって、じゃあおまえ、父っさまにおら達のことを打明けたのけ」

夜目にもめだつ色白の幸右衛門のほっそりとした首筋に、熱い唇をあてがっていたみよは、ギクッとからだをふるわせて身を放した。

「そこまで話がいかないうちよ」

「あんだって、話をするまえだって」

みよはがっくり、したように浜の砂の上にしゃがみこんだ。みよはしばらく考えこんでいたが、いきなり幸右衛門にむしゃぶりつくと、

「おらはいやだ。だれがなんと言おうとも、いとしいおまえと別れるなんてことは、考えてもいねえ。おらは絶対に別れてやるもんか」

と、幸右衛門の顔を両手ではさみこんで吐き出すように言った。まずい話しと聞けば、あとはもう聞かなくても、いずれ二人を引裂く縁談に相違ないとみよは悟ったからだ。

おなじ男女の恋仲でも、幸着衛門の家はその頃羽振りのよい雑貨の問屋だ。それにひきかえみよの家は、幸右衛門の父につかわれている人足馬子の娘だ。いくら近郷近在に評判のたかい器量よしの、みよでも、金のあるとないとでは、江戸時代の門閥以上仁、身分差別がつけられていた。

従ってどうしても夫婦にたれない場合は、「ドラブチ」といって駈落ちをしたのである。このドラブチについては、岳麓にはかぞえきれない話題がのこっている。駈落ちした女

は、いったん死んだことにして寺でもらいうけ、あとは寺の住職、庄屋、長百姓などの村の顔役が問へ入って、双方異議なしの一札を入れて、晴れて夫婦にするといったはなしのわかる習慣があったのだ。この手を使えば、美しい人妻でも数日雲がくれしていれぼ自分のものにできたのである。



<馴れ初め>

みよと幸右衛門が熱い伸になったのは、なれそめそもそも、みよの父が幸右衛門の父庄兵衛から不義理をした借金のかたに、年季奉公に入ったのがはじまりだ。みよが奉公にのぼったのは十七歳のことだ。そして二年目、目ごろ「弱虫幸右衛門」とあだ名をされていた幸右衛門がめずらしく、水遊びをしていた夏のある目、

「てえへんだあ、幸右衛門が水にはまったよう」

折から使いにでたみよは、こどものさわぎを耳にすると、一散走りに浜へかけつけ、まとった着物をかなぐりすてた。両手を上に上げておぼれている坊ちゃんを助けねばと、赤いお腰一枚にたり、ざんぶと湖水へとびこんだ。馬子の娘だけに、みよは歳とは思えない肉づきのよいからだをし、気性も男勝りのはげしさをもっていた。それにこどものころから水泳も達者であったから、おそれげもなく幸右衛門の「アップ」「アップ」している首っ玉をかかえると、見事に片手でぬき手を切って岸へ助げあげた。背のっぽの幸右衛門はまだこのとき十五の二つ歳下、日頃からひよわなところから、両親は、日陰に咲いた花のようにいたわって、好きな読み書きに寺小屋通いをさ昔ていた。

「おお、これはみよ、おまえが助けてくれなすったか、ありがたい、いのちの恩人じゃ」死んだように浜へ倒れていた幸右衛門は、火でからだを暖めてやり、のんだ水をすっか

り吐き出させてやると、たちまち生気をよみがえらせた。

「ありがとう。みよ、ありがとう」

庄兵衛夫婦は、みよが奉公人であることも忘れて、浜へ額をこすりつけて感謝した。

「決めた年季まで働らかなくともよい。借金の証文、奉公手形も焼きすてました。今日からは生家へもどるたり又ここで奉公するなら決めた給金もさしあげます。どちらでも本人まかせにいたしやしょう」

庄兵衛は、かわいい一人息子の命を救ってくれた礼として、借金を棒引きという善意を示した。結局みよは、生家へ帰らせてもらい、貧しい水呑百姓に精出している母の手助けをすることで大石村へ帰ったのである。

そして三年がすぎ、幸右衛門は十八歳、みよは二十歳の夏をむかえたある日、幸右衛門がひょっこり、みよをたずねてきた。



<浜辺の再会>

「わたしの命を救ってくだすった恩人のおみよさんとやらに会わせてください。両親が盆暮れにはなにかとつけとどけをして御恩にむくいてはいても、わたくしからも一度あつく礼を申しのべたくてまかりこしました」

立派に成長した幸右衛門が、そんな殊勝な心掛けで、みよをたずねたとみるのは見当チがいだ。幸右衛門は、みよにあぶない命を救ケられる以前から、みよを慕っていたのである。それがさらに命を救ってくれたという力強さがくわわってこの二年あまり、いっときもみよのおもかげが忘れかねてつよい恋が成長していたのだ。今目はそのことをタネに、いとしいみよに会いに来たといった方が正直のところであった。

「こんなむさくるしいところよか、広々した大石の浜へいくべえよ」

みよは色白でひよわナ幸右衛門でも、目鼻立ちのととのった男振りを、にくからず思っていたので、再会したときすでに、ふたりの恋はもえあがった。

「おらと坊ちゃんとでは家柄がちがう。いくら命を救ったからといって、しょせんみょうと(夫掃)になることなんぞは思いもよらねえ」

「そんな、おらはもうみよちゃんの顔をみなくっちゃあ、一日もすごせねえ。夜も眠れねえ。のう~みよちゃん、きっと縁談もたくさんあるべえが、ことわっておらといっしょになってくろよ」

弱い男はたくましい女に心をひかれ、男まさりのする女はえてして、母性愛のようにひよわな男を愛する例がおおい。二人は二度が三度、四度と逢引をかさねるうち、とうとう熱い肌までふれあう仲にすすんでしまった。

そして逢引の場所はのち「留守か岩」といわれる「魚見岩」の上であった。魚見岩とは、釣師や漁師がワカサギなどの群れや釣りの状況をこの岩の上からながめたからである。口伝では、みよがこの岩の上でかがり火をたくのが逢引の合図で、ときにみよの方からもタライ舟に乗って勝山村の幸右衛門に会いにいったという。タライ舟は、岸辺のヨシなどを刈るときに農民のつかったものである。江戸時代はとくに金持ちや家柄をほこる家の伜ほど早婚であった。わるい女遊びを覚えないうちに十八歳くらいで妻をもたせたのである。

江戸時代には遊女がかなりの花柳病をもっていた。このため各地で墓地がアバかれて屍体が盗み出された。人間の白骨の黒焼、幼児の骨の出し汁は梅毒ライ病に効くということが信じられたからだ。梅毒は、いまから四六四年前に天下にタウモという大成瘡(かさ)いでたと「勝山記」にもある。

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<嫁は親が決める>

幸右衛門もわるい遊びをしないうち、にと縁談がもち上がりその暮れの吉日をえらんで式を挙げることにまとまってしまった。嫁は伜がもらうのではなく、親がもらい与える時代で、親同志さえよければ、結婚の柏手の意志などどうでもよかったのである。

「幸右衛門、おらは言わんともわかっとる。おまえの嫁御が決まったんやな」

どうするてだてもない動揺を、これでもかこれでもかと幸右衛門にいどみ、いたぶることで、いっときでも忘れようとするみよは、精魂つきて眠りかける幸右衛門のからだをゆさぶっては肉迫した。ようやく東の空が白みはじめるころ、やっと平静をとりもどしたみよは、目頃のはげしさに似合わず肩をゆすって泣いたりもしてみせた。

「今日こそ両親に打明けてゆるしを乞うてみる」

幸右衛門は暁の空にのこる星盾をみつめて心に固く言いきかせるようにつぶやいた。

「おらはおまえに捨てられたら死んでやる」

みよははげしい嵐の吹き去ったあと、ヒソヤリする静寂の大気に、まだべっとりとひたいから首すじに汗で吸いついている乱れ髪をかきあげながら、一途のこころをそのままの口調にうつした。

「どうしても駄目ならドラをブツ」

「それでは義理がたくいまもつけとどけをしてくださるお前さんのご両親の顔をつぶしてしまう」

「ともかくおらが説得してみる。明日の晩はきっといいはなしをもってくる」

幸右衛門は、この一年間両親の目を盗んで、毎夜のようにみよと不純の逢引をかさねていることが、うしろめたく容易に打明けられなかったが、今夜の決心が崩れたいうちに打明けようと、急に、笹舟の方へ突っ走った。「

あまりご両親にさからうでねえど」

<タライ舟>

あくる日、ありのままのことを打明けた幸右衛門は、思いがけない両親のいかりにふれて、沈黙させられてしまった。助けられた恩は恩として返しているが、二つも歳上でしかも馬方稼業の娘とは、世間体を考えてもゆるせない、というきわめて常識的の反対であったのだ。説得のつぎは反抗、おどしと、あらゆる手段で両親のゆるしを得ようとした幸右衛門もついには万策つきてしまった。そればかりではない。こんやからは、両親の寝室近くに寝かされて、夜間の外出は一歩もまかりたらぬということになってしまった。

「あんなうまいことを言って、幸右衛門もとうとうこなくなってしもうた」

みよは、孤影しょう然と、魚見岩の上に立って待ちつづけた。かたや幸右衛門はとりつく島のない両親の見張る寝室でこれ又、眠れぬ夜夜を悶々とすごすうち、病人のようにげっそりと類の肉をおどし、三度の食事すら一度もはしをとらなくなってしまった。みよは、五目、六日と魚見岩で夜更けまで火を焚きつづげて、逢引の合図を絶やさずに待ちりづけた。達者のみよの方もそのふくよかな頬がひどくやつれてしまった。幸右衛門が来そうもないという予感がつよくなると、これまで幸右衛門を慕っていた恋情は、じぶんを見捨てた恨みにかわっていった。

みよはついに心を決すると幸右衛門の家へこちらから忍んでいき、もう一度幸右衛門のほんとうの心をしりたかった。あとはもうどうなれその先のことまでは心のうちにはなかった。みよがタライ舟にうちのり、勝山村へ漕ぎ渡ろうとした晩は、妙に宵の口から湖水が不気味に静まりかえっていた。

みよは、タライ舟にのると、目印に、松ヤニの油をともし火に、一本杓子のかいを便ってこぎ出した。この頃のようにすべりのよいボートなら、魚見岩から勝山の沖までは十二、三分だが、うごきのにぶいタライ舟では十七、八分もかかったろう。恋に身を焼くみよが、タライ舟をこぎ出すころになると、一天にわかにかきくもり、湖上が急に波立ってきたが、みよはそんな天侯変異にまったく気づかたかった。そろそろ九月初旬ともなると、突風、つむじ風、台風のおそう季節だ。特に富士山麓の天侯は猫の目のようにはげしくかわる。

「こんやはまたやげに風がつよくて波がさわぐのう。おみよのやつまた惚れた男と逢引か、やれやれわしに似てこん(根気)のいいことよ」 

馬方稼業のみよの父っさんは、昼問のつかれと酒の勢いで雷のようないびきをかいて土間で寝こんでいたが、雨戸を吹き倒し「ザー」と吹っこんできた、雨のいきおいで目をさましたが、起きて戸をたてたおすと、ワラウジの床へはいこんで、すぐ又いびきをかきはじめた。それから五日、みよは家にはもどらなかったが、みよの両親はさして気にもかけなかった。馬方人足の方が、こどもの自由とセックスに対してはもの分かりがよい。かりにみよの姿が三日や四日みえなくても、きりょうよしのみよにむらがる若い衆と、惚れたはれたのイザコザはあってもけっこうそれで青春をたのしんでいるだろうぐらいに考えていたのだ。年頃がきても、貧しくて目下のところは嫁にもやれたい、みよが、男の欲しい女盛りをもてあまして夜毎なにをしていようと、両親は口をつぐんでいなげれば、気性のはげしいみよにやりこめられることもある。

「父さん、たった一目だけだとおそかった幸右衛門いうから、番頭にそれとなく見張らせておくあいだ、幸右衛門を、みよに会わせてやっておくんなさいました。さもないことにはあの子は狂い死にしてしまいますよ」

七日も八日もめし一粒たべず、ほとんど眠る問とても

「みよちゃん、みよちゃん~」

とうわごとのようによびつづける幸右衛門の恋情にまけて、母は夫の庄兵衛を口説くことになった。

「そうか、音から恋の病いで狂い死にしたもの、首くくりといずれも恋の病いはろくなけっかを生まぬ。一週間ものまず食わずでは死んでしまう。ゆるしたくないことだが、もう一度逢った上で思いきってくるというならゆるさぬでもない。まず先に番頭を見張に岩かげにかくしておきなされ」

厳格の庄兵衛も、伜の恋の病いがこうじてとんだことになってはと、ついに条件つきで逢引をゆるしてやった。

「さあ、一度だけという条件でゆるしがでましたよ」

母からみよとの逢引をゆるされたときくや、幸右衛門は、ふとんをけってはねおき、さっそく空きっ腹へ飯をかっこんだ。夕ぐれを待ちかねて笹舟をこぎ出した幸右衛門は、いつも火をともして魚見岩の位置をしらせてくれる、みよのともし火が、こんやにかぎってみえない不安にかられながら浜へ舟をのりつけた。岩かげでは番頭が先まわりして成行きを見守っている。

「みよちゃん、みよちゃんや~」

と叫んだが、恋しい、みよの返事はなく、むなしい秋風が波さわぐだげであった。翌晩もまた翌晩も、魚見岩へ通った幸右衛門は、ついに、みよをふたたび見ることはできたかった。

現在いうところの「留守か岩」は、通いつめた大石の魚見岩に、いとしいみよの姿がなかったことから「いつも留守」といった意味合いから名づけられたものである。

「甲斐国志」には、富士山の大噴火で大石がゴロゴ回していたので「大石村」と名づけられたとある。留守か岩はその代表的の一つである。みよがなたくなって八日目、いくらのん死体浮く気の家風でも、みよの両親は心配になってきた。

「おらがのみよをみかげねえかよ」

村々の若い衆をたずねまわる両親の耳に、このときとんだ不吉のニュースがつたわった。

「てえへんだ。おめえのとこの、焼判りおしてあるタレー(タライ)が、鵜の島の浜へ流れついているということだぞ。もしやみよちゃんはタライ舟にのって、あの大嵐の夜流されて溺れ死んだんじゃねえけ」

近所の漁夫のしらせをうけたみよの両親は、さすがに血相かえてみよの姿をさがしもとめていると、

「お~い、みよちゃんの死体が浮いているとよ~」

夫婦で笹舟をこいで湖上を探しまわっている耳に、魚を釣っていた漁夫たちの叫びがきこえてきた。けっきょく、みよはわずか十五分かそこいらで着くはずの勝山村の浜の間で、急に崩れ出した台風も、宵の空から吹きつける豪雨と突風にあおられて、まず「ともしび」を消された。ついで対岸の見当を失い、鵜の島の方向へつよい風で流されていくうちに、大波をくらってタライ舟がひっくりかえって湖上へ投げ出されてしまったのだ。

みよの死をきいて幸右衛門があとを追ったのは、まもなくのことだ。口伝では、みよが人魚となって、幸右衛門と逢引きしていたのが「留守か岩」とも言う。

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