と、無常閉関の折々は、とぶらふ人も便りなく立帰りて、今年就中老衰なりと嘆きあへり。
そもそも此翁、孤独貧窮にして、徳業にとめること無量なり。二千余人の門葉、辺遠ひとつに合信する因と縁との不可思議、いかにとも勘破しがたし。天和三年(1683)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。
- 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
また、枯野を巡るゆめ心、ともせばやと申されしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死なん身の道を切に思ふ也と悔まれし。八日の夜の吟也。各はかなく覚えて、
賀会祈祷の句落つきやから手水して神集め 木節凩の空見なほすや鶴の聲 去来足がろに竹の林やみそさゞい 惟然初雪にやがて手引かん佐太の宮 正秀神のるす頼み力や松のかぜ 之道居上げていさみつきけり鷹の皃 伽香起さるゝ聲も嬉しき湯婆(タンボ)哉 支考水仙や使につれて床離れ 呑舟峠こす鴨のさなりや諸きほひ 丈草日にまして見ます顔也霜の菊 乙州是ぞ生前の笑納め也。木節が薬を死ぬ迄もと、たのみ申されけるも實也。人々にかゝる汚れを耻(ハ)給へば、坐臥(ザグワ)のたすけとなるもの呑舟と舎羅也。これは之道が貧しくて有りながら、切に心ざしをはこべるにめでて、彼が門人ならば他ならずとて、めして介抱の便りとし給ふ。そもかれらも縁にふれて、師につかふまつるとは悦びながらも、今はのきはのたすけとなれば、心よわきもことわりにや、各がはからひに、麻の衣の垢つきたるを恨みて、よききぬに脱ぎかはし、夜の衣の薄ければとて、錦繍のめでたきをとゝのへたるぞ、門葉のものどもが面目なり。九日・十日はことにくるしげ成るに、其角、和泉の府、淡の輪といふわたりへ、まゐりたるたよりを乙州に尋ねられけるに、「なつかしと思ひ出でられたるにこそ」とて、やがて文したゝめてむかひ参りし道たがひぬ。予は岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕べ大坂に着きて、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくなやみおはすといふに胸さわぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたなき懐ひをのべ、力なき声の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて住吉の神の引立て給ふにやと歓喜す。わかのうらにても祈りつる事は、かく有るべしとも思ひよらず、蟻通の明神の物とがめなきも有りがたく覚え侍るに、いとゞ泪せきあげて、うづくまり居るを、去来・支考がかたはらにまねくゆゑに、退いて妄昧の心をやすめけり。膝をゆるめて病顔をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、吹井より鶴を招かん時雨かな 晋子(其角)と祈誓してなぐさめ申しけり。「先ず頼む椎の木もあり」と聞えし幻住庵はうき世に遠し。「木曽殿と塚をならべて」と有りしたはぶれも、後のかたり句に成りぬるぞ。「其きさらぎの望月の比」と願へるにたがはず、常にはかなき句どものあるを前表と思へば、今さらに臨終の聞えもなしとしられ侍り、露しるしなき薬をあたゝむるに、伽のものども寝もやらで、灰書に、うづくまる薬の下の寒さ哉 丈草病中のあまりすゝるや冬ごもり 去来引張つてふとんぞ寒き笑ひ声 惟然しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考おもひ寄る夜伽もしたし冬ごもり 正秀鬮とりて菜飯たかする夜伽哉 木節皆子也みのむし寒く鳴盡す 乙州十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく睡れるを期として、物打ちかけ、夜ひそかに長櫃に入れて、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきにせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子次郎兵衛・子ともに十人、苫もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、たびねこそあれと、ためしなき奇縁をつぶやき、坐禅・称名ひとりびとりに、年ごろ日比のたのもしき詞、むつまじき教へをかたみにして、誹諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを今さらにしつ。東南西北に招かれて、つひの栖(スミカ)を定めざる身の、もしや奥松島、越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞きて驚くばかりの歎きならんに、一夜もそひてかばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の思ひいくばくぞやと、鳥にさめ鐘をかぞへて、伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬礼義信を尽し、京・大坂・大津・膳所の連衆、披官・従者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳せ来るもの三百余人也。浄衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてて着せまゐらす。即ち義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少し引入れたる所に、かたのごとく木曽塚の右にならべて、土かいをさめたり。おのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせうを植ゑて名のかたみとす。常に風景をこのめる癖あり。げにも所は、ながら山・田上山をかまへて、さゞ波も寺前によせ、漕出づる舟も観念の跡をのこし、樵路の鹿・田家の雁、遺骨を湖上の月にてらすこと、かりそめならぬ翁なり、人々七日が程こもりて、かくまでに追善の興行、幸ひにあへるは子也けりと、人々のなげきを合感して、愚かに終焉の記を残し侍る也。程もはるけき風のつてに、我翁をしのばん輩は、是をもて回向のたよりとすべし。
於粟津義仲寺牌位下 晋子書芭蕉、追善の俳諧 『枯尾花』・元禄七年十月十八日、なきがらを笠に隠すや枯尾花 其角・十月甘五日.義仲寺芭蕉の墓前いつの多か、凧のうしろむきそめ、葛のはのおもてみし、秋より春にわたり、故にさめ笠に眠り、小葉に病、つゐの浮世をなにはになして、枯野にあそぶと聞え給ひし一句を、今さらのうつしになしぬ。其角はさる契ありてや、生前のたいめ(対面)、彼の寄道とりおさめつかへけり。遠き境の人はいまだしり及さずや。江都に心ざしを盡せるたれかれ、ところどころに席をかまへて、氾書興行のくさぐさ、袖に故に袂ひろひかさねて、往クに歩みを忘れ、富士もみず、大井もしらぬ寒ム空かけて、霜月七日のゆふづくよの程に、義仲寺の冢上にひざまづく。空華散じ水月うちこぼす時、心鏡一塵をひかざれば、万象よくうつる。此師、この道におゐて、みづからを利し他な利して、終に其神不レ竭、今も見給へ、今も聞き給へ。此下にかくねむるらん雪佛 嵐雪 拜・十月二十二日夜興行十月をゆめかとばかり桜はな 嵐雪・十月二十三日追善亦誰そやあゝ此の道の木葉搔 湖春・義仲寺へ送る悼氷るらん足もぬらさで渡川 北村季吟・深草の翁、宗祇居士を讃していはずや、友二風月一家二旅泊一と芭蕉翁の趣に似たり旅の旅つゐに宗祇の時雨哉 素堂