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芭蕉翁終焉記 宝井其角編 附『枯尾花』

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芭蕉翁終焉記 宝井其角編
元禄八年(1695)刊 『蕉門俳諧後集』「枯尾花上巻」
 
 はなやかなる春は、かしら重く、まなこ濁りて心うし。泉石冷々たる納涼の地は、ことに湿気をうけて、夜もねられず、朝むつけたり。秋はたゞかなしびを添ふる膓をつかむばかり也。
ともかくもならでや雪のかれ尾花

と、無常閉関の折々は、とぶらふ人も便りなく立帰りて、今年就中老衰なりと嘆きあへり。
 そもそも此翁、孤独貧窮にして、徳業にとめること無量なり。二千余人の門葉、辺遠ひとつに合信する因と縁との不可思議、いかにとも勘破しがたし。天和三年(1683)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。

爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年(天和四年)、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと
それより「三更月下入無我」といひけん、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて一かぶの芭蕉を植ゑたり。
雨中吟
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉
と侘びられしに、堪閑の友しげくかよひて、おのづから芭蕉翁とよぶことになむ成りぬ。その比円覚寺大巓和尚と申すが、易にくはしくおはしけるによりて、うかゞひ侍るに、或時翁が本卦のやうみんとて、年月時日を古暦に合せて筮考(ゼイコウ)せられけるに、萃(スイ)といふ卦にあたる也。是は一もとの薄の風に吹かれ、雨にしをれて、うき事の数々しげく成りぬれども、命つれなく、からうじて世にあるさまに譬(タト)へたり。されば「あつまる」とよみて、その身は潜かならんとすれども、かなたこなたより事つどひて、心ざしをやすんずる事なしとかや。信に聖典の瑞を感じける。
さのごとく草庵に入り来る人々の道をしたへるあまり、とにもかくにも慰むれば、所得たる哉、橋あり、舟有り、林あり、塔あり、
花の雲鐘は上野か浅草か
眼前の奇景も捨てがたく、おのおのがせめておもふも、むつまじく侍れど、古郷に聊か忍ばるゝ事ありとて、貞享初めのとしの秋、知利をともなひ、大和路やよし野の奥も心のこさず、
露とくとくこゝろみにうき世すゝがばや
是より人の見ふれたる茶の羽織、ひの木笠になん「いかめしき音やあられ」と風狂して、こなたかなたのしるべ多く、鄙の長路をいたはる人々、名を乞ひ、句を忍ぶこと安からず聞えしかば、隠れかねたる身を「竹斎に似たる哉」と凩の吟行に、猶々徳化して正風の師と仰ぎ侍る也。近在隣郷より馬をはせて来りむかふるもせんかたなし。心をのどめてと思ふ一日もなかりければ、心気いつしかに衰滅して、
病む雁の堅田におりて旅ね哉
とくるしみけん其年より、大津・膳所の人々いたはり深く、幻住庵・義仲寺、ゆく所至る処の風景を心の物にして遊べること年あり。元来根本寺仏頂和尚に嗣法して、ひとり開禅の法師といはれ、一気鉄鋳生(ナス)いきほひなりけれども、老身くづほるゝまゝに、句毎のからびたる姿までも、自然に山家集の骨髄を得られたる有りがたくや。さればこそ此道の杜子美也ともてはやして、貧交人に厚く、喫茶の会盟に於いては宗鑑が洒落も教のひとかたに成りて、自由躰・放狂躰、世挙(コゾ)ツて口うつしせしも現力也。凡篤実のちなみ、風雅の妙、花に匂ひ月にかゞやき、柳に流れ、雪にひるがへる。
須磨・明石の夜泊、淡路島の明ぼの、杖を引くはてしもなく、きさがたに能因、木曽路に兼好、二見に西行、高野に寂蓮、越後の縁は宗祇・宗長、白川に兼載の草庵、いづれもいづれも故人ながら、芭蕉翁についてまぼろしにみえ、いざやいざやとさそはれけん、行衛の空もたのもしくや。(奥のほそ道といふ記あり)十余年がうち、杖と笠とをはなさず、十日とも止まる所にては、又こそ我胸の中を道祖神のさわがし給ふ也と語られしなり。
住みつかぬ旅の心や置火燵
是は慈鎮和尚の「たびの世にまた旅寝してくさ枕 ゆめの中にもゆめをみる哉」とよませ給ひしに思ひ合せて侍る也。遊子が一生を旅にくらしてはつと聞得し生涯をかろんじ、四たびむすびつる深川の庵を又立出づるとて、
鶯や笋薮(タケノコヤブ)に老を鳴
人も泣かるゝわかれなりしが、心待ちするかたがたとにかくかしがましとて、ふたゝび伊賀の古郷に庵をかまへ、(三か月の記有り)爰にてしばしの閑素をうかゞひ給ふに、心あらん人にみせばやと、津の国なる人にまねかれて、爰にも冬籠する便りありとて、思ひ立ち給ふも道祖神のすゝめ成るべし。
九月廿五日、膳所の曲翠子よりいたはり迎へられし返事に
此道を行く人なしに秋の昏
と聞えけるも、終のしをりをしられたる也。伊賀山の嵐紙帳にしめり、有りふれし菌の塊積にさはる也と覚えしかど、苦しげなれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢、度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去来、京より馳せくるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈草・平田の李由つき添ひて、支考・惟然と共に、かゝる嘆きをつぶやき侍る。もとよりも心神の散乱なかりければ、不浄をはゞかりて、人々近くも招かれず、折々の詞につかへ侍りける。たゞ壁をへだてて、命運を祈る声の耳に入りけるにや、心弱き「ゆめのさめたるは」とて、
  • 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

     また、枯野を巡るゆめ心、ともせばやと申されしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死なん身の道を切に思ふ也と悔まれし。八日の夜の吟也。各はかなく覚えて、
     賀会祈祷の句

    落つきやから手水して神集め    木節
    凩の空見なほすや鶴の聲      去来
    足がろに竹の林やみそさゞい    惟然
    初雪にやがて手引かん佐太の宮   正秀
    神のるす頼み力や松のかぜ     之道
    居上げていさみつきけり鷹の皃   伽香
    起さるゝ聲も嬉しき湯婆(タンボ)哉 支考
    水仙や使につれて床離れ      呑舟
    峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈草
    日にまして見ます顔也霜の菊    乙州
     
     是ぞ生前の笑納め也。木節が薬を死ぬ迄もと、たのみ申されけるも實也。人々にかゝる汚れを耻(ハ)給へば、坐臥(ザグワ)のたすけとなるもの呑舟と舎羅也。これは之道が貧しくて有りながら、切に心ざしをはこべるにめでて、彼が門人ならば他ならずとて、めして介抱の便りとし給ふ。そもかれらも縁にふれて、師につかふまつるとは悦びながらも、今はのきはのたすけとなれば、心よわきもことわりにや、各がはからひに、麻の衣の垢つきたるを恨みて、よききぬに脱ぎかはし、夜の衣の薄ければとて、錦繍のめでたきをとゝのへたるぞ、門葉のものどもが面目なり。
    九日・十日はことにくるしげ成るに、其角、和泉の府、淡の輪といふわたりへ、まゐりたるたよりを乙州に尋ねられけるに、「なつかしと思ひ出でられたるにこそ」とて、やがて文したゝめてむかひ参りし道たがひぬ。予は岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕べ大坂に着きて、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくなやみおはすといふに胸さわぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたなき懐ひをのべ、力なき声の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて住吉の神の引立て給ふにやと歓喜す。わかのうらにても祈りつる事は、かく有るべしとも思ひよらず、蟻通の明神の物とがめなきも有りがたく覚え侍るに、いとゞ泪せきあげて、うづくまり居るを、去来・支考がかたはらにまねくゆゑに、退いて妄昧の心をやすめけり。膝をゆるめて病顔をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、
    吹井より鶴を招かん時雨かな  晋子(其角)と祈誓してなぐさめ申しけり。「先ず頼む椎の木もあり」と聞えし幻住庵はうき世に遠し。「木曽殿と塚をならべて」と有りしたはぶれも、後のかたり句に成りぬるぞ。「其きさらぎの望月の比」と願へるにたがはず、常にはかなき句どものあるを前表と思へば、今さらに臨終の聞えもなしとしられ侍り、露しるしなき薬をあたゝむるに、伽のものども寝もやらで、灰書に、
    うづくまる薬の下の寒さ哉    丈草
    病中のあまりすゝるや冬ごもり  去来
    引張つてふとんぞ寒き笑ひ声   惟然
    しかられて次の間へ出る寒さ哉  支考
    おもひ寄る夜伽もしたし冬ごもり 正秀
    鬮とりて菜飯たかする夜伽哉   木節
    皆子也みのむし寒く鳴盡す    乙州
     

     十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく睡れるを期として、物打ちかけ、夜ひそかに長櫃に入れて、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきにせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子次郎兵衛・子ともに十人、苫もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、たびねこそあれと、ためしなき奇縁をつぶやき、坐禅・称名ひとりびとりに、年ごろ日比のたのもしき詞、むつまじき教へをかたみにして、誹諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを今さらにしつ。東南西北に招かれて、つひの栖(スミカ)を定めざる身の、もしや奥松島、越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞きて驚くばかりの歎きならんに、一夜もそひてかばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の思ひいくばくぞやと、鳥にさめ鐘をかぞへて、伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬礼義信を尽し、京・大坂・大津・膳所の連衆、披官・従者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳せ来るもの三百余人也。浄衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてて着せまゐらす。即ち義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少し引入れたる所に、かたのごとく木曽塚の右にならべて、土かいをさめたり。おのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせうを植ゑて名のかたみとす。常に風景をこのめる癖あり。げにも所は、ながら山・田上山をかまへて、さゞ波も寺前によせ、漕出づる舟も観念の跡をのこし、樵路の鹿・田家の雁、遺骨を湖上の月にてらすこと、かりそめならぬ翁なり、人々七日が程こもりて、かくまでに追善の興行、幸ひにあへるは子也けりと、人々のなげきを合感して、愚かに終焉の記を残し侍る也。程もはるけき風のつてに、我翁をしのばん輩は、是をもて回向のたよりとすべし。

        於粟津義仲寺牌位下  晋子書

     
    芭蕉、追善の俳諧 『枯尾花』
    ・元禄七年十月十八日、
      なきがらを笠に隠すや枯尾花   其角
     
    ・十月甘五日.義仲寺芭蕉の墓前
    いつの多か、凧のうしろむきそめ、葛のはのおもてみし、秋より春にわたり、故にさめ笠に眠り、小葉に病、つゐの浮世をなにはになして、枯野にあそぶと聞え給ひし一句を、今さらのうつしになしぬ。其角はさる契ありてや、生前のたいめ(対面)、彼の寄道とりおさめつかへけり。遠き境の人はいまだしり及さずや。江都に心ざしを盡せるたれかれ、ところどころに席をかまへて、氾書興行のくさぐさ、袖に故に袂ひろひかさねて、往クに歩みを忘れ、富士もみず、大井もしらぬ寒ム空かけて、霜月七日のゆふづくよの程に、義仲寺の冢上にひざまづく。空華散じ水月うちこぼす時、心鏡一塵をひかざれば、万象よくうつる。此師、この道におゐて、みづからを利し他な利して、終に其神不竭、今も見給へ、今も聞き給へ。
     此下にかくねむるらん雪佛 嵐雪 拜 
    ・十月二十二日夜興行
      十月をゆめかとばかり桜はな    嵐雪
    ・十月二十三日追善
      亦誰そやあゝ此の道の木葉搔    湖春
    ・義仲寺へ送る悼
      氷るらん足もぬらさで渡川     北村季吟
    ・深草の翁、宗祇居士を讃していはずや、友二風月一家二旅泊一と
     芭蕉翁の趣に似たり
      旅の旅つゐに宗祇の時雨哉     素堂

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