(甲斐)禅宗憎の活躍
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)
【加賀美遠光】
甲州の臨済宗寺院の初めは、遠光寺(甲府市伊勢町)縁起によれば建暦元年(1211)栄西の弟子の宗明を加賀美遠光が請じて創立したと伝える。
【蘭渓道隆】
甲州に臨済宗を確実に布教したのは、これより六〇年後に人峡した宗の帰化僧蘭渓道隆である。蘭渓は北条時頼から厚い帰依を得て、建長五年に建長寺の開山に迎えられたが、旧仏教徒の迫害を受け文永九年(1272)と建治三年(一二七七)の二度甲州に流謫された。このおり甲府市板垣の東光寺、韮崎市の永岳寺を開き、建長寺派の礎となる。
【夢想国師】
蘭渓によって甲斐国に点ぜられた臨済の法灯は、その寂後五〇余年、元徳二年(1330)夢窓が山梨郡牧荘
に恵林寺を創建するに及びその法流は甲斐国中に教練を拡大し、延いては全国を風扉するに至ったのである。
夢窓は弘安元年(1278)四才のとき両親と共に甲斐に移住して以来、甲州は夢窓のふるさとであった。九才のとき市川大門平塩寺の空阿上人について出家、一八才まで東密を学び、その後諸刹を遍参して顕密画学を究め、更に建長寺の一山一寧に参究し、さらに万寿寺高峰頭日に就学して印可を受けた。のち洛中に天龍寺、相国 邱寺の中世を代表する二大本山を開き南北朝雨朝七代の天皇により国師号の特賜・追陽を受けた。禅僧として歴史上例のない活躍をみた夢窓が最初に開いたのが牧庄(牧丘町)の浄居寺であり、円熟した時代に開創をみたのが恵林寺である。それは夢窓のあと弟子の龍漱周沢、絶海中津など高僧が恵林寺の住持となると共に夢窓のあと京都五山文学双壁として輩出されるのをみても、五山文学は甲斐からと云っても過言でない。
【業海本浄】
夢窓の禅に対して「夢窓門派の唱道と行蔵とは禅の本旨に非ず」と夢窓国師を批判したのが業海本浄である。
彼は文保二年(1218)明叟斉哲(御坂町正法寺開山)、古先印元(恵林寺住持)ら六人の青年憎が元に渡り、浙江省抗州府天目山において中味明本(普応国師)に参じ印可を受け帰国した。その後業海は武田氏の援助受け大和村木賊に天目山棲雲寺を創建し、師普応国師の峻厳な禅を広めた。
【抜隊得勝】
塩山向嶽寺を開いた抜隊得勝は、康暦二年(1380)守護武田信成の外護を受け、塩山の南故に向嶽寺を開いた。これが後の臨済宗向嶽寺派の礎となった。抜隊の禅は厳しく、法灯派の僧房において厳格な生活を行ずるように「抜隊潰滅」を伝えている。一方、禅の教化にあっては庶民を対象に「塩山和泥合水」「語」など刻版してわかりやすく禅の世界を説いた。
【雪山玄呆】
曹洞宗の当国に流布されるのは臨済宗よりおくれ、南北朝期から室町時代にかけてである。中でも西郡の領主大井春明によって請ぜられ来甲した雪山玄呆が正慶二年(1333)、師の明峰を開山として増穂町に南明寺を草創したのが甲州曹洞宗の始まりである。
【鶏岳永金】
次いで法王派といわれる寒巌義尹の法流で鶏岳永金が都留市夏狩宝鏡寺を建て、郡内法王滝の拠点とした。
道元と並んで曹洞宗の二祖と呼ばれる笹山の弟子峨山詔碩の一派、峨山脈が入甲し、後世最大の教団に発展した。
関東方面の峨山滝の拠となった大雄山最乗寺を開いた了庵彗明の法嗣大綱明宗は甲斐の人であった。その法嗣吾宝宗燦の門弟の枯笑、雲岫、州庵の三僧は積極的に甲斐一円に布教をおこなった。
【雲岫一派】
ことに雲岫一派の甲州での活躍がめざましかった。雲岫は寛正元年(1460)に武田信昌の外護を受け一宮町中山広厳院を開創して中心道場とした。雲岫の門には山梨落合永昌院開山の一華文英、中道町上曽根の竜華院開山の佳節宗昌、都留市金井用津院開山の鷹岳宗俊の三傑がでて、それを俊英が引き継ぎ、更に歴代の守護や在地豪族の外護を受け雲岫派は甲州曹洞禅の最大の教団となった。枯笑宗英は文安四年(1447)に勝沼町小佐手の東林院の開基ととなり、ついで信濃滋野氏に招かれて祢津定津院を開いて布教の拠点とした。州庵は州安とも記す。永正九年(1512)に櫛形町伝嗣院を開創している。
江戸時代にはいると徳川家康は武田関係の寺院を保護する政策をとり、武田家の菩提所である甲府市大泉寺とともに一宮町の広厳院を僧録所と定め、県内の曹洞寺院を統轄させた。享保年間(1716-36)の社寺取調帳によると曹洞宗は827ヵ寺あり、現在でも511ヵ寺あって甲州最大の教団である。〔清雲俊元氏著〕
註
1)野沢公次郎「夢窓国師と恵林寺」『恵林寺略史』 一九八〇
2)柳田聖山「夢窓」『日本の禅語録』七 一九七七
3)『甲斐国社尼寺記』第二巻解説 山梨県立図書館 一九六八
4)関口貞通『向嶽寺史』向嶽寺 一九七二
5)古田紹欽「抜隊」『日本の禅語録』一一 一九七九
6)佐藤八郎「甲州曹洞宗解説」『甲斐国社尼寺記』第三巻 山梨県立図書館 一九六六
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)
【加賀美遠光】
甲州の臨済宗寺院の初めは、遠光寺(甲府市伊勢町)縁起によれば建暦元年(1211)栄西の弟子の宗明を加賀美遠光が請じて創立したと伝える。
【蘭渓道隆】
甲州に臨済宗を確実に布教したのは、これより六〇年後に人峡した宗の帰化僧蘭渓道隆である。蘭渓は北条時頼から厚い帰依を得て、建長五年に建長寺の開山に迎えられたが、旧仏教徒の迫害を受け文永九年(1272)と建治三年(一二七七)の二度甲州に流謫された。このおり甲府市板垣の東光寺、韮崎市の永岳寺を開き、建長寺派の礎となる。
【夢想国師】
蘭渓によって甲斐国に点ぜられた臨済の法灯は、その寂後五〇余年、元徳二年(1330)夢窓が山梨郡牧荘
に恵林寺を創建するに及びその法流は甲斐国中に教練を拡大し、延いては全国を風扉するに至ったのである。
夢窓は弘安元年(1278)四才のとき両親と共に甲斐に移住して以来、甲州は夢窓のふるさとであった。九才のとき市川大門平塩寺の空阿上人について出家、一八才まで東密を学び、その後諸刹を遍参して顕密画学を究め、更に建長寺の一山一寧に参究し、さらに万寿寺高峰頭日に就学して印可を受けた。のち洛中に天龍寺、相国 邱寺の中世を代表する二大本山を開き南北朝雨朝七代の天皇により国師号の特賜・追陽を受けた。禅僧として歴史上例のない活躍をみた夢窓が最初に開いたのが牧庄(牧丘町)の浄居寺であり、円熟した時代に開創をみたのが恵林寺である。それは夢窓のあと弟子の龍漱周沢、絶海中津など高僧が恵林寺の住持となると共に夢窓のあと京都五山文学双壁として輩出されるのをみても、五山文学は甲斐からと云っても過言でない。
【業海本浄】
夢窓の禅に対して「夢窓門派の唱道と行蔵とは禅の本旨に非ず」と夢窓国師を批判したのが業海本浄である。
彼は文保二年(1218)明叟斉哲(御坂町正法寺開山)、古先印元(恵林寺住持)ら六人の青年憎が元に渡り、浙江省抗州府天目山において中味明本(普応国師)に参じ印可を受け帰国した。その後業海は武田氏の援助受け大和村木賊に天目山棲雲寺を創建し、師普応国師の峻厳な禅を広めた。
【抜隊得勝】
塩山向嶽寺を開いた抜隊得勝は、康暦二年(1380)守護武田信成の外護を受け、塩山の南故に向嶽寺を開いた。これが後の臨済宗向嶽寺派の礎となった。抜隊の禅は厳しく、法灯派の僧房において厳格な生活を行ずるように「抜隊潰滅」を伝えている。一方、禅の教化にあっては庶民を対象に「塩山和泥合水」「語」など刻版してわかりやすく禅の世界を説いた。
【雪山玄呆】
曹洞宗の当国に流布されるのは臨済宗よりおくれ、南北朝期から室町時代にかけてである。中でも西郡の領主大井春明によって請ぜられ来甲した雪山玄呆が正慶二年(1333)、師の明峰を開山として増穂町に南明寺を草創したのが甲州曹洞宗の始まりである。
【鶏岳永金】
次いで法王派といわれる寒巌義尹の法流で鶏岳永金が都留市夏狩宝鏡寺を建て、郡内法王滝の拠点とした。
道元と並んで曹洞宗の二祖と呼ばれる笹山の弟子峨山詔碩の一派、峨山脈が入甲し、後世最大の教団に発展した。
関東方面の峨山滝の拠となった大雄山最乗寺を開いた了庵彗明の法嗣大綱明宗は甲斐の人であった。その法嗣吾宝宗燦の門弟の枯笑、雲岫、州庵の三僧は積極的に甲斐一円に布教をおこなった。
【雲岫一派】
ことに雲岫一派の甲州での活躍がめざましかった。雲岫は寛正元年(1460)に武田信昌の外護を受け一宮町中山広厳院を開創して中心道場とした。雲岫の門には山梨落合永昌院開山の一華文英、中道町上曽根の竜華院開山の佳節宗昌、都留市金井用津院開山の鷹岳宗俊の三傑がでて、それを俊英が引き継ぎ、更に歴代の守護や在地豪族の外護を受け雲岫派は甲州曹洞禅の最大の教団となった。枯笑宗英は文安四年(1447)に勝沼町小佐手の東林院の開基ととなり、ついで信濃滋野氏に招かれて祢津定津院を開いて布教の拠点とした。州庵は州安とも記す。永正九年(1512)に櫛形町伝嗣院を開創している。
江戸時代にはいると徳川家康は武田関係の寺院を保護する政策をとり、武田家の菩提所である甲府市大泉寺とともに一宮町の広厳院を僧録所と定め、県内の曹洞寺院を統轄させた。享保年間(1716-36)の社寺取調帳によると曹洞宗は827ヵ寺あり、現在でも511ヵ寺あって甲州最大の教団である。〔清雲俊元氏著〕
註
1)野沢公次郎「夢窓国師と恵林寺」『恵林寺略史』 一九八〇
2)柳田聖山「夢窓」『日本の禅語録』七 一九七七
3)『甲斐国社尼寺記』第二巻解説 山梨県立図書館 一九六八
4)関口貞通『向嶽寺史』向嶽寺 一九七二
5)古田紹欽「抜隊」『日本の禅語録』一一 一九七九
6)佐藤八郎「甲州曹洞宗解説」『甲斐国社尼寺記』第三巻 山梨県立図書館 一九六六