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徳嶋堰の経営の変遷 『白根町誌』

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 徳嶋堰取り入れ口 釜無川より
徳島堰(徳島堰と新田開発 『白根町誌』)
 
  • 徳島堰
 徳島堰ははじめ武川、西郡筋新堰といわれた。甲州巨摩郡武川筋上円井村内釜無川より取水する堰で、その開削者が江戸の人徳島兵左衛門俊正であった。 
時の領主は桜田様徳川綱重侯、江戸初期の新田開発期に起されたものである。まず兵左衛門が甲州武川、西郡筋を巡遊した際、乾燥不毛にして用水皆無の原
野を目撃し、潤水あれば広大の新田開発も可能であることに着眼、三枝善衛氏「徳島堰」によると、すでに万治年間に堰開さく計画を構想していたではないかとして、妙浄寺七面尊背面書をあげている。それには「南無七面大明神 寄進之施主 徳島兵左衛門万治元戊年閏極月十六日」と台座に書いてあるという。
 
  • 「徳島堰堀渡由来書」
徳島堰資料篇、享保十一年(一七二六)華輪文書「徳島堰堀渡由来書」には寛文元丑年(一六六一)江戸表より徳島兵左衛門と申す者罷越、堰筋見立
段々奉願、堀渡堰筋下、芝間水代ニ付金壱分ヨリ弐分迄取候積り、異他御新田御取務高出次第十分一永々被下置積り奉願候。翌年ヨリ兵左衛門ニ被仰付、依之古田之分辰年御検地有之堰筋普請始り申儀己年ヨリ仕候……
 
とある。
当時左馬頭綱重御領分が、武川、西郡一帯を占めなおその間には家臣の知行所が幾多点在していたのである。これは「明暦弐年御勅使川水論裁許状絵図」にも領分知行所、代官所等しるされているので分明である。この中で左馬頭様御領分が新田開発上最も枢要の地にあり水源地を確保していた。
兵左衛門はここにおいて釜無川より掘り抜き、富士川へ通路する運河を開削しようと出願したものと思われる。
寛文四年(一六六四)正月、神主歌田吉実宛「契約候一札之事」の中に
 
一、私儀此度巨摩郡上円井より同郡鰍沢迄巾弐間長七里余新田堰掘渡大所願  
  ニ付御領主江奉願上御免シヲ蒙り候。徳島俊正 花押」
 
これによって幅二間の水路を考えていたこと、鰍沢まで到着する計画が明かである。時の甲府城代は、渡辺六左衛門寛文元丑年(一六六五)九月二七日より同二卯年(一六六六)まで、三〇〇〇石役豊前守と改め後に戸田周防守(半助)寛文四年(一六六四)一二月より寛文十一亥年(一六七一)まで二五〇〇石で、これより周防守との交渉が起こる。
 寛文四年(一六六四)十一月には、兵左衛門は部下を甲州へ移住し準備を進める。部下には富野喜兵衛、中根作左衛門、富野長兵衛らで妻妙浄を伴う、彼の素生は江戸深川の住人、あるいは長曽我部一族といわれているが、確かではない。深川浄心寺に関係をもつ者と思われる。
 開発権
 兵左衛門が新田堰の掘り渡しについて領主へ願い上げた願書も残っていない。しかし現存する兵左衛門自筆の『新開取箇の文書』や、「相渡中新田畑の事」等にその断片がうかがわれるのである。この中に
 
「百々村出芝間参反歩、椚畑壱反歩合せて四反歩、新田起に相渡申候。
為此水代今(いま)金弐両弐分請取申候。但芝間壱反に付金弐分づつ也。林は壱反に付金参分づつ也、其上壱年は其方作り取に可被致候。
其の明年よりは見分次第御年貢請取可申候。」
   寛文六年(一六六六)午八月拾七日
             徳嶋兵左衛門 
    百々村 太郎左衛門殿
 
 これらにより、開発権と水代徴収権が附与されていた事。また畑成田の水代収も含まれている。寛文九年(一六六九)四月の「有野村芝間改渡野帳」には徳島氏が桜田領へ上地後の水代徴収料、壱反に小判12朱ずつ受取った事が記載されており芝間も屋敷内も同額であった。思うにこの水代は徳島氏の前例にならい徴したものと思われる。
 開削工事
 開さく工事は寛文五年(一六六五)以来急速に掘り渡されて行く。しかるに武川筋、西郡筋山麓地帯の地盤高低が甚だしく降雨ごとの土砂の押し出しや、屈曲と岩石などで進行を阻んでいる。中でも樋口八峰、折居山吹沢、上条南割小池、御勅使川は難所で、御勅使河原を掘り割り、板関とした事は特殊工法である。しかし寛文五年中にも台風に流されているし、たいへんな難事業である。彼に従う協力者、見照院日達、徳島氏妻妙浄は日夜仏前に勤行し、妙浄寺や、飯野新田に七面堂も勧請建立したと伝えられている。前記寛文五年の台風により有野村の田畑流亡や、御勅使川板関が流失した事が記録にある。かくして苦闘すること3年をもってようやく寛文七年(一六六七)の春には飯野南橋まで通水したという。
 挫折
 寛文五年九月および寛文七年の天候不順、台風の被害は甚大で、そのため囲い置いた材木も流され、御勅使川の板関も破壊され、その復旧に奔走する。なおかつ最大の困難は資金の欠乏といわれる。深い理由はわからないがこの大事業もついに寛文7年(一六六七)秋にいたって挫折の運命に至る。事業はほとんど半ばに達したに過ぎない。ここで放棄すれば当初企図した運河舟運の望みはとうてい達せられないばかりか、今までの辛苦は水泡に帰すのだった。はじめ釜無川の水量は計算も半ばに過ぎなかったためかも知れない。兵右衛門はついに御囲いの材木資材を差し上げその代償金の交付を乞い、江戸へ引き上げてしまい、その後の消息は不明である。
 戸田周防守の経営
 かくて城代戸田周防守は差し上げられた新田堰経営の後継者をさがす、そして部下の津田伝右衛門と有野村、矢崎又右衛門が周防守にあげられ続行する。 
沿線村々へ夫役を命じ御公儀普請として続けられた。先に兵左衛門が堰を差し出した代償四一六五両三分は後の寛文十一年(一六七一)六月の精算後の支払いとなる。 
津田・矢崎氏の経営
津田・矢崎氏は経営規模を変更し、堰幅上流二問半次いで二間、九尺、七尺と末流に従い狭小とした。樋口より排出される水量は反町により制限を加えた。津田、矢崎両氏は、寛文8年(一六六八)より10年まで3カ年を年次精算し勘定所元報告をして任を解かれる。
  • 徳島堰は御川除支配方に
翌寛文十一年(一六七一)に本堰は御川除支配方に直轄されることになり奉行として嶋田甚右衛門、山田治右衛門、戸倉小左衛門が任ぜられ、本堰を見分して功業の広大なことを嘆賞しこれによって、「徳島堰」と命名されたことが「徳島堰碑」に記載されている。津田、矢崎氏が寛文七年(一六六七)暮開削を継承した時、新田開発について、請書を徹しているが、百々秋山公雄家蔵の文書に村請により開発を承諾する旨をしるされているので近世の初期に当たり、村詰開発が甲州においてはすでに行なわれていたことがわかる。この中で
 
百々村御話中新田場取之事(寛文七年資料篇)
一、三拾七町七反 畠返シ
一、芝間四拾町  望之場取
是ハ村之北南
   一、椚林弐町壱反
       是ハ宮内之後下火草五味近戸
         官之前村の前
  右望之場所水被下候者書上ケ申通開発可仕候。
御年貢之儀ハ御見分次第急度定納可致候。(下略)
   寛文七年末、十二月三日
       百々村名主太郎左衛門㊞                
以下組頭拾名 連印
 
 水を被下候はば望之場所開発仕候と意気込が見える。
 開発当時の地積灌漑は明らかではないが、その大要は「徳島堰資料「甲州武川、西郡筋申酉成年新田水代金、見取米御勘定目録」(華輪文書)に明らかにされている。(徳嶋堰資料編320頁)
 この中に
寛文八申年(一六六八)
  此芝間反別六拾壱町九反六畝歩 田参拾七町参反参畝四歩
寛文九酉年(一六六九)
水代金平壱反に付壱分銀壱匁五分八厘余
此芝間反別六拾弐町壱反四畝弐歩
      田四拾八町六反六畝拾弐歩
      水代平壱反に付壱分銀四匁弐分余
      米拾七石四斗八升 平岡岡右衛門、水上三郎兵衛より請取
      是は太田壱岐守上ケ知、新堰水ニ而仕付候処畠返し外新田分酉の御年貢の由右両人目録有之。(以下略)
 
寛文拾年成年(一六七〇)
此芝間反別七町五反六畝拾七歩平壱反に付壱分銀弐分壱厘余田六拾五町弐反参畝歩
 
 「右勘定目録」を抽出したが新田畑屋敷も含まれているので、灌漑地積の明細は小帳を検さねば詳細は明かでない。なおこの期間徳島関係村々の代官は、
 
   寛文八申年
    平岡岡右衛門 細井治兵衛 深谷庄右衛門
   寛文九酉
    平岡岡右衛門 水上三郎兵衛 深谷庄右衛門 細井治兵衛
   寛文拾戊
    平岡岡右衛門 細井治兵衛 深谷庄右衛門 水上三郎兵衛
 
 工事進行には、貢租その他行政支配を行なっていた代官との交渉があったことはいうまでもない。このようにして新田開発灌漑が進められて行ったのであるが、これはあたかも「雨滴石を穿つ」の譬(タトエ)のように孜々営々(ししえいえい)として続けられた努力の結晶である。
 
分水について。
附急破の例
 徳島徳の分水は干水時その量水に制限を施すので樋口の工作、調節が最も影響を及ぼす。そのため拒否受諾について、上下流の紛議が起こりやすい。奉行・代官へ上げた書類が数多く残されているのはこれが為で、また、負担や夫役の過重なことも想像外である。徳島堰分水の初期の資料の多くは、隠滅して認められないが当地区内の二の資料を記載する。干ばつに際して分水は随時行なうべきであるが、習慣に従い一定時期を経過した時に実施されたようである。開さく当時は御川除奉行が下役をして執行せしめたが、後には代官所普請役が出張してこれに当った。元禄14年の百々村差上記録を見るに、
            (百々竹内達雄家蔵)
差上申一札之事
北水門壱ケ所此反町 弐町五反四畝廿歩
   但 壱尺六寸(戸水門)
中水門壱ケ所此反町 拾七町五反九畝歩
    但 弐尺四寸(戸水門)
 一、南水門壱ケ所此反町 拾弐町六反弐畝参歩
    但 壱尺八寸(戸水門)
 都合参ケ所百々村御足水門
  此反別   参拾弐町七反五畝廿参歩
  畑成田   拾九町壱反五畝廿歩
        四畝拾四歩 屋敷成田
        七反八畝廿八歩 下畑成田
        拾八町参反弐畝八歩下々畑成田
  分米    七拾八石弐斗八升壱合
  取米    百弐石五斗七合
  辰の改新田 拾壱町九反五畝廿壱歩
  分米    百升八石五升九合
  取米    五拾九石壱斗五升
 辰の改畑成田 壱反拾五歩
  分米    四斗弐升 高二九ツ弐斗六厘
  取     参斗八升九合
 寅の改畑成田 参反六畝廿六歩
  分米    弐石七斗九升五合
  取     壱石参斗四升四合高二四ツ八分
  見取    壱町壱反七畝壱歩
  上毛田   壱反四斗六升取
  中毛田   壱反参斗六升取
  下毛田   壱反弐斗九升取
  下々毛田  壱反弐斗弐升取
  
 右徳嶋堰御分水を以て仕付申候。反別御高井水門寸法少しも相違無御座候。
為英一札如此御座候。以上
   元禄十四年夏四月
         百々村名主 弥一右衛門

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