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叔母「小川正子」の生きた日々

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叔母「小川正子」の生きた日々
 
年輪「山梨ことぶき勧学院大学院」平成6年度卒業(5期生)
文学・芸術コース卒業論文集 山梨県教育委員会                                   一瀬絲子氏著 一部加筆
 
 
はじめに
「小島の春」の著者小川正子が没して今年52年目を迎える。この頃、小川正子に関して或は「小島の春」について等の講演を聞く機会が数回あった。正子の親族の一人として、諸先生の研究の深さに敬意を表しながら興味深く拝聴している。が、いつも頷く部分と頷かれぬ部分があって、叔母正子を想う心は大きく揺れ動いている。例えば「小島の春」として出版される以前の正子の手記の在り様について、癩患者収容のための検診行、収容行の時々の正子の心情の偏った憶測、「聖医」?と呼ぶことの良否、療病の伝染性への疑問等々‥‥‥。巷にある正誤とりまぜての正子の生き方の評価を、息を呑む思いで辛く悲しく聞くこともある。
私の手許に正子が結核に倒れて郷里春日居村に帰省し、死を迎えるまでの晩年の日記がある。正子の晩年の5年間を共に過した姪という係りの中から、日記を参考にしながら紙面の許される範囲で正子像を探ってみたい。
 
1、癩者の検診行と収容行と「小島の春」
 正子が奉職した長島愛生園は国立の療療養所であり、瀬戸内海の小島のひとつであった。
昭和7612日、愛生園の光田健輔園長にだけ「手伝わせて頂きたい」と手紙を出してたのみで、突然の様に長島の桟橋に上った正子は若く、「桟橋から来た娘」という綽名をもらっていたという。間もなく昭和8年に愛生園の医官として正式に就任すると同時に光田園長の命令で癩者の検診行や患者の収容に出かける様になる。8年の九州の患者収容が初めで、9年には土佐へ。11年の1月からは毎月出かけている。困美国毎の山村の雪の日に226事件を聞き、宇垣内閣の組閣の行き悩み等、世情の騒然とする事件を瀬戸の海の船中で聞きながらのきびしい行程であった。昭和1210月、結核を発病するまで癩患者の救済に全力をつくしている。
 日本では明治40年(正子5才)に癩予防法が法律として発令され、癩は伝染病であるという確認の上、野放し状態になっている患者を取締る「警察法規」があり、「小島の春」に書かれている収容も官憲の要請で行われ、正子の収容行にも地域の警官が同行している。この法律は正子の死後10年たった昭和28年に改正され、「家族の不当な差別扱いの禁止」と「患者の国立療養所への強制収容」の内容になっている。しかし、昭和の初期の瀬戸内の島々や四国の山あいの村々には、癩が伝染病ということは知られていなかった。正子は愚者を探し出すこと、罷患している人々や家族や地域の人々に、癩は遺伝でなく伝染病であることを説得し、療養所への入所をすすめる困難な仕事に突き進んでいった。出張した報告書を提出する義務として、検診行は詳しく書き残す様にとの光田園長の指導もあって、救癩活動に若き体力と精神力を投入し心血を注いだ日々を記録しておいたものを、まとめたものが「小島の春」である。日記の中で、著書「小島の春」の出版について正子は
 
「救癩にあたる先輩諸氏の、処々に至る処に蒔きおかれしもろもろの種が、けふ「小島の春」に花開き出でしものと思えば人間のひとつひとつ隠ると現わるとを問はず、蒔いておく良き事の種は小島の春のすべてのもととなるもの、我成せしにあらず、つつましく居む」と書いている。
 
長島愛生園への正子の想い
 救療活動の過労から結核を発病。愛生園で休養の後、昭和13年静養を命じられて休職し、郷里の実家に帰省したのは、昭和1337才の時である。長島の桟橋から上陸して10年に足らぬ月日のうちに結核に冒されてる正子の、救癩活動への挫折感は深く、「結核でなく癩であれば、長島で病友と共に過せるものを」と、医者として不甲斐なしと自分を責め続けている。
 正子の離島を一番悲しんだのは、苦節の光田園長であり患者達であった。結核を一日も早く治療して長島に帰る日のあることを信じ、固く約束しての帰省であった。病む日、正子と老母(私には祖母)の語らいつ折々に長島へ帰ることを話し続けている。
・長島に又帰らむといふ教に たまゆら母の顔ゆがみたり
・ひたすらに身をつつしみて世人にも むくいよと言ひぬしまらくののち
 正子が敬愛する光田園長からも、「帰り来よ」とのみ書かれた電報や、手紙を頂戴している。
・指折りてあへる便りを持ちて居り 梅桃桜松共々に(光田園長)
 帰島を何時でも迎え入れようとして、暖かい心を示される手紙は、病む正子、挫折した正子の心をどんなにか勇気づけた事であろう。
・指折りて帰り待つとふ師の便り 病の床の我を起しむ
 ・「帰り来よ」我に電報賜りし 師の寂しさに思ひ至るも
・帰る日に期せぬ別れに触れて来し 船越の松吾を待つらむか
・ついついにかへる日のなき長島に なほも曳かれてあるこころかな
 
 昭和18年、病状は悪化するのみで、正子はもはや長島の人達に逢うことは出来まいと自覚する様になる。帰島への絶ち切れぬ思いを、「患者への思いは深く変わらぬのに、今は詮方なし、術なし」、と書き、病むベッドから遠く長島の病友へしみじみと呼びかけている。
「お互いに永却の空の上での再会の方が今は近い。私もすぐ行く、待ってて」‥‥‥と。
正子の死の1ヶ月ほど前の3月、H子という18才の娘から手紙が届いてい
る。正子が検診行の折に発見した父と娘で、父はすでに羅患していた。愛生園への入所を説得し、父は療養所に娘は園内の保育所に委ねられて8年間を過し、羅患せずに美しく育った娘姿の写真も同封されていた。その日の日記に、
「癩者訪問、それは全く私の役目でした事かもしれぬが、何にも役に立たなかったかもしれぬが、H子を良き娘として育てられる手に渡し得たこの一つの仕事は、私のたったひとつの希望と成長のある仕事だったかもしれぬ。」
と、H子の手紙を愛生園での正子の仕事の証として受けとめている。
 
・これやこの夫と妻子の一生の 別れかと思へば我も泣かるる
・親と子が泣き別れつる峠路は 秋さかりなる花野なりけり
・夫と妻が親とその子が泣き別る 悲しき病世になからしめ
 
 と、癩を病めばこその哀別離苦の悲しみのあまりの苛酷さに、
「若し私がここに来なかったら、この悲しい別れはなかったものを……。」と、自分の行動を責めて苦しむ心の揺れを歌にするのは、女医としての感性であろう。療病のために泣く人達のなくなることを願うからこそ、この辛い仕事を自分の使命とした正子の生き方は壮絶である。
 
おわりに
 悲壮なほどの使命感をもって、瀬に立ち向かった女医小川正子について、「聖医」と呼んで下さる方がいる。親族としてこれほど光栄に思うことはなく、有り難く思っているが、癩者を病友(とも)と呼ぶ正子の生き方、人生の想いの全ては聖医とは遠く、癩救済の使命に燃えた心やさしい若き女医がふさわしいと思う。明治に生れ昭和の初期に生きた女性としては、非常に勇気のいる仕事だったと思う。昭和18429日、数々の思いを残しながら結のため没している。数々年42歳の若さであった。

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