甲州金についえて
<前文略>
十六世紀の金貨を考えるうえに、「甲州金(甲金)の事実も問題となる。
甲州金は武田時代にはじまるといわれ、江戸時代を通じて甲斐一国を限り免許され、都留郡を除いてほかの三郡に主としで通用した。武由以来判金鋳造人に松木・野中・山下・志村の四家あり、慶長年肝大久保長安が甲斐の金山を支配し判金線造をも宰領した。甲金に、一両二分・二朱・一朱・未中などの金貨製作を一概に疑うわけではないが、これは前述した通用金としての判金に当るものではない。「加藩貨幣録」に、「奥村家譜」を引いて天正十二年(1584)能登未森城を佐々成政が攻め、籠城し戦功を立てた奥村永福に対し、利家より感状とともに賞興した中に、黄金七両があり、虞金の下注に、「錠毎に栴輸内紋あり」と記すという。梅輸内小判の類は、このような自家用途を目的に作られたのであろう。
しからば加賀蒲の判金ほどのようなものかというに、「三貨図彙」に紹介している加州灰吹金というものがそれであろうと思う。文化八年(1811)閏八月に加州侯が大阪にて金灰吹目方五十貫目を払ったことがある。二十二双替で文銀でおよそ千二百貫目の価であったという。その目方は、一個十匁あり二十匁あり軽重あって、いずれにも小さき極印があり「甲州の露小判のごとし」と記している。これが、藩の初期に通用した秤量貨幣たる判金に外ならない。近江の安土下豊浦の畑地から発掘された判金は、一枚は長径八寸・横径八分・目方四匁七分、一枚は二寸四分に一寸目方八匁七分で三つ星の刻印を捺している。これは信長の判金であろうと考えられているが、切り遣いの金である。このような判金では刻印を多数打って切り遣いにも刻印が残るようにする場合が多いのである。慶長十九年(1614)春、佐竹氏は同七年(1604)以来の領内の金山運上を一括して幕府に貢納しようとしたが、合計金百二枚であった。この内、百枚は白根湊封付と記され、一枚は杉沢金山の吹金、一枚は檜内金山の砂金で、この二枚は四十四匁ずつであった。白根湊封付の金は一枚四十匁二分であがあるが、家康のとき定められたともいう。一両判で、一松木小判のような丸判で、畳目四匁より四匁五分の古制のものがあり、その内には所伝のように武田時代の製作にかかるものもあろう。
しかし十六世紀中に主に通用した甲金というのは、・碁石金・まね判・露小判などといわれたものや、竹泳七金などであろう。碁石金は灰吹金(脚釦)で極印なべ大小あって軽重一ぁり、まね判(吹金)も同じく灰吹金で、露小判はまねりの灰吹金を量目四匁をもって作り極印を打ったものという。
また甲州の竹流しには極印があるという。以上は皆、秤量によって通用したもので、判金またはそれに准じたものといえよう。文禄三年(1594)三月、浅野長政より甲府町朝日かもん宛ての木綿段銭請取状によれば、野口新兵衛判の金子計二枚七両四分七厘を受領している。この判金は切り遣いを含む秤量貨幣である。甲金の適用法として、朱中(一朱の二分の一)・糸目(朱中の二分の一)・小糸目(糸目の二分の一)・小糸目中(小糸目の二分の一)の秤量の単位がある。駿河安倍那非川郷は永禄末年武田氏の支配力が及んだが、天正十年(1582)十一月同地の土豪海野元定が書きとめた年貢帳によると、同地方が産金地である関係から畑・屋敷の年貢その他を金で納めた分が少なくなかった。ところで例えば郷内の上田の屋敷年貢として、屋敷により一朱・朱中・いとめ等の年貢の差あることが記される。これ明らかに甲金の秤量法が慣川されたものである。ただしこの金が判金をもってあてたかどうかは明らかでない。
「慶長見聞集」によると、家康が江戸入封の天正十八年(1590)より文禄四年(1595)武蔵小判の鋳造までは、江戸では四条・佐野・松田の三人が「砂金を吹きまろめ、一両・一分・一朱・朱中などと、目をも判をも紙に書付」これが通用した七いう。家康は守随の甲州秤を分国中に使用させたが、これも甲州金の秤量法である。紙に書付とは封包のことらしいが、封包された吹金(灰吹金)やはり判金が多かったと思われる。(下略)