貨幣価値と戦国武将の金銭感覚(秀吉・勝頼)
『日本の貨幣』小葉田淳氏著 昭和三十三年刊
『多聞院日記』の記載によると、当時、金一枚、すなわち十両大判一枚で三〇石から六〇石の米が買えたことがわかる。
現在はもちろんメートル法で「石」などといういい方をしないが、今日の米価を「石」に換算し.てみると大体一石あたり六万円という勘定になり(前掲宮本又郎氏論稿)、したがって、金一枚は、今日の貨幣価値に直して大体一八〇万円から三六〇万円ということで、間をとってもこ二五〇万円ということにはなる。なお、銀も一枚という数え方をするときは十両をさし、同じような米価打よる換算でいけば、約五〇万円ということになり、金一両が銀十両にあたるというのとはややちがってきているが、金十両が二五〇万円、銀十枚が五〇万円という大体の目安で計算していくことはできる。
周知のように秀吉は、天正十七年(1589)に金賦(かねくば)りということをやっている。その年町五月二十日、秀吉は聚楽第に一族・公家・大名を集め金六〇〇〇枚、銀二万五〇〇〇枚を分配したのである。ほぼ天下が治まり、凰恩賞として与える土地がなくなったため、金銀をばらまいたといういい方もできるが、秀吉のもとに天下の金銀が集中しつつあった状況をうかがうことができる。ちなみに、さきの金一枚二五〇万円、銀一枚五〇万円という数字で計算すると、秀吉は実に二七五億円もの金をばらまいたことになるのである。
武田勝頼
前述したように、天正十年(1582)、甲斐の武田勝頼が滅亡する直前、穴山梅雪が黄金二〇〇〇枚をもって信長に降参していったが、仮に一枚が同じ十両大判とすると穴山梅雪は五〇億もの巨額な金を積んで信長への帰属が許されたということになる。戦国武将の金銭感覚の上一端をうかがえて興味深い。
武田といえばもう一つおもしろい話がある。天正六年(1578)、上杉謙信が死んだあとを二人の養子すなわち景勝と景虎の土人が争ったときのことである。
上杉景勝は長尾政景の子で、兼信の甥にあたり、一方の景虎は北条氏康の子で、初各を氏秀となのって、はじめ武田信玄の養子となり、武田氏と北条氏が不和になって小田原に帰され、さらに謙信の養子となってきていたものである。
謙信の死は突然のことだったため、後継ぎを誰にするか定めていなかった。そのため、死後すぐに二人の間で後継ぎ争いがおこったのである。景勝がすかさず春日山城を占拠し、景虎の方はいわば追いたてられる形で近くの御館というところに入った。これが「御館の乱」とよばれるものである。
この御館の乱にあたり、景虎の実家である北条氏は、時に景虎の兄氏政の代にあたっており、景虎が上杉の当主になれば好都合であると考え、早速授軍を送り、さらに、甲斐の武田勝頼にも援軍の派遣を求めた。というのは氏政の妹、つまり景虎にとっても姉にあたる女性が武田勝頼のもとに嫁いでいたからである。そのあたりのやりとりが『北条記』巻四にみえる。すなわち、
さてこそ三郎方(景虎)の上州衆も悉く敗軍して中々景勝をせめんと云儀なし。此事小田原人飛脚を以被レ申間、則北条治部大輔・太田大膳・遠山丹波・富永四郎左衛門・毛呂・勝呂其他軍兵二万余騎にて、越後へ加勢のため発向すべき由被二仰付一。甲州の勝頼へも御馬を被レ出、不日に慮勝退治可レ有との儀也。
勝頼承て、巳に人数を出し越後追伐あるべきとの儀にて出馬ある処に、景勝使を以て侘び事被レ申は、今度三郎退治、仕候はゞ、上野一国む進上仕、御縁者に被二仰付一候はゞ一方の御先を可レ仕間、ひらさら此方へ御加勢可レ被レ下との儀也。其上謙信多年掘らせ置きたる金(こがね)ども悉く進上申、勝頼の両出頭人、日比賄賂に耽る由聞及び、長坂長閑斎・跡部大炒助に数千両の金をとらせ、色々侘び申せば、両出頭人此金に目がくれ、上野一国御手に可レ入事、何より以第一也。三郎殿御縁者なれども、別に御得分なし。信玄の御世にも、氏真は甥なれども、駿河を御手に入れんとて、敵にてあらずに、信玄公は退治ありし。是は又御縁者まで也。御一門にはなし。其上景勝御先手に加り候はん事、先以目出度事也。唯景勝方へ御合力可レ然と皆々勧め申侯間、勝頼、景勝と和談し、頓て加勢ありて、三郎を責め玉ふ。
とある。
景勝は、もし武田勝頼の軍勢が景虎を応援するようになれば厄介なことになると考え、謙信以来貯えられていた黄金によって、勝頼を調略し阜ようとはかったのである。すなわち勝頼の重臣である長坂長閑斎と跡部大炊助に数千両を贈り、しかも、勝頼には「上野一国をさしあげる」という約束で味方にするよう働きかけたのである。結果をみると、勝頼は景勝側に属した。
ついに天正七年(1579)三月二十四日、鮫尾(さめがお 現在、新井市籠町)で自刃してしまったのである。『北条記』が憤懣やるかたない、といった筆致で「勝頼今度大欲に耽り義理をちがへ三郎を殺し玉ふ」と批難しているのもわかるような気がする。
とにかく、この武田勝頼ほどではないにしても、戦国武将はかなりドライな金銭感覚をもっていたことは確かなようである。とはいえ、やはり金のために動いた長坂長閑斎と跡部大炊助に対しては批難の声があがったことは、
金故に松木に恥を大炊どの 尻を居上ても跡部なるかな
無常やな国を寂滅することは 越後の金の修行なりけり
といった狂歌が残されていることによってもうかがう事ができる。「松木」は上杉の重臣をさしている。戦国も末期になると、金がものをいう世の中になりつつあったのである。