寺町三智百庵の辨(百庵は山口素堂の甥と云う)
江戸随筆「當代江都百化物」
公儀御坊主衆ニ寺町三智ハ、百庵卜申シテ、世ノ中ニ知ラレタル者ナリ。大キナル道楽者ニテ、悪所々々ニテハ別シテ名高ク、先年ヨリ已レガ住居ヲ替ル事、一年ノ内二五度六度宛ニテ、誠ニ爰ニ有カトスレバ彼コへ移り、治迄ハ此所ノ花ヲメデシミ、夏ハ彼所ノ河原ヲ望、秋ハ落葉ノ散積ル山ノ手へ行カトスレバ、冬ハ雪深キ本所へ引地ナドシ、ケシカラザル人故ニ、山姥ノ山越リスルニ均シク、他聞ニテ化物坊主卜名ニ立ケリ。
近年俳諧ノ宗匠ノ如ク、御城下ノ有徳人卜附合ヒ、タヒコ同前ニ世渡リシテ、瓦師柳橋ガ申近江屋へ通フ折柄モ太鼓トナリ、中近江屋へ行キ、先都路ヲ出セシ節モ百庵世話ヲシ、江市ガ松葉屋ノ瀬川ヲ根引ノ折モロ入トナリ。マタ是ハ女郎ヨリ謝礼ノ金ヲ取リ、己レガ賄トスル。
中近江屋ノ都路瓦屋平八方へ引取り、去ル宝暦七年(1757)十二月病死シテ、其形見ヲモラヒテイミジキト思フ。坊主公儀ヨリ御切米御扶持方頂戴スル人ニハ、大キナル化物ナリト云フベシ。
此正月浜町ノ百奄ガ宅ノ前ヲ通リヌケルニ、禮帳ヲ出シ置ケルガ、其帳ニ付置シ筆ハ、廣澤流ノ藁結ノ大筆ナリケリ。ケ様(かよう)ニ致シテ人ニコマラセントスル癖者ナリ。正月喰積臺ヲモスサマジク拵へテ、美シキ腰元両人能小袖ヲ着カザラセ、荷ヲ持ニシテ出ケルトナリ。誠ニヲカシキ者ナリ。大御所様御代ニ願ヲ発シ、何レ卒、正月十一日御連歌ノ列ニ入テ相勤メタシト申上ケル故、却テ御督ヲ咎メタリ。其上公辺甚ダ不首尾ニシテ、御太鼓坊主ニ仰付ラレタリ。去共イマダ世界ヲ化アルキケルトナリ。