甲府市の中世
『山梨県の地名』「日本歴史地名大系 19」1995刊 平凡社 一部加筆
甲斐源氏
治承四年(1180)八月の源頼朝挙兵にやや遅れて軍事行動を起こした甲斐源氏のなかで、一大勢力を誇ったのが武田義信(信義)の子一条忠頼・板垣兼信・武田有義・石和信光であった。このうち一条・板垣と有義系武田の各氏はともに市域の一条・板垣南郷および市西北部を本拠とした。一条忠頼らは富士川の合戦や木曾義仲の討伐などで大活躍をするが、勢力増大を懸念した頼朝によりことごとく排斥あるいは殺害された(「吾妻野元暦元年六月一六日条など)。一条氏の衰退により市南部の稲積庄一帯に勢力を伸ばしたのは頼朝の厚い信任を得ていた加賀美遠光・小笠原長清父子であった。遠光は建暦元年(1211)に菩提寺の遠光寺を小曲に創建したと伝えられ、小瀬の玉伝寺跡は長清の館跡といわれる。承久の乱後には、長清は首謀者の一人源有雅を稲積庄小海村に連行し、処刑している(同書承久三年七月二九日条)。
一条郷
こうした情勢のなか、甲斐源氏の総領を継ぎ武田氏を名乗ったのは石和信光である。信光以降武田氏は四系統に分脈するが、信光の子信長により一条氏が再興され、一条郷に拠って一条流武田氏となった。信長の孫時信について「尊卑分脈」は「甲斐国守護」の注記を付けるが、確証を欠く。一条郷については「一遍上人絵詞伝」に一条の地名がみえ、時宗二世他阿真数の甲斐入峡の間に、時信と目される一条某や板垣入道との会見が記述されることから、甲府を本拠とする武田一族がいち早く有力信徒になっていたものと解される。時信の弟某は入信して朔日と名乗り、兄時信を開基として一条忠頼館跡に建てられていた一条小山の尼寺を改め、時宗一蓮寺を創建した。板垣氏の動向については建久元年(1190)の始祖兼信の隠岐配流以降判然としないが(「吾妻鏡」同年八月一三日条など)、文永九年(1272)頃甲斐に流罪となった臨済宗の高僧蘭渓道隆を板垣郷に迎え、東光寺の開創に助力したものと思われる。
一五世紀前後
一五世紀前後から盆地低湿地の開発が本格化したようで、「一蓮寺過去帳」には、市中南部にあった小河原・大津・巨勢村・今井・堀内・上条・下条・西条二局白田・小曲・後屋・中村・徳行・円満寺・鎌田・高室・飛竹の地名や民族名が登場する。
武田氏の動向 武田館
応永二三年(1416)からの上杉禅秀の乱に荷担した武田信満が自害し(鎌倉大草紙)、跡を継いだ信重・信守・信昌・信縄の時代には守護代跡部氏の専権や一族の反乱などにより武田氏の守護体制が揺らぐが、信昌の代には市東部の川田に館を構えている。川田館を武田信虎の造営とする見方もあるが、発掘調査の結果は信昌建設説を裏付けている。信呂・信縄・信虎の三代が居住したと考えられるこの館は、周囲に小規模な家臣屋敷群を配し、笛吹川を挟んで位置した石和の市部宿重石和町)と複合城下集落を形成していたものと思われる。
武田信虎、信玄、勝頼~織田~徳川へ
打続く内乱を制圧し、甲斐国の統一と守護権の確立を成し遂げたのは信虎
で、永正一六年(1519)には新たに築いた躑躅が崎館に本拠を移し、有力国人層の城下集住を断行した。これにより開創されたのが戦国期甲府城下町で、以後信玄・勝頼の三代、六〇有余年にわたって武田氏領国の政治・経済・文化の中心として機能した。天正九年(1581)一二月、武田勝頼は新府城(現韮崎市)を築いて移転、その際館の破却は徹底されたものの、城下町の移設はほとんど実行きれなかったようで、翌一〇年三月の武田氏滅亡後は甲斐府中としての機能を急速に回復した。織田信長の下で河内を除く甲斐国を与えられた河尻秀隆が躑躅が崎館に入るが、同年六月本能寺の変後、秀隆は一揆に殺害された。甲斐経略を目指す徳川家康は七月九日甲府に入り、一蓮寺をはじめとする寺社などに禁制を発給した。
同年一一月まで徳川氏と小田原北条氏は甲斐領有をめぐって対立するが、徳川方の本陣は一条屋敷に置かれたという
(「大三川志」「三河記」など)。
この間から両者和睦後の年末にかけて御岳衆ら武田氏旧臣から徳川氏に起請文が提出され、また徳川氏から武田氏旧臣および寺社に対し本領安堵と知行宛行が行われた。同一七年から一八年にかけての五カ国総検地では、甲斐国は伊奈熊蔵忠次の下で検地(熊蔵準が実施された。この時の検地帳は残っていないが、同年一〇月から一一月にかけて寺社領や知行地が確定、一蓮寺・大泉寺などに寺社領安堵状、また武田氏旧臣には知行書立が発給されている。