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峡北の文学散歩 宇野浩二 「甲斐駒ヶ岳は恰も団十郎のやう」

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峡北の文学散歩 宇野浩二 「恰も団十郎のやう」


甲斐駒の絶景を賞賛 


 七里岩台地上を信濃の国へと疾走する中央本線の車窓からの絶家に驚嘆いた作家は少なくない。そのほとんどが山がらみで、富士山、八ヶ岳、甲斐駒が被与体であった。
 中でも、穴山・日野春駅の辺りから、その威容を顕わにする甲斐駒に目を奪われた者は多い。

 これまで「プリ-ズ」でも、旅の途中で文人たちの語る「峡北の風景」を数多く紹介してきた。22号では太宰治の『八十八夜』を唄い上げ.甲斐駒への賛美を描いた。今回は、文人たちのこういった甲斐駒への賛辞のルーツとでもいうべき品を紹介することにしよう。

 私の目の前に、その山を先頭にして、夕日を背にして黒黒と、奥へ奥へと南につづいてゐる山山は日本一の白峰山脈に違ひないのである.だが、その時私の目は、時時他の方に目移りしながらも、絶えずその全山を私たちの目の前に露出してゐる、驚くべき駒ケ岳にかへつて来るのであった。駒ヶ岳は恰も舞台に出てゐる団十郎のやうに見えた。外の諸諸の山は悉く彼の影に消されて、ひとり彼だけが、駒ケ岳だけが観客の目を引付けるのであらうか。〔原文ママ〕

 これは、宇野浩二の「山恋ひ」からの引用である。現在、単行本化されていないこの小説は、宇野浩二全集に拠るしかない。

 時代は大正期、東京に住むうだつのあがらない男が、長野県上諏紡の女に足しげく通いつづける内容である。

 前掲の引用個所は、主人公が飯田町停車場から中央線に乗り、上諏訪を目指している途巾に吐いた言葉である.「恰も舞台に出てゐる団十郎のやうに見えた」というくだりは、あまりにも有名である。現在、特急スーパーあずさに乗っていても、車窓に形を変えず留めている甲斐駒の雄姿を望むことができる。それが、団十郎のように映るかは、個人個人の話である。

 さて、宇野浩二は、今でこそややマイナーな感のある作家であるが、多くの著名な作家たちの師匠格的存在であり、最盛期には多くの仲同を持っていた。芥川龍之介や水上勉などのように直接的なつながりもあれば、明らかにこの「山恋ひ」を読んで感化された作家もいる。太幸治は、その典型であろう。さらにに、前回取り上げた松本清張も、彼の国の図上旅行癖からして影響されていたに違いない。

 明治の公判になって開通した中央線であるが.そこから見える峡北地方の自然のままの風景が.文人たちに快い刺激を与えていたらしい。

 東京から武蔵野の平地をぬけ、幾多のトンネルを経て甲府の地へ.そして、急勾配の台地を信濃の川に向かってひた走る蒸気機関車の旅は、今では想像もつかないくらいの旅であったであろう。煤煙がたちこめる車内は.快適さこそ現代のハイテク電車より劣るとはいえ、ゆったりとした時の流れが、車窓の風景に見とれる余裕を人々に与えていたに違いない。


夢と詩があって人生であり、詩と夢があって文学である


 宇野浩二の残したこの言葉に接すると、現代が夢や詩が最も遠ざかった時代である感がする。それは、人の心のテンポがとてつもなくスピード化されているからかもしれない。甲斐駒の雄姿は、ゆったりとした心にこそ映るのであろう。



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