山口素堂 峡中俳家列伝 1
松本守拙口授 佐藤二葉筆記 一部加筆
前書き
高山峻岳巍然として四辺に聳へ、蜿蜒たる長流巨蛇の這へるが如くに縦横に奔り、山は高くして険しく、川は深くして激しく、良に海内無二の天険である我が映中の自然の大景は、山武水明にして秀麗絶佳なるが故に、その絶佳なる秀麗の気が鍾まって偉人傑士を出だし、曾て四百年の昔稀代の英傑機山公(武田信玄)武を用いて四隣を侵掠し、武範を幾昆に傳へてからは峡中は惟只用武の地としてのみ推称されたのであるが、焉ぞ知らん、偉人傑士は単に武人に而止限局せられたもので無く、宜に俳家として山口素堂を出し、其の予徳に混醸せられて以て今日の如く平民文學の隆昌を来たして居る。
惟ふに文明の潮流は多く海流に従ふものであって、山岳四境を鎖ざし、峡雲深く天地を塞ぎ桟道嶮にして攀づるに嘆き武陵桃源の地は、実に社会の進運に晩るゝ事遠くして、旭日上って既に三竿なるに、春眠猶暁を覚えざるが如き趣きがあるが、山川大澤の在る處偉人を産し、其の偉人が社会の風潮に悼さして、天察の英才を享化するに活世界の新空気を以てする時は、超絶非凡なる傑士が現はれるの当然であらふと思はれる。
素堂の事
我が素堂翁が日本俳諧史の幾頁かに特筆大書せられて、俳壇廓清の功勲を千載の後にまで輝がし、名匠と謳歌せられ、巨人と讃美せられ、古往今来、悠然として日本の俳壇を闊歩して居るのも蓋し偶然ではあるまい。
素堂とは如何なる人か、「俳諧奇人傳」は語で曰く、
弱冠より季吟の門に遊で儒道の達者と呼ばれる、庵の名を今日といひ、又来雪とも素堂ともいへるもの別號なり。後に或主家を辞してより深川の別荘に蓮池を堀り、交友を集て晋の恵逍か蓮社に儗せしより、俳家に専ら社中と称せられるは是等に依てなり。
(中略)亭保二年八月七十五歳にして歿せり、成人某翁に俳諧の事いかんと問ふに、唯死せりと答へられしとなり云々。
而して彼が蕉翁、と共に俳道を談じ、且つ共に新調を案出して俗悪なる俳風を斥け、遂に幽玄閑寂を以て俳諧の詩想と為す可く定めにる蕉風開基の扶を為し、後、欽乃脈長閑なる葛飾の里に庵を結びで其口座一世と錫り、所謂葛飾風の一派を創立したる俳壇の偉績は普く衆人の熟知せる處であるから、浸に是を説かんとする徒に蛇足を添ふろの恐れあるを以て、只僅に玉什の幾分かを摘録して以て彼が詩趣の面影を傳へやふか。
滋賀の花湖の水それなから
浮葉巻葉此蓮風情過たらん
酒折の新治の菊と歌はばや
甲斐か根
ほそ落の柿の音聞く深山哉
茶の花や利休が目には吉野山