江戸の芭蕉句碑集『茗荷』
写真・文学碑めぐり 江戸文学・東京篇
本田桂川氏著 昭和42年刊 一部加筆
江戸における芭蕉碑跡の文献として特筆すべきものに、文政五年(一八二二年)九月刊行された『茗荷』と題する上下二冊の刊本がある。不二叟芋橋の編で、雲水軒茶静校となっている。
この珍本が、東京では東大図書館に一部、奈良県天理前の天理図書館に一部所蔵されている。私は先年関西旅行の途次、わざわざ天理図書館に行って、特に閲覧を許された。後になって都下福生町の松原庵にもあることを知った。
この書は当時の江戸市内に存在した芭蕉の句碑や遺跡について記録したもので、上巻の標題には書名が『茗荷』とあるが、宇橋の序文には「茗荷集」と記されている。だが、その下巻には仮名で「めうか」と題されてあるところを以て見ると、この書名は、『茗荷』とすべきものであろう。
この書については、『俳諧大辞典』に一項目を立て、十五行の記載がある。それによると、「江戸市中にある芭蕉の追跡・句碑等を探って、一々その来由を記し、かつそれに因んだ諸家の句を添えて上下二冊とし、同好の士に頒って芭芦巡りの便りにしようとしたもの」云々とある。
ただし、この『茗荷』には、いわゆる塚名と所在地か書きとめてあるだけで、碑面の句か記されていない。一応それらの塚名と所在地名を回書によって列記し、現在の変遷を知るための参考に供しよう。その数三十七基、即ち次の通りてある。<赤褐色印現存。>
- 五月雨塚 関口腹隠庵ニアリはせを庵を尋ぬべし。宝延(?寛延)三年(1750)八月馬光門人露汁建
- 古池塚 深川元番所松平遠洲侯邸中ニアリ
- 墨直塚 深川底辺大工町臨川寺
- 時雨塚 深川森下町長慶寺 其角・嵐雪両哲の碑あり
- 悌 塚 深川六間堀要津寺 暦十三年(1763)十月十二日
- 蛙 塚 深川芭蕉庵池辺 安永二年(1773)十二日 普成燈
- 渡鳥塚 砂村新田元八幡 文久二年(1862)何秋建
- 女木塚 小木(おなぎ)葱沢勝智院
- 同会塚 本所猿江泉養寺 延享元年(1744)千梅梅尺建
- 助老碑 本所秋葉山池洲 天明四年(1784)素丸門人菊露不二谺建
- 冥加塚 本所亀戸天満宮池の上 享和二年(1802)完来社中建
- 荻 塚 本所龍眼寺 明和五年(1768)素丸子兎平物白芹建
- 夢 塚 本所押上大雲寺 寛保三年(1743)十月五十回忌 松村桃鏡等建
- 蒟蒻塚 隅田川白髭社の辺にあり 文化十一年(1814)全会社美知孝門人平両建
- 雪見塚 長命寺 宝暦三年(1753)十月 祇徳門人祇粛桃鏡建
- 涅槃塚 木母寺
- 冬菜塚 浅草新掘浄念寺 寛政七年(1795)十月十二日 句樹庵五陵門人安彦建
- 石摺塚 浅草観音後林にあり
- 花実塚 同所 文化六年(1809)三月 宗因、其角の句をほりたり
- 翁 塚 上野不忍池側 文化中 白寿坊個我建 獅子門の一老人
㉑ 行春塚 千住小塚原天王の森
㉒ 花見塚 本郷元町昌清寺にあり 寛政八年(1796)如月十二日 安彦建
㉓ 塚 (はぎつか)巣鴨真性寺寛政中 杉風三世採荼庵梅人建
㉔ 雪 塚 関口台町蓮華寺 寛政五年(1793)十月十二日 現住上人白眼白雪才建
㉕ 茗荷塚 小日向君荷谷明昭寺にあり 字体古雅にして石形もまた質素也
㉖ 涼月塚 雑司谷鬼子母神出現所 文化中 果山宗周建
㉗ 名月塚 雑司谷本浄寺 明和九年(1772)秋 白兎園宗瑞三代報恩のため
㉘ 梅香塚 雄司谷御嶽宝城寺にあり 安永八年(1779)十月十二日 一窓下梅孝門人等建
㉙ 富士見塚 高田新田不二見坂
㉚ 翁 塚 鎧渡辺李屁園中にあり墳翁記に見えたり
㉛ 椎 塚 千駄谷仙石院にあり 寛政十二年(1800)白兎園門人宗宇よろつや五兵衛建
㉜ 富士塚 渋谷宮益町御嶽山中 文化八年(1811)五月 栗菴宇橋封中建
㉝ 桜 塚 渋谷金王社前 文化中大白守門人山奴社中建
㉞ 一葉塚 青山原宿庭蔵寺 文化化十四年(1817)五月淇図建
㉟ 梅月塚 青山龍眼寺 寛政九年(1797)堂冬映句樹庵五陵建
㊱ 蓬莱塚 四谷三光院 安氷七年(1778)仲秋一庵眉月社中
㊲ 遅日塚 幡ケ谷荘厳寺不堂前 文化六年(1809)無説建
以上三十七基中、現存のもの十九基か散えられる。都内現存のものと対照しつつ、それぞれ地域的にその現状と由来とを記述案内しよう。なおここで付記しておきたいことかある。それは「芭蕉塚」と「芭蕉句碑」とこの両者をはっきり区別すべきことである。「芭蕉塚」というのは、原則として、芭蕉歿後五十年回忌のころまでの間に、門人その他直接芭蕉
に親しくし、崇敬した人たちの手で、何か形見の品を碑下に埋め営んだ追悼の塚であって、それには概ね句が刻まれていない。「芭蕉句碑」となると、そうした陰墓のようなものからはなれて、句を刻むことを主眼とした文学碑形式に変化したものである。建設年月からいっても「芭蕉塚」以後となる。両者は建碑の目的からもその性格からも異なったものであるのである。詳しくは本書第四集『江戸文学碑めくり』中「芭蕉塚年代調べ」の項を参照せられたい。