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白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)

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白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)(『白州町誌』)
馬場氏の系譜
「寛政重修諸家譜」に清和源氏義光流武田支流とあり、「姓氏家系大辞典」(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。前書によれば、次郎兵衛信周がとき罪ありて家たゆ、庶流吉之助通喬(馬場氏の庶流で信州下ノ郷生島足島神社武田将士起請文六河衆の列に見ゆ)が呈譜に、桑祖下野守仲政(按ずるに仲政は源三位煩政が父にて頼光の流なり)はじめて馬場と号す。其の裔甲斐教来石にうつり在し地名をもって家号とし代々武田家につかえ、駿河守信明のとき、武田信重の婿となり馬場にあらたむ。その男遠江守信保、英男美濃守信房にいたり武田の一族につらなり花菱の紋をうくという。
同書の説明によると、遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原根小屋の城に住すとあり、
美濃守信房については
通喬が呈譜に信保が長男を美濃守信房
はじめ民部氏勝とし
武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴任し
はじめ信濃国高遠、後に同国槙嶋の城に任す、三百騎の士をあづかり士大将に列し
武田一族につらなり花菱の紋をうく
天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。
法名乾忠、甲斐国東林寺に葬る。
と記している。
・信保の二男(信房の弟)善兵衛、はじめ隼人信頼とし、兄信房が家摘となり、
・後故ありて甲斐国を退去し和泉国淡輪に蟄居す。
・その男を信久なりという、根小屋城に任す、慶長十五年十月死、年八十、法名浄心。
 
信保 遠江守
―信房(美濃守信春)―昌房(信春)(「武田三代記」に)見ゆる馬場民部少輔か)
―信頼(善五兵衛)―信久―信成(武川衆十二騎に見ゆ馬場民部)
 
馬場美濃守の系譜〔馬場信成(民部右衛門尉)〕「寛政重修諸家譜」
武田勝頼に仕え根小屋(現在の台ケ原)に任す。
天正十年勝板没落ののち東照宮甲斐国にいらせたまふ時、武川の諸士とともに御磨下に
属し、
北条氏直若神子に出張するとき相謀りて小沼の小屋を攻おとし、
のち新府に渡御ありて北条氏と御対陣のときしばしば軍功を励みしにより、
諸士とおなじく本領の地をたまひ、
天正十二年小牧陣のときも亦ともに信濃国勝馬の砦をまもり、
のちまた尾張国一宮城を守衛す、
天正十三年九月真田昌幸が居城を攻めらるるときは、大久保七郎右衛門忠世が手に属し、
また人質として妻子を駿河国興国寺に献ぜしかば、諸士一紙の御書をたまはり、
天正十八年正月二十七日釆地をくはへられ、この年小田原陣に供奉し、
八月関東御入国のとき甲斐国の釆地を武蔵国鉢形のうちにうつされ、番をゆるされて釆地に任す。
 天正十九年九戸一揆のときも忠世に属し岩手沢にいたる。
慶長五年台徳院殿(秀忠)に附属せられ、
大久保相模守忠隣が手にありて信濃国上田城を攻め、
慶長九年三月二日武蔵国のうちに新恩の地百石を賜い、
慶長十五年十月死す。年八十、法名浄繁。
 
馬場美濃守の系譜〔信成の子、馬場信正 「寛政重修家譜」〕
信正は次郎兵衛 (また八郎左衛門)といい
家忠・家光に仕え下総国宮川村に百六十俵の釆地を賜う。
信正-信政(廷宝~元禄)―信通(元禄~享保)―信周(享保~宝暦)-信方(宝暦)
 
馬場美濃守の系譜〔馬場美濃守信房「姓代家系大辞典」〕
 清和源氏の後裔甲甲斐国教釆石に移りて教来石(敬禅寺)氏を称す、
駿河守信明に至り武田信重の婿となり馬場に改む。
その男遠江守信保、其の男美濃守信房なり。
信房は初名景政また氏勝、民部少輔と称す。
その族馬場虎貞武田信虎を諌めて殺される。
信玄に至りその後無きを燐み氏勝に追跡を襲がしめ、
信の字を賜いて芙濃守信房と名乗らしめ、又信春と云ひ、後に信勝という。
 信濃国更級郡牧野島城は一に牧島城とも云う、
牧野島邑(牧郷村)にあり、永禄五年八月廿八日、信玄、馬場民部景故に築かしめ百五 
十騎にて守らしむ。
又三河国設楽郡市場村古宮城は馬場氏の縄張、
又遠江国榛原郡諏訪原城は天正元年秋築く馬場美濃守の縄張也と、その他多し。
天正三年五月二十一日長篠役に戦死す。
馬場美濃守の系譜〔信房の子 馬場美濃守信春 昌房「姓代家系大辞典」〕
その子民部信春は一に昌房と称す、
天正の初めより深志城(松本城)を守り、
天正十年三月織田の兵に攻められ甲斐に帰りて死せし如し。
一族江戸幕臣となり、寛改系譜此の流五家を収む。家紋割菱。
馬場美濃守の系譜〔信房の二男、善五兵衛信頼(隼人)「姓代家系大辞典」〕
 二男善五兵衛信頼(隼人)信房の嗣となり、甲斐を去り和泉国淡輪に任す。
その子が駿河信久也、又巨摩、山梨、八代の諸郡に任し、甲府朝気村の馬場氏は美濃守後
裔と称す。
 
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」士庶の部〕
馬場美濃守ノ孫、同民部ノ末男丑之介、壬午ノ乱(天正10年)ヲ避ケ
其ノ母卜倶ニ北山筋平瀬村(大寧寺)ニ匿ル、
後朝気村ニ移居シテ与三兵衛卜更ム、
其ノ男四郎右衛門、
其ノ男善兵衛元禄中ノ人、今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ
馬場美濃守の系譜〔馬場半左衛門「甲斐国志」〕
馬場半左衛門ナル者アリ、後ニ幕府ニ仕へ尾州義直卿ニ附属セラル、
彼ガ先祖へ木骨義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村又讃岐守卜称ス、
家村ノ三男ヲ常陸介家景卜云フ、始メ馬場ヲ以テ氏卜為ス、
数世ニシテ半左衛門ニ至ルト云フ、
本州ノ馬場氏モ蓋シ是卜同祖ナランヤ、其ノ系中絶シテ未ダ詳ナラズ」
 
馬場美濃守の系譜〔馬場氏 清和源氏木曾系図〕
 兵庫頭家教-讃岐守家村(太郎)―常陸介家景(六郎、馬場の元祖)―越中守家佐(木曾ヲ馬場ニ改ム)。
 
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場美濃守信春〕
「武田三代記」ニ云フ、馬場伊豆守虎貞ナル者直諌シテ信虎ノ戮スル所卜為ル、
嗣ナク武田晴信教来石民部景政ヲ立テ馬場氏之跡ヲ紹シム云々、
虎貞ノ事未ダ明拠ヲ知ラズ、
教来石ハ武河筋ノ村名ナリ、
彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレバ時ノ人之ヲ称シテ氏族卜為ス
 
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場民部少輔〕
美濃守ノ男ナリ‥・天正壬午ノ時信州深志ノ城ヲ衛ル、
三国志ニ「信春」ニ作ル、
一書ニ「氏員」又「信頼」ニモ作ル、
或ハ云、「信頼」ハ「信房」ノ甥ナリ戦死ノ後家督セリト、
皆明カニ証スルモノ無シ
 
馬場美濃守の系譜『甲斐国志』「士庶の部」教来石氏の項
「甲陽軍鑑」ニ教来石民部ヲ馬場氏ノ名跡トスル由見ユタリ、
其ノ余教釆石氏ノ事所見ナシ、
民部氏ヲ改ム時一族皆馬場ニ変姓ナシケルナランカ、
或ハ云フ馬場ハ本氏ナリ、教来石ニ住スルヲ以テ軍鑑ニ是ノ如ク記スルノミ、
教来石氏ニアラズト、最モ然モアリシニヤ」と記し、
「下ノ郷起請文ニ六河衆馬場小太郎信盈ノ花押アリ、
「甲陽軍鑑伝解」ニ膳ノ城ノ条下ニ馬場右衛門卜記ス、
「編年集成」慶長六年ノ記ニモ右衛門尉百石トアリ、
城番ノ記ニハ馬場民部四百石ノ高ナリ、郷村帳二百六十一石九斗八升、台ケ原村、百三十八石五斗五升柳沢村ノ内卜見エタリ
民部ハ即チ右衛門尉ノ男カ(馬場美濃守ノ男馬場民部少輔トハ別人ナリ)」
 
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」庶流 三郎兵衛信盈の呈譜〕
 武田信光の五男一条六郎信長、
その二男頼長はじめて馬場を称す。
其の男小四郎長広、
其の二男権三郎はじめ民部、広政敬礼師を称す。
其の男権大郎はじめ民部、政次
其の男権太郎はじめ民部、政久
其の男権太郎はじめ民部、政長、
其の男権大輔はじめ民部、政房、
其の男権太輔はじめ民部、
其の男権大輔はじめ玄審、民部、房政、
其の男信房、これよりまた馬場を称するという。
 いま按ずるに家系詳しきごとしといへども、尊卑分脈を考えるに頼長一条を称すれども馬場を称する事所見なく、かつ寛永第一の馬場系図に支流吉之助通喬がささぐるところの譜に信房が祖をいふものと異にして、いまだいづれが是なることを詳にせず。
〔信盈が呈譜〕
美濃守信房、氏勝はじめ玄蕃、民部棒大輔政光、後美濃守信房につくる。
武田信玄・勝頼につかえ、天正三年五月二十一日長篠合戦で討死。
その子信忠、玄蕃、民部少輔、信濃国深師(深志)にて討死、法名慈源。
信忠の女は、青木与兵衛信安の妻、
次女は米倉佐大夫其の妻、
三女は曲淵仁左衛門の妻

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