白州町の歴史・史跡 武川衆の動向「甲斐国志」(『白州町誌』)一部加筆
武田石和五郎信光ノ末男六郎信長卜云フ者忠頼ノ家迹ヲ継ギテ一条氏卜号ス、
其子八郎信継「東鑑」ニモ見ユタリ、
信継ノ男時信、一条源八卜称ス、甲斐ノ守護職ニ任ゼラル。
男子十数輩ナリ、武河筋ノ村里ニ分封シテ各々其ノ地名ヲ氏号トス、
子孫繁栄シテ世ニ武川衆卜号セリ(中略)。
「(甲陽)軍鑑」ニ天文十一年桑原ノ城普請アリ、
板垣信形ニ武川衆ヲ添へ御預ケナサルト云。
後ニ典厩信繁ニ付ケラル、
「甲陽軍鑑伝解」ニ武河衆卜云フハ先ヅ十二騎ナリ、
曾雌、米蔵、折井、小尾、跡部、知見寺、権田、入戸野、曲淵此等合テ二十六騎アリ(中略)。
壬午七年(天正十年)神祖御入国の時折井市左衛門、米倉主計助首領トシテ御判物、御感状ヲ賜ハリ武川の士各々本領安堵セシ趣諸録ニ記セリ、
「編年集成」ニ武川の士六十余人拝謁ストアレバ必ズ二十六騎ニハ限ルベカラズ、
世ニ武川十二騎卜云フ、ソレモ数年ノ問ニ往々他姓ノ人入り交リタレド、始メ武川衆過半其列ニアリシ故ニ斯ク称セント見ユ」とある。
白州町の歴史・史跡 武川衆の動向 一条源時信が武川衆の祖
一条忠頼が頼朝に謀殺されたあと、甥の武田六郎信長が一条氏の名跡をついで一条氏を再興する。信長は弓馬の道にたけ、質実勇武な典型的武人であったのみでなく、神仏に信仰厚く晩年大般若経六〇〇巻を書写して、氏神武田八幡宮に奉納した (現在加賀実の法善寺所蔵の国指定重要文化財)。
その子信経、その子一条源時信が武川衆の祖といわれている。時信は父祖信長に勝る人物で甲斐守護職に補せられ、よく宗家武田家を補佐した。時信には系譜で示すようにすぐれた男子が多かった。
なお「南葵文庫本武田系図」によると、一条忠頼五代の末裔一条時信は南北朝ころ、子息たちを白須、鳥原、牧原、青木などの諸村に分封し、これが武川衆となるとある。横手氏は青木に分封された一条時光の分家といわれる(韮崎市誌)。
時信(一条源八)
-信重(一条与一)
-義行(一条与二)
-信方(山高太郎)
-頼行(弥三郎)
-行貞(又三郎)
-貞信(白須三郎)
-貞連(慶良吉六郎左衛門尉)
-宗景(鳥原七郎)
-貞家(牧原八郎)
-時光(青木十郎)
-信奉(両境九郎)
-源光(青木別当蔵人)
-信源(横板寺別当)
このうち、一連寺過去帳に法名性阿、貞治二年(1363)三月十六日(没)とあるのが慶良吉(毛浦吉)で、後の教来石民部少輔景政(馬場美濃守信房春)の祖である。
前記応永年間の「禅秀の乱」で甲斐守護武田信満自害のあと、信満の子信長は、幼主伊豆千代丸とこれに味方する日一揆を助けて、守護代跡部父子・輪宝一揆と戦ったが敗れた。このとき武川衆は信長に味方し、柳沢、山寺、牧原などの武将が戦死している(一蓮寺過去帳)。
武川衆のうち中心的な存在は青木氏で歴代白山城を守衛している。そして青木尾張守満懸は武田晴信が武田八幡宮本殿造営の折にはその奉行の一人であった。
武川衆 信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞
永禄四年(1561)九月の川中島合戦に武川衆は副将武田左馬助信繁の陣に加わって激烈な戦いをして越軍を防いだ。
永禄十年(1567)八月、武田氏に属する甲・信・西上野の将兵が、信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞を提出した。その中に武川衆の連署したものが一通ある。
敬白 起請文
一 此れ己前に捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざる事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざる事
一 長尾輝虎を始めとなし、敵方より如何様の所得を以て申す旨候とも、同意致すべからざる事
一 甲・信・西上野三ケ国の諸卒、逆心を企つと錐も、それがしにおいては無二に信玄様の御前を守り奉り、忠節を抽んず
べき事
一 今度別して人数を催し、表裏なく二途に捗らず、戦功を抽んずべきの旨存じ定むべき事
一 家中の者或は甲州御前悪しき儀、或は臆病の異見申候共一切に同心致すべからざる事
右の条々違犯せしめば、上は梵天・帝釈・四天王・炎魔法王・五道の冥官、殊ニハ甲州一・二・三明神、国建・橋立両大明神、御嶽権現・富士浅間大菩薩、当国諏万上下大明神、飯縄・戸隠別しては熊野三所権現・伊豆箱根三嶋大明神・正大幡大菩薩・天満自在天神の御罰を蒙り、今生においては癲病を享け、来世に到っては阿鼻無間に堕在致すべきものなり、仍って起請文、件の如し
丁卯 馬場小太郎信盈 (花押・血判)
八月七日 青木右兵衛尉信秀(花押・血判)
山寺源三昌吉 (花押)
宮脇清三種友 (花押・血判)
横手監物満俊 (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押・血判)
六郎次郎殿(武田左馬助信豊)
〔六郎次郎殿(武田左馬助信豊)〕
六郎次郎は川中島の激戦で討死した信繁の子で、武田左馬助信豊である。信繁の後を嗣いだが当時はまだ官途なく六郎次
馬場小太郎信盈は美濃守信春の一族である。馬場信春は武田の重臣で侍大将として単独で起請文を出している。横手監物満俊は青木家から横手村に分封されたもので、寛政系図には監物信国と見えるが同人と思われ、駿河花沢城攻めに討死している。
白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕
天正十年三月武田氏が滅亡し、六月本能寺の変によって織田信長が最後を遂げて天下の形勢は一変する。そして甲州は北条と徳川の争奪の地となる。徳川家康は武田の遺臣を抱えようと、かねてから武川衆にも注目しており、部下の将成瀬正に命じて武川衆の有力者折井市左衛門次昌と米倉主計助忠長を説得していた。それで折井・米倉は武川の諸士を説いて団結を強化し、七月九日、中道より右左口峠を経て甲斐に入国した家康を迎えたのである。
相模の北条氏政は、その子氏直を大将として信州に侵入し、佐久郡より甲州逸見筋に南下し、その兵四万三千と称し意気があがっていた。
八月十日、家康は甲府から新府城に移った。
八月十二日には栗駒の合戦があり、北条軍は鳥居元忠・武川衆らの徳川勢のため大敗した。この合戦の結果北条方の士気は喪失し、北条軍が拠っていた大豆生田砦も陥り、津金衆の奇襲によって江草砦(獅子吼城)も陥って北条軍は退いた。
白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕
武川衆は天正二十年(1592)、家康関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行地を与えられて移った。
慶長八年(1603)家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いて、第九子徳川義直を甲斐二四万石の領主に任じた。
甲斐は親藩領となり、平岩親吉が城代となった。
〔武川衆再び甲斐へ〕
それで慶長九年(1604)二月、武川筋を本領としていた武川衆がふたたび甲斐にもどってくるのである。
そして「武川衆御重思之覚」として、武川の地に所領替と加増の意味を含めて領知された。そのときの武川衆十四人は次のようである。
〔「武川衆御重思之覚」〕
柳沢兵部丞信俊
伊藤三右衛門垂次
曲淵庄左衛門正吉
曾根孫作
骨雌民部丞定政
折井九郎三郎次善
曾雌新蔵定清
有泉忠蔵政信
山高宮内少輔信直
青木与兵衛信安
青木清左衛門信政
馬場右街門丞信光
折居市左衛門次忠
徳川義直の甲斐領主は僅か四年で、尾坂清洲城主として移封となり、城代平岩親吉も義直の後見役として犬山城主となったので、甲府城は城番をおいて守護することになった。
その慶長十二年(1607)四月より元和二年(1616)九月までの十年間を「甲府城番時代」というが、その城番を担当したのが、次の武川十二騎である。
山高孫兵衛親吉
青木与兵衛信安
入戸野又兵衛門光
折井仁左衛門次吉
柳沢三左衛門
小尾彦左衛門重近
馬場民部信成
米倉丹後信継
山寺仁左衛門信光
曲淵筑後吉清
跡部十郎左衛門胤信
知見寺越前盛之
このうち跡部氏と小尾氏は津金衆であるが、一般に武川十二騎と呼び、二人ずつ十日交替で甲府城を守護したのである。