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武川衆 宅址

武川衆 配分目録

武川衆 知行地 含む鉢形

武川衆領地安堵 天正10年


 富士山  嬉遊笑覧(喜多村信節)

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 一、富士山  嬉遊笑覧(喜多村信節)


 ○富士の高さは甲州富士吉田表口に高さ四丈三尺の鳥居あり。これより山頂まで三百五十七町十七間ありといへり。されど山上にまだ高き峰どもめぐり立り。俗に八葉のみねなどいへり。その高さ知べからず。此山むかしより焼ぬけては烟絶たることしばしばなり。『古今集』の序に烟絶しことをいひ『更級日記』にはけふり立のぼり夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。といひ(空暗くなれば烟赤くみゆるなり)『十六夜日記』にはふじのけむりのすえも朝夕たしかに見えしものをいつの年よりか絶えしとゝへばさだかに答ふる人なしと有り。山の焼出たることは『続日本記』に天応元年(781)七月駿河国言富士山下雨灰之所及木葉彫萎『日本後記』延暦十九年三月十四日富士山嶺自焼(ことことを『都良香の記』に山東脚下有小山、土俗言之新山、本平地也。延暦二十一年三月雲霧晦□、十日而成山、盖神造也とあり。宝永の時に山のいできにおなじ)


 ○『三代実録』に貞観六年五月富士山焼『鹽尻』に宝永四年十一月二十二日辰の時より駿州富士足高山のかたすぼしり口おびたゞしく燃上り云々。十二月九日頃に止富士近国灰砂降これを除く人夫銀天下秋米百石の地に金貳両づゝ課役かゝりけるに西国にてよめる「富士の根の私領御料に灰ふりて今に二りやうにかゝる国々。


 ○仁田四郎が富士の穴に入て帰りしは一昼夜に及ばず。


 ○富士山に登りて自ら餓死したる身祿といひし者あり。伊勢国市志下河上の荘の産にて伊藤氏なり。名を伊兵衛といふ。八歳の時大和国宇田郡なる小林氏の者の養子なりしが、十三歳の秋古郷に帰りぬ。其頃江戸本町二丁めに當山清右衛門といふ呉服店あり(清右衛門後に甚左衛門と改)ゆかり有るけるにや江戸に下り其店に僕となりて有しが、十七歳にてそこをも退ぞき下谷邊の武家(小泉氏あり)などにも中間になりて居れりとかや。その後駒込の邊にかすかなる店を借、水道町に山崎屋半兵衛といふ油屋ありしに便りて油をうけ擔ひ賣しけり。もとより富士浅間を信仰し歳毎に富士に登る事四十年怠慢なく六十三歳にて富士山半腹より上(俗に七号夕めと云)の方にて断食して死ぬ。享保十八年六月十三日より初て食を止め三十一日を経て七月十三日の刻にて終れりと、そこのおもひ企てしは其ころ小傳間三丁目に葛籠屋あり。富士講の先達にて名を光清といへり。此者は講中も広く物ごと手廻りければ身祿常に彼に及ばざる事を歎き居たりしが光清衆人を勤め富士山北口に浅間堂を建立せり。(光清の家今にあり)身祿是をみて我力にては生涯に人の目にたつ程のことなしがたしせめて山のうへに餓死して名をとゞめばやとてのしわざと聞ゆ。常に油を賣に貧しさ者に貸したる油代はいつまでも乞はずやうやうかへさんといふ時身祿偽りて其代ははや先にうけとれりとなどといひてかたくとらず。かゞるさまに賣あるきぬれば常に貧しくて彼山崎屋に金六両貳分借りたる事あたはず。山崎屋も是をはたらずして有しが身まからんとする頃これ返し奉らぬこそ遺恨に候へさりながら此報はかならず致し候べしといひしが後に其家のあたりより火出てみな焼しか、どこの家ばかりあやうきをのがれたれりければこはかれがむくひならんといひあへり身祿女ふたりあり。姉をおまんといふは柳沢の家中黒木某に嫁しぬ。妹おはなといふは一行と號し、夫をもたず居たりしが求馬といへる浪人養ひて置り(此浪人はのちに鳩屋の三枝といへる富士講の先達がもとに行て居れりとぞ)身祿貧しければ二人の娘にとらすべき物もなく只糸を針をあたへおのれは身を容るばかりに少く厨子やうなものを作らせ是を背負て富士山にのぼり、水賣十郎左衛門といふものはかねて相知れる故これをかたらひ山の頂にて終らんことをはるかに須山口大宮口等の者どもうけひかさればやむことを得ず。吉田口七合夕めといふに彼厨子めくもの居(すえ)その中に入て食を断日毎に朝戸を開き水を飲で十郎左衛門と物語りして終れり。


 この断食三十一日が間水賣に物語したるを記して一巻あり。そを見しにおこなること餘りにて笑ふにも興さめたり死後は水賣とり収しとなり(水賣が家は今田邊十郎左衛門とて北口の御師なり)











武川衆 山高氏(『武川村誌』一部加筆)

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武川衆 山高氏(『武川村誌』一部加筆)
     一 山高氏の発祥
 鎌倉末期の甲斐守護、一条源八時信は、多くの子弟を巨摩郡旧真衣郷の諸村に分封し、いわゆる武川衆の祖となったことで知られる。
 時信は、次男与二義行の嫡男太郎信方を猶子として家督を伝えた。時信は甲斐守であったから、その猶子で摘男の地位にある信方は甲斐太郎と呼ばれた。南北朝初期の暦応年間には、一条甲斐太郎信方と名のった事実を次の『一連寺寺領目録』(抄記)によって知ることができる。
一、甲斐国一条道場一蓮寺領目録事
     合拾七町七反 屋敷二所
一、同国一条郷蓬沢内 田地壱町七反
     武田惣領源信武寄進
       貞和二年十月十三日(一三四五)
  1. 同郷内石坪并尻女子跡弐町斎藤彦三郎之継活却
     武田次郎信成寄進
       暦応四年八月十七日(興国二年 一三四〇)
一、同郷内一条七郎入道跡壱町大熊女子活却
     一条甲斐太郎信方寄進
       暦応二年二月三日(延元四年 一三三八)
一、同郷内壱町三反
     佐分弥四郎入道観阿寄進
     武田刑部大輔信成重寄進
       歴応二年六月 日(延元四年 一三三八)
一、同郷内朝毛弐町
     一条甲斐守信方寄進
       文和三年七月十七日(正平九年 一三五四)
一、経田九反 
     一条甲斐守信方後家現阿寄進
       貞治二年七月十日(正平十八年 一三六三)
           (中 略)
       貞治三年二月十五日(正平十九年 一三六四)
 
【筆註】 この時代は南朝(大覚寺統)方と北朝(持明院統)方で年号と年数が違う。記載は北朝年号。
 
この『一蓮寺寺領目録』は、貞治三年(一三六四)二月十五日現在のもので、すべて一九筆、うち三筆が一条信方およびその後家の寄進になるものである。最初が暦応二年(一三三九)寄進、次が文和三年(一三五四)、最後が貞治二年(一三六三)のものである。
 この三次の寄進に当たり、施主の名のりはすべて一条であって、山高の名のりはまったく見えない。では信方がこの年代
に山高の名のらなかったのかというと、『一蓮寺過去帳』には延文元年(正平十一年 一三五六)に歿した信方を「正阿弥陀仏 山高一代」と記しているから、信方が山高殿と呼ばれていたことは明らかである。
 また、永徳三年(一三八三)十二月二十一日に世を去った信方の嫡男信武を、同過去帳は「師阿弥陀仏 山高二代」と記している。
一条源八時信が嫡男総領信方ならびに諸子を武川の各地に封ずるにあたり、それぞれの封地名を名のらせ、自他の区別をした。すべて正式には一条氏であるが、互いに区別するために封地、拠点の地名で呼び合っていた。山高村に拠った一条信方は、山高一条殿、略して山高殿と呼ばれることになるのである。一条甲斐太郎信方は、武川の山高村に対地を受けて山高一代と呼ばれることになるが、前記『一蓮寺寺領目録』に見るように、一条郷朝毛(朝気・甲府市)付近に広い所領を有していた。
一条郷は盆地床部の低平な湿地帯を含む地域で、水害もあるが米の生産地帯で、豊かな集落が幾つもあった。
 これに対し、信方が新たに封を受けた武川山高村はどんな所であったか。山高は、読んで字のごとく、高燥な丘陵地である。鳳凰山の東、大武川の段丘上に立地し、東南に傾斜する地形で、氾濫原地域と異なり、水害の脅威が少なく、高燥でありながら水利に恵まれ、要害の地形は外敵を防ぐに足り、しかも大きい生産力を包蔵していた。
 したがって、鎌倉末期のころ、一条時信がその子弟を一条郷外の新天地に封じょうとするとき、最も有力な候補地と目され、一条氏族の総領、甲斐太郎信方を封じたのである。
 信方が、この山高の産神、幸燈宮に接して居館を構えたのが殿屋敷で、山砦を築いた所を栃平(とちだいら)といい、要害のよい場所である。ここを調べた荻生徂徠は轢平(どんぐりだいら)と記したが、当時、栃の木が茂っていたことであろう。轢の実も栃実も、ともにドングリと呼ぶのは、栃栗が転じたのだという。栃栗は食用になるので山砦の付近に植えて繁茂させておけば、籠城の際には兵糧のたしになり、凶作の年には救荒食物として重要なはたらきをする。山高氏が山砦を築いた当初に植えた栃の木が大木となって、栃平の地名をのこしたのであろう。
 

武川衆 山高氏の消長

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二 山高氏の消長


 甲斐守護一条甲斐守時信は、嫡男の甲斐太郎信方を一条小山城主(甲府)にしないで、武川山高村(当時は山高郷ともいった)に封じた。のみならず、嫡男以外の諸子もことごとく武川の白須・教釆石・青木・牧原などの村々に封じ、自領の一条郷には一人も封じなかった。


 時信は武田支族一条氏の長であったが、承久(一二一九年~二一年)以降武田総領家の不振に当たり、時信の祖父信長以来、宗家に代って甲斐源氏諸氏を統べて甲斐の治政に当たり、関東御家人として鎌倉幕府に勤任し、怠るところがなかった。


 時信はまた敬慶で仏道を崇め、遊行二世真数上人に帰依して仏阿と号し、弟の六郎宗信を真教の弟子として修行させた。この人が後年の法阿


弥陀仏朔日上人である。時信は一条小山の麓にあった尼寺一条道場を僧寺に改め、自身が檀那となって一条道場一蓮寺を開基し、朔日上人を開山に請じた。以来、歴代の住職は武田家の男子が出家して住山する例となった。


 時信は元亨元年(一三二一)正月二十七日に没したが、そのころ、時信の諸子は武川の各地に拠っていた。しかし、それぞれが一条郷内外の父の遺領を譲与され、後年その一部を亡父の菩提のために一蓮寺に寄進したことが、『一蓮寺寺領目録』によって確かめられる。たとえば時信死後十一年の正慶元年(一三三二、南朝元弘二年)三月十日、一条十郎入道道光は、一条郷内某地一町七反を、また同二年四月十五日、一条八郎入道源阿は郷内持丸一町五反を寄進している。一条十郎入道道光とは、時信の男十郎時光の法名で、同じく八郎入道源阿は八郎貞家であろう。時光は武川衆青木氏、貞家は同牧原氏の祖であるが、この場合の施主名はすべて一条某である。また受けいれ側の一蓮寺も、山高の一条殿と呼ぶべきところを山高殿、同じく青木の一条殿を、たんに青木殿、牧原の一条殿をたんに牧原殿と呼んだものと思われる。初期の武川衆は一条氏を名のり、一連寺の檀那であった。


 しかし、山高氏が史料の上で初めて確認できるのは、延文元年(一三五六)四月五日の『一蓮寺過去帳』の記事である。すなわち、「延文元年四月五日 正阿弥陀仏 山高一代」とあるのが山高氏の初見で、信方の父時信が世を去った元亨元年(一三二一)から数えて、じつに三五年もの年月を経た後のことである。


 信方の功績は、一条甲斐太郎、一条甲斐守の称号が示すように、時信の亡き後、幼年を顧みず、甲斐源氏一条氏の総領を勤めたこと。また、甲斐源氏の総領武田信武をたすけてその部将となり、武家方として行動した。文和元年(一三五二)三月二十八日、武蔵と信濃の境の笛吹嶺において宮方の宗良親王・新田義宗との戦いに、武家方足利尊氏に味方して戦った。


 甲斐源氏武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野介・同甲斐前司・岡安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越前・一条太郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸介・下山十郎左衛門、都合三千余騎ニテ馳参ル。(中略)同二十八日将軍笛吹手向(峠)へ押寄テ(中略)先一番ニ荒手ナリ、案内者ナレバトテ、甲斐源氏三千余騎ニテ押寄セ、新田武蔵守卜戦フ、是モ荒手ノ越後勢三千余騎ニテ、相懸リニ懸リテ半時計り戦フ:、逸見入道以下宗徒ノ甲斐源氏共百余騎討クレテ引退ク(下略)(『太平記』)


 この笛吹嶺の戦いで、甲斐源氏ことに逸見一党は大損害を蒙ったが、この戦いの直前に一条三郎・白洲上野介の二将が活躍している。


 逸見一党が多数の戦死者を出している以上、一条支流武川衆にも損害があったと思われるが、よくわからない。南北朝抗争五十余年、結局南風競わず、武家方の勝利で局を結ぶのであるが、勝利側に立ったとはいえ、甲斐源氏の蒙った痛手も少ないとはいえない。武田信武・一条信方らの協力について、足利尊氏は深く感謝し、子孫に対しよく甲斐武田氏に報いるよう遺命したという。


 室町時代に入って、山高氏はどのように発展したか。この時代は史料の欠けた時代で、記述が困難なので、歴代の名前に


とどめる。


   山高氏歴代


  初代 信方


   一条与次義行の長男で、祖父一条総領甲斐守時信の嫡男として過され、山高甲斐太郎と号し、のち甲斐守となり、山高村に拠る。延文元年四月五日没。葬地 山高村高龍寺。


  二代 信武


   太郎、永徳三年十二月二十一日没、葬地 父に同じ。


  三代 春万


   太郎


  四代 信行


   太郎左衛門尉


  五代 経春


   太郎左衛門尉、一本太郎兵衛尉につくる。


  六代 景信


   太郎兵衛尉、一本太郎左衛門尉につくる。


  七代 信基


   孫兵衛尉


  八代 基春


    石見守


   九代 信之


 越後守 武田信虎に仕え、天文九年二月九日没す。法名甚秀道満禅定門、甲斐国巨摩郡山高村高龍寺に葬る。のち信直に至るまで葬地これに同じ。


  一〇代 親之


 石見守 武田信虎および信玄に仕え、武川衆の旗頭であった。信玄の命を受け、武川衆をひきいて武田左馬助信繁の隊下に属した。永禄四年九月十日の信州川中島合戦に信繋が討死した時、親之は敵を討捕り信繋の首級に添えて信玄に献じた。このことにより、信玄は信繁葬送のことを親之に命じた。永禄九年六月十八日に没した。年五十八歳。法名を泰翁是快禅定門という。親之の女は知見寺家に嫁した。


  一一代 信親


 宮内 信玄に仕え、永禄十二年相州小田原に発向し、十月六日の三増峠合戦のとき、奮戦して敵首を獲た。元亀三年十二月二十二日、遠州三方原合戦において討死した。四十二歳。法名越岩常秀禅定門という。妻は武田家臣武川衆青木尾張守信立の女。


 信方より信親まで一一代、鎌倉末から室町末戦国期に至る二百五十余年、なかんずく中間期の史料乏しく、記事不備なのは遺憾である。


 




室町時代の 武川衆 山高氏~11代

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室町時代の山高氏
室町時代に入って、山高氏はどのように発展したか。この時代は史料の欠けた時代で、記述が困難なので、歴代の名前にとどめる。
山高氏歴代 初代 信方
一条与次義行の長男で、祖父一条総領甲斐守時信の嫡男として過され、山高甲斐太郎と号し、のち甲斐守となり、山高村に拠る。延文元年(一三五六)
四月五日没。葬地 山高村高龍寺。
  • 二代 信武
太郎、永徳三年(一三八三)十二月二十一日没、葬地、父に同じ。
  • 三代 春方 太郎
  • 四代 信行 太郎左衛門尉
  • 五代 経春 太郎左衛門尉、一本太郎兵衛尉につくる。
  • 六代 景信 太郎兵衛尉、一本太郎左衛門尉につくる。
  • 七代 信基 孫兵衛尉
  • 八代 基春 石見守
  • 九代 信之
越後守 武田信虎に仕え、天文九年(一五四〇)二月九日没す。法名甚秀道満禅定門、甲斐国巨摩郡山高村高龍寺に葬る。のち信直に至るまで葬地これに同じ。
  • 十代 親之
石見守 武田信虎および信玄に仕え、武川衆の旗頭であった。信玄の命を受け、武川衆をひきいて武田左馬助信繁の隊下に属した。永禄四年(一五六一)九月十日の信州川中島合戦に信繋が討死した時、親之は敵を討捕り信繋の首級に添えて信玄に献じた。このことにより、信玄は信繁葬送のことを親之に命じた。永禄九年(一五六六)六月十八日に没した。年五十八歳。法名を泰翁是快禅定門という。親之の女は知見寺家に嫁した。
  • 十一代 信親
内 信玄に仕え、永禄十二年(一五六九)相州小田原に発向し、十月六日の三増峠合戦のとき、奮戦して敵首を獲た。
元亀三年(一五七二)十二月二十二日、遠州三方原合戦において討死した。四十二歳。法名越岩常秀禅定門という。妻は武田家臣武川衆青木尾張守信立の女。
 
信方より信親まで十一代、鎌倉末から室町末戦国期に至る二百五十余年、なかんずく中間期の史料乏しく、記事不備なのは遺憾である。

武川衆 山高家十二代 山高信直

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山高家十二代 山高信直
 山高家十二代は信直である。
天文二十二年(一五五三)の生まれで、通称は将監、宮内少輔と称した。父宮内信親が三方原合戦で討死したとき、信直は二十歳であった。
「山高系譜」に、
(前略)父信親(三方原に)討死の日の朝、認むる処の遺
書を武田左馬助信豊君に指上るに付、諏訪の二十五騎衆は召上げられ、信玄公より弓組の足軽、信州長窪の衆三十人を預
けらる。其の後、信豊君の命にて武者奉行となる。
天正乙亥三年(一五七五)五月廿一日、参州長篠において鉄砲に当る。脇の腹より馬の太腹かさして、後の腹まで打貫
かれ、鉛丸腰下にとどまりし。其の後に切割き、玉取出して治療す。其の後、上野膳の表においても、亦鉄砲の深手を負ひぬ。
天文十年(一五四一)壬午年三月三日勝頼公新府御開の時、信豊君には御持城御引籠、時節を見合わせ候へと勝頼公の給ふ故に、小室の城に御引寵成さるるに付、武川の者共も各々の小屋に暫く引寵り、動静を窺ふべしと信豊君より御□ありたれは、伯父柳沢兵部して申合せ、小屋に引寵り(下略)
 とある。この記録は『寛政重修諸家譜』の信直譜には見えないもので、重要である。
 信直の父、宮内信親が諏訪の二十五騎衆を預けられていたこと。元亀三年の三方原合戦を前にして遺書をつくり、武川衆寄親の左馬助信豊に捧げ、心おきなく壮烈な討死をした。その結果、信親に預けられていた諏訪の二十五騎衆は召上げられ、代わりに弓組の足軽である信州長窪三十人衆が信直に預けられた。
 信直は、のち左馬助信豊によって武者奉行を命ぜられる。武田氏の軍制には旗本武者奉行はあるが、武者奉行は見えない。これは、左馬助信豊部隊のうちだけに用いられた、軍目付(陣中での監察官)の称呼であったと思われる。
 天正三年(一五七五)五月の長篠合戦では奮戦し、敵弾を脇腹から腰部に受けたが、のちに外科手術により腹部を切り開き、残留していた鉛銃弾の創出に成功し、生き延びることができた。
 天正八年(一五八〇)十月、上州膳城攻略の時も銃弾を受けて重傷を受けたが、生命に別条はなかった。この膳城攻略の際、信直と同じ武川衆の柳沢信兼、宮脇伝次郎・横手信俊(のち柳沢)らが勇戦したが、柳沢・宮脇が軍法に触れたとして改易に処せられたことは気の毒であった。
 天正十年壬午(一五八二)三月、左馬助信豊は、勝頼の意を受けて再起を期し、武川衆には各々の小屋(支配地内の塁砦)に籠り待機するよう命じた。ところが、戦局の悪化は意想外に早く、新府落城、田野の悲劇に続く落城で、武川衆は団結の中核となる信豊を失ったのであった。
武田氏を滅ぼした信長は、信玄以来の怨念を晴らすべく武田勢の残党狩りを企て、多くの有力武将を甘言で招きよせ、殺戮した。武田逍遥軒・小山田信茂・葛山信貞らはその例である。
 これより先、徳川家康は武田親族衆の最有力者穴山梅雪を降伏させ、その嚮導により富士川谷をさかのぼり、市川文殊堂(表門神社)に到着すると、一条上野介の籠る上野城を改めてこれを陥れ、信長の政策とは別に武田遺臣の招降につとめた。「山高系譜・信直」の項に、
 
一とせ、信玄公御代に成瀬吉右衛門、参州より甲州に来れる時、折井淡路守馳走して帰さる。其の後甲州滅亡の後武川の者共申合せ、成瀬吉右衛門に拠り御家に属し度き旨、折井淡路守・米倉主計助これを申す。早速上聞に達したるが、其の比織田右府より甲州の士御召抱の事、堅く禁じらるるに依り甲州市川に潜むを召出され、拝謁し奉る。残る武川の士兵は能き時節を以て召さるべきに付、両人は遠州桐山の辺に忍び有るべき旨仰出され、両人は遠州に赴き、其の余は武川に潜居す。
 
とある。折井淡路守は市左衛門尉次昌の官途で、成瀬が甲州に亡命し武田氏に仕えていたころは淡路守といい、成瀬をよく世話した。
 淡路は下国で、その守は従六位下、市左衛門尉は従六位上で、昇進の次第も順当である。徳川家出仕以後、次昌がもっぱら市左衛門尉を名のるのは、もっともなことである。ついでに言えば、米倉忠継の主計助は正六位下相当であるから、折井より一級だけ上位である。
 武川衆は、主家滅亡後より協議して徳川家康に属することに一決し、折井・米倉を代表として、かねて折井が武田氏時代に世話した間柄である家康の謀臣、成瀬吉右衛門尉正一にその旨を申し入れた。成瀬を通じて武川衆の帰属の意向を知った家康も、当時織田信長が武田遺臣の召し抱えを厳禁しているのに鑑み、成瀬をたよって市川に来、家康の意向をぅかがっていた折井・米倉両人だけを保護することとし、残る武川衆諸士は、適当の時期に召し抱えることとした。その結果、両人には生活費を与えて遠州桐山村に潜居させ、残る武川衆諸士には武川の地で待機させた。
 山高信直は、武川に待機する多数武川衆の元締として、時節が熱するまで信長の代官河尻秀隆の圧制に耐えていたのであった。
 果然、六月二日本能寺の変で信長は亡びた。以後の武川衆の動静につき「山高系譜」に、
 
六月二日織田右府生害の後、神君泉州堺より御下向遊ばされ、折井淡路守其の子市左衛門・米倉主計助を召出だされ、早々甲州に罷帰り、一族の者ども帰せしむべき由を仰出だされ、各ミ武河に馳下り、武川の者共へ先の上意を達しぬ。信直始め心を合せ、御先手勢に馳加はり、走廻る。時に北条氏直若神子辺へ発向し、武河筋信州の境殊更新府の城下は枢要の地なる故、武河の者共各々味方に属すべき旨、再三いふと雖も承引せずして、却て北条に属する信濃の境小沼小屋、武河の者共追落し、神君新府御着座の節、初めて拝謁し奉る。
 
とある。徳川家康は本能寺の変の直後、伊賀越えの難に九死一生を得て堺を出て三日目の夜三河岡崎に帰城するや、当時駿府に在城の岡部正綱に次の書状を与えて、甲州河内下山に移り、城砦構築を命じた。
 
此の時に候の間、下山へ相移り、城見立て慌て普請成さ
るべく侯。
委細は左近右衛門尉申すべく候。恐々謹言。
  (天正十年)六月六日
            家康 (花押)
    岡次まゐる。
 
下山は甲州河内の邑で、穴山氏の城下である。この書を右衛門尉正綱である。家康の意をうけた正綱は、武田の遺臣で早く帰順した曽禰昌世を伴って入峡し、十二日より河内領内築城と、領民の宣撫に着手した。
 ところが、信長の代官河尻秀隆は甲府に在って暴政を行っていたが、本能寺の変以後、にわかに士民懐柔政策に転じたにもかかわらず、秀隆の施政を恨む士民の反撃を受け、同月十八日、躑躅崎の東方、岩窪村で虐殺された。家康は、岡部らに次いで重臣大須賀康高に命じ、成瀬吉右衛門尉正一・日下部兵右衛門尉定好らをして梅雪の子勝千代の率いる穴山衆を督励させた。康高は市川に陣し、岡部以下の諸将に命じて甲州の武田遺臣を招かせた。
 これより先、遠州桐山村に潜んで待機していた武川衆折井・米倉両人は甲州へ急行し、これも待機していた山高信直以下、在地の武川衆六十騎を導いて七月九日の朝、右左口宿の南なる柏坂に登り、前日精進宿に泊まって当日早朝出発、柏坂に到着した家康を迎えた。
 武川衆全員の勢揃いを見た家康は満足し、米倉・折井両人に対し、次の感状を与えた。
 
其郡において、別して走り廻るの由、祝着に候、おのお
の相談あり、いよいよ忠信を抽んでらるべく候。
恐々謹言
(天正十年) 七月十五日   家康(花押)
   米倉主計助殿
   折井市左衛門尉殿  (寛永諸家系図伝)
 
 家康が、さきに折井次昌・米倉忠継らを遠州桐山村に保護したことは、両人以外の武川諸士の妻子をも人質としたことが推察され、武川衆諸士が相互に自重、団結したのである。ここに武川衆の強さがある。この感状には、折井・米倉両人を裏切らなかった武川衆全員に対する家康の賞讃も含められていると思う。「山高系譜」は続いて述べる。
 
氏直と御対陣中、かさねて北条より武河の者共相招き、計策の状を取次ぎし侍両人有り、中沢縫殿右衛門・同新兵衛なり。武河の者共相談し、彼二人を討捕、其状ともに新府に指上ぐも辺見・日野台・花水坂より武川筋へ敵兵度々忍び下る処に、信直、柳沢兵部丞信俊と相議し、三吹の台に手勢を伏せ待つ処に、敵兵忍び来しを追払ひ、家来の者共生捕、首二級を得て則ち新府に指上る。御褒美として青銅三貫文宛を給はる。
 
と。武川衆山高信直・柳沢信俊両人が、若神子より日野台、花水坂を越えて敵勢が来攻するを、中山の麓三吹の台に手勢を伏せて待ち受けて捕え、また首二級を獲て、これらを新府の家康に献じ、青銅三賞文宛賞賜されたのであった。
 蔦木氏
「山高系譜」の信直の項には、蔦木氏に関する注目すべき一節がある。いわく、
 
諏訪安芸守未だ御家に属し奉らざる以前、諏訪方にこれある知見寺越前と昔年信直交を結びしゆへ、御味方に属せしむる処において、越前、武河と一統に成りて忠節を尽しぬ。其後程なく諏訪も帰りぬ。
 
と。この記述と、『寛政重修諸家譜』・「蔦木家譜」の記事の間には相当の相違点を認める。いずれが是か、いずれが否か、なお研究を要するものがあろう。
 『寛政重修諸家譜』の収める「山高家譜」、信直の譜においては天正十年七月以降の家康と北条氏直との交戦の際における信直の功績を叙した次に、同十二年の尾州長久手の役には、家康の命により武川衆の面々とともに信州勝間砦を守ったことを記した。思うに、真田昌幸の攻撃に備えたものであろう。家康は長久手の役で豊臣秀吉の軍を完膚なきまでに揉爛し、秀吉の心胆を寒からしめた。
 ついで同十三年の真田昌幸の篭る信州上田城攻めには、思いがけない敗北を喫している。この役に先立ち、家康は武川衆の面々に対し人質の提出を求めた。それは真田昌幸と豊臣秀吉に対する慎重な配慮の結果であろう。家康が妻と嫡子を人質に出すことを求めたのに対し、武川衆の中、次の諸士は子弟・親類の者までも駿河興国寺城に送り、誠意のほどを示したのであった。
折井淡路守次昌・曽雌帯刀定政・山高宮内少輔信直
米倉主計助忠継・同左大夫豊継・曲淵勝左衛門尉正吉
山寺甚左衛門尉信昌・青木尾張守信時
伊藤三右衛門尉重次・知見寺越前守盛次
らである。
 いつもながらの武川諸士の誠意に、家康は翌十四年正月十三日に次の感状を与えた。
 
今度、証人の事申越し侯の処、各ミ馳走有り、差図の外、兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し候、殊に去る秋の真田表において万事情(精)を入れ、走り廻り候旨、大久保七郎右衛門尉披露し侯、是れ亦た悦喜せしめ候、委細は両人申すべく候
 (天正十四年) 正月十三日 家康 (花押)
武川衆中
 
また家康の老臣大久保忠隣と本多正信からも、次のような連署の添書が与えられた。
  
今度、証人の儀について平七(親吉)・成吉(正一)よりその断りを中越さるるの処に、御差図の外、若衆・妻子まで駿州へ引越し慌て、無二の御奉公有るべきの由、即ち披露におよび候処、大形ならず御祝着に及び候、殊に去る秋真田において大久保七郎右衛門尉申上げられ候、毎度御無沙汰存ぜられず候間、御悦喜成され候、これに依り各々へ御直書遣わされ候、いよいよ御奉公油断なき体、肝要に候、恐々謹言
  (天正十四年 一五八六) 正月十三日
           大久保新十郎忠隣
           本多弥八郎正信  岡崎ヨリ
   武川衆中
御宿所
 
各々へ御直書を遣わされ候、と大久保・本多両人から添書が出されたことは、武川衆の一人一人に家康から感状が出たとの意である。
 天正十七年(一五八九)伊奈熊蔵に命じて甲州に検地を行い、知行も貫高から俵高に改めた。これはやがて石高に移行する過程であった。このことを信直は家譜に「重恩の地を賜う」と記している。重恩の地とは山高郷の内、とみられるが、同年十二月十一日の伊奈熊蔵の武川衆知行書立によれば、山高郷の内で一八〇俵となっている。この時、山高郷の総俵高は四七八俵壱斗四升三合七勺三才である。しかし、翌十八年二月、「武川衆御重恩の地方」の内に「七拾三俵壱斗五升弐合六勺壱才 山高郷之内」とある。したがって前の一八〇俵は名田(祖先伝来の地)で、それに七三俵壱斗余の地を重恩の地と称したものであろう。恩地は恩賞の地である。天正十七年の時点で信直の知行高は山高郷内二五三俵壱斗余とみてよいのではないか。
 天正十八年(一五九〇)小田原の役に従軍。八月家康の関東移封に際しては采地を武蔵鉢形に移され、その地において一二〇石を知行した。
 天正十九年(一五九一)奥州九戸一揆の時は、大久保忠世に属し、男孫兵衛親重とともに岩手沢に供奉した。相組は小菅大学・武川衆・芦田衆・三枝土佐守・下曽根三十郎・津金衆であった。
 文禄元年(一五九二)朝鮮陣の時は豆天城山より軍船建造用の船板材を伐出す。
慶長五年(一六〇〇)関原役には徳川秀忠に従い上田攻めに従ったが、病のため子親重に代行させた。
 慶長八年(一六〇三)三月加恩七五石を賜い、武蔵男余郡の内ですべて二〇〇石を知行した。
 寛永二年(一六二五)四月二十日死去、七十三歳。法名安里玄心居士。山高村高龍寺に葬られた。
 

武川衆 山高信俊と信吉

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山高信俊と信吉
 信直の一子親重は別家し、孫信俊が嗣いだ。山高家一三代である。
十三代、信俊
慶長元年(一五九六)に、山高孫兵衛親重の長子として生まれた。はじめ通称を杢右衛門、のち三左衛門といった(左衛門・右衛門はもと衛門府の武官の称号で、国主級で衛門督、大名級で衛門佐、武将級で衛門尉の官途を受けるならわしであった。しかし南北朝期ころから形式化して肩書に過ぎなくなり、近世江戸中期になると衛門尉の称呼も忘れられて、たんに衛門と呼ぶに至った。山高家の記録もすべて三左衝門・杢右衝門とされているので、以後すべてこれに従う)。
 慶長十三年(一六〇八)にはじめて台徳院殿(いとくいんどの 二代将軍秀忠の誌号)に謁した。これが旗本の嫡男としての栄誉である。
慶長十九年(一六一四)養父信直(じつは祖父)が落馬の負傷が原因で歩行不能となったので、その届け出でを聞いた秀忠が本多正信に命じて信直の隠居を許し、嗣子信俊に信直の家督を継がせた。信俊時に十九歳。
**大阪の陣** 
慶長十三年(一六〇八)十一月大坂の陣が起こり、信俊は本多正信に属して出陣した。これが冬の陣である。大坂城にこもる豊臣秀頼方には大名の味方する者は一人もなく、ただ真田幸村・後藤基次らの有力な牢人が、功名と恩賞を期待して約一〇万の兵力が集まった。これに対して家康・秀忠父子は二〇万の大軍をもって大坂城を包囲したが、堅固な要害を力攻するのを避け、ひとまず豊臣方の戦意と防備を弱めようと謀り、ただ家康出馬のしるしとして、外掘を少し埋めることを条件として
 慶長十三年(一六〇八)十二月和議が成立した。しかし豊臣方は内堀までも埋められた上、牢人の大坂城退去、他への転封を強制された秀頼は、
元和元年(一六一五)四月再び開戦した。夏の陣である。しかし堀を失い城に頼ることができない豊臣方の軍は城外遠く出て徳川勢を迎え撃ったが敗れ、五月八日秀頼母子は自殺して豊臣氏は滅亡した。この勝利によって徳川氏の支配権は確立し、諸大名の完全な統制の上に中央集権の諸制度を定めることができた。
❖武川衆の諸士受難 駿河大納言
元和二年(一六一六)、駿河大納言徳川に仕えることを命ぜられた。忠長は秀忠の三男で幼名は国松、性俊敏で父母の愛を独占し、秀忠も世嗣にしようとした。家康はこれを憂え、国松の兄竹千代(家光)を世嗣と定めた。
 忠長は将軍の連枝として官位は従二位権大納言、禄高五五万石に至ったが、領民殺傷などの非行がかさなり、
寛永八年に甲斐に、翌年上野に幽され、
寛永十年(一六三三)十二月六日に自刃した。そのため家臣らは禄を失い、武川衆諸士にとり受難時代であった。
**信俊、徳川幕府へ**
信俊も浪人生活満九年ののち、
寛永十九年(一六四二)十二月に至って漸く再出仕の恩命に浴し、もとの如く采地三〇〇石を賜わって大番に挙げられ、ついで
承応三年(一六五四)八月御広敷番頭、
万治二年(一六五九)十二月二〇〇俵加増、寛文元年甲斐の采地を下総国の匝瑳・葛飾・相馬・豊田、常陸国新治、等の諸郡の内に移され、相馬郡、我孫子に治所を設けた。
寛文九年(一六六九)致仕、
延宝四年(一六七六)十一月十四日逝去。八十一歳。法号高山院殿月照宗徹。牛込宗参寺に葬った。以後山高家代々、当寺を葬地とする。
 
武川村文化財より
 
武川村(町)指定文化財 山高信俊、信保兄弟の手簡折紙一通(鳳凰山高龍寺蔵)武川村(町)指定文化財 昭和五十三年十一月一日指定
 山高の高龍寺は山高氏の菩提寺で境内には山高氏代々の墓がある。これを裏づける古文書もまた数多く残されている。この書状は慶安四年(一六五一)山高三左衛門信俊と同五郎左衛門信保兄弟が連名で興国寺に送ったものである。信俊、信保が父親英居士(孫兵衛親重)の遺志に因って、高龍寺を修造して興因寺の末寺とした貴重な資料である。
 兄信俊は、祖父信直の養子となり将軍家へ仕えたので弟の信保が、孫兵衛を襲名して高龍寺中興開基として力をつくした。親重は父と別に旧地山高村において二七〇石の地をたまわり、甲府城番をつとめ天正十九年大坂の役に出陣している。
  謹而致啓上候随而  先祖菩提所山高
  村高隆寺古来本   寺無御座候然間文
  親英居士近年存   立寺取立中尉被
  致死去候拙者共   去秋建立仕是教和尚
  申請住居成候彼地  文泰和尚奉開山
  興困寺御末寺    仕度侯多分親英望有之慎
  併小地之儀御座候間 御末寺諸役候節
  末代至迄彼寺御免  許被下候様仕
  度由堅役申置候加様 之旨様御同心方
  向後為証処として  本状差上候恐々謹言
   十一月四日
        山高三左衛門  信俊 書判
        山高五郎右衛門 信保 書判
  興因寺

武川衆山高氏 一四代、山高信吉 十五代 山高信賢  十六代、山高信禮(のぶいや)

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一四代、山高信吉
一四代信吉は信俊の嫡男で、元和三年(一六一七)の誕生で通称を新右衛門といった。正保元年(一六四四)二十八歳で将軍家光に謁し、大番に選ばれた。
親吉の父信俊も寛永十九年(一六四二)に大番に選ばれていて、山高氏と大番とは関係が深いので略説を加える。
 大番は江戸幕府の常備軍団の一で、書院番とならんで両番と呼ばれ、大番に列する老はその家柄を重んぜられ、精鋭をうたわれた、最高に名誉ある軍隊であった。この大番に信俊・信吉が所属したことは、山高家が由緒正しい武田家の支流であり、強豪をうたわれた武川衆出身であることと、無関係ではない。
 信吉は、
正保三年(一六四六)十二月産米二〇〇俵を賜わり、
寛永七年(一六三〇)六月には組頭に進み、十二月塵米二〇〇俵を加えられた。
延宝四年(一六七六)十二月父信俊の遺跡を継いで、さきに賜わった禄は収められたので、結局五〇〇石の高であった。翌五年八月五日没、六十一歳。法名自性。
妻は武川衆柳沢安忠の息女、吉保には姉に当たる女性である。
 
 
十五代 山高信賢と信禮(のぶいや)
 五代信賢は通称三左衛門、また八左衛門。
明暦二年(一六五六)に生まれ、
万治三年(一六六〇)五歳で将軍家綱に謁した。
延宝五年(一六七七)十二月遺跡をつぎ、
延宝七年(一六七九)八月、父祖と同じく大番となる。
元禄七年(一六九四)正月御小納戸の職に就いた。
三十八歳。御小納戸という役柄は若年寄に属し、将軍に近侍して理髪・臍番・庭方などの細事をつかさどるのである。
元禄十年(一六九七)七月、将軍綱吉養女八重姫の用人を命ぜられ、下総国岡田・豊田両郡の内で一、〇〇〇石加増の上、布衣を着することを許された。布衣を着するは六位の重い役人に限られたので、信賢が布衣を着することを許されたことは、六位に昇ったことを意味し、名誉なことであった。八重姫は鷹司家の息女で、元禄九年綱吉の養女となり、元禄十一年六月水戸少将徳川徳川吉孚に嫁し、延享三年(一七四六)六月に没し、養仙院殿と呼ばれた。死後、院号を改め随性院とした。
 信賢は
宝永五年(一七〇八)二月、武蔵・下総両国内で三〇〇石加増され合計一八〇〇石知行した。
敬神の念篤く、郷里山高村の氏神幸燈官を崇敬し、
正徳二年(一七一二)九月、自詠自筆の和歌一〇〇首の額と神鏡一面を同社に奉納した。
正徳三年二月二十四日、五十八歳で逝去。法名走夢。
 
十六代、山高信禮(のぶいや)
 
十六代信禮は信賢の嫡男として
延宝九年(一六八一)に生まれた。幼名兵助、通称八左衛門、道号を自得斎といった。
貞享四年(一六八七)七月、八歳の時将軍綱吉に謁した。
《註》当時同じく武川衆を祖に持つ柳沢吉保の絶頂期であった。米倉丹後守など江戸幕閣の中枢に居た。
元禄十五年(一七〇二)小姓組番士に選ばれた。小姓組は小性組とも書くが、元来屈従組で、将軍の側近に侍して警衛に当たるのが屈従の本分である。用字が難解なため、平易な小姓・小性などの当て字を用いている
が、重要な役目であることは大番・書院番と変わらない。武川衆出身ということが影響しているとみられよう。
正徳三年(一七一三)二月、父信賢が世を去ったので、同年五月晦日、遺跡を継いだ。
 信礼は弓馬の道にすぐれ、
享保七年(一七二二)十月十八日、将軍吉宗の鷹狩に供奉して武蔵、下総両国の堺隅田川を小船で渡る際、折柄芦の叢中から大空高く飛び立った一羽の菱喰(ひしくい)雁を主命のまま一箭に射落とし、将軍吉宗の感賞を蒙った。信礼は、これも山高村の氏神幸燈官の神助の賜物と、奉謝の文一章と、当時使用の弓一張を奉納した。奉謝の文にいわく、
  
征夷大将軍吉宗公、御鷹狩の供奉として弓箭を帯し、武蔵・下総の界、角田川に至り、小船に乗りて菱喰雁を射留むるの時、北風烈しく吹き、浪高し。神徳に依らずんば、如何ぞ豊に利有ることを得んや。其後殿中に於いて褒美として服三領、これを下し賜わる。徹感骨髄に応うるの余り、微志を記してこれを納め詰んぬ。
 
と。文も意をつくしている。
信礼は弓のほか、
享保七年(一七二二)十月に南京の瓶子二対、輪子の中旗八旗、
享保八年(一七二三)三月に内陣帷を奉納している。
 
信禮は、
享保八年(一七二三)三月、多年職務精励の賞として黄金一枚を賜わり、
享保二十年(一七三六)十二月、布衣着用を許された。
寛保三年(一七四三)閏四月には鉄地頭に進み、
延享元年(一七四四)十一月二十日致任した。
功により養老料米三〇〇俵を賜わった。
寛延元年(一七四八)四月二十四日逝去。七十歳。法名「仕候」。

武川衆後裔 山高石見守信離(のぶあきら)

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山高石見守信離(のぶあきら)
  1. 幕臣としての信離
 第一七代以後山高家当主は次の通りである。
 
一七代 信蔵 一八代 信肪 一九代 信成 
二〇代 信友 二一代 信行 二二代 信求
二三代 信陸 二四代 信復 二五代 信厚 
二六代 信離 二七代 五郎 二八代 登
 
と連綿と続いて今日に至っている。右のうち二〇代までは『寛政重修諸家譜』に見えるので、本稿では巨人第二六代信離を特記したい。
 山高信離は、
天保十三年(一八四二)に生まれた。生家は山高家でなく、高二、五〇〇石の旗本、掘家である。掘家は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、織豊時代にあたり名将掘秀政・利重兄弟が出て家名をあげた。利重の二男利直の六世を伊豆守利堅といい、高二、五〇〇石、書院番の旗本であった。利堅の四男慎八郎は、山高家二五代信厚の養子となり、元服して蘭之助信離(らんのすけのぶあきら)、通称を弾正、また主計といい、文久初年から小納戸に出仕した。
 慶応二年(一八六六)一二月、一五代将軍の弟昭武(水戸徳川家九代藩主斉昭の一八男)が清水家を継ぐが、パリ万国博覧会の幕府代表として急遽出発、幼い昭武の守役として山高信離(のち上野博物館長、京都博物館長。区内弁天町の宗参寺に墓。儒家の林家から山高家に養子に出た人物である。次男の曄は林家に嗣子がないために林家を継ぎ、医者に転じて現在の林外科病院を創立している。)が随行し、苦労している。幕末の動乱のため薩摩藩も別個に万国博に出品して混乱。それぞれ「日本大君政府」、「薩摩大守政府」と名乗り、日本は権力争いをしている二国が存在する国としてパリの話題に上ったという。(つづく)幕府の職員録『柳営補任』御小納戸(りゆうえいぶにん おこなんど)の項に、
  文久二年(一八六二)口月 岩瀬内記支配ヨリ
  文久三年(一八六三)正月二十二日 御小納戸 高千八百石  弾正 山高蘭之助 と見えるが、ついで二条城勤務に転ずる。
  文久三年(一八六四)正月二十二日 中奥御番ヨリ
  元治元年(一八六四)三月十六日 二条ニ於テ 御目付・御小納戸、山高弾正と見える。信離はしばらく京都に転ずる。
  元治元年三月十六日 御小納戸ヨリ
  同年五月十五日 御役御免、寄合 主計 山高弾正信離
 と見える。三月十六日に京都二条城での御目付兼御小納戸に転じた。
ここで二か月勤めた上で御役御免となり、寄合を命ぜられた。禄高三、〇〇〇石以上で非職の旗本を寄合、禄高三、〇〇〇石未満の非職の者を小普請という。この時はじめて主計山高弾正信離と記された。
 二条城勤務とは京都公家筋との交渉であろう、目付兼御小納戸は将軍側近の要職である。
 寄合にあること二年余、再出仕の機を得た。
  慶応二年(一八六七)八月十八日、寄合ヨリ再勤
   十二月十二日、小倉表へ御取締御用ノタメ遣ハサル。
   十二月二十七日、京都ニオイテ御作事奉行格御小姓頭取、山高主計信離
 と見える。二年余の休職ののち、にわかに多忙の日を迎える。小倉への出張ののち、同年十二月、京都において作事奉行格兼御小姓頭取に補任された。これは重職に任ずるための準備工作であった。やがて年が明けると、布衣山高主計信離は、まず従五位下に叙せられ、ついで石見守に任ぜられた上で、フランスのパリで開催される万国博覧会に日本江戸も幕府を代表して出席する使節、将軍徳川慶喜名代徳川民部大輔昭武の傳役(もりやく)を命ぜられた。

パリ万国博覧会 山高信離

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パリ万国博覧会
 パリ万国博覧会は、慶応三年(一八六七)五月に開催される世界的規模の博覧会である。幕府は、長州征伐に失敗して弱体を露呈し、起死回生の機会と方法を模索していた。これに対し、友好の手を伸ばしてくれたのが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュであった。
 彼は幕府を後援する方策の一として、パリ万国博覧会への参加を幕府に熱心に勧告した。幕府でも、開国政策の実効をもたらすよい機会と判断し、積極的に準備を進めることとし、当時、横須賀製鉄所建設計画協議の使命を帯びて渡仏中の柴田日向守に命じ、フランス政府に対し招請を受諾する旨を申し入れさせた。
 その結果、幕府は将軍家名代使節として徳川昭武を決定した一。昭武は慶喜の弟で当時十四歳の少年であるが聡明利発であるから、すぐれた輔佐役がいれば立派に役が果たせよう、ということになり、昭武を民部大輔に任じ、
傳役としては山高信離を最適の人物と認め、その前提として石見守に任命したものである。
 徳川民部大輔昭武とその随員二九名、大部分は史上に名をのこした人物である。
   正使 徳川民部大輔昭武
   傳役 山高石見守信離
   若年寄格・駐仏国公使 向山隼人正一履
   歩兵奉行 保科俊太郎
   外国奉行支配組頭 田辺太一
外国奉行支配調役 杉浦愛蔵
   儒者次席・翻訳方頭取 箕作貞一郎
   勘定格陸軍附調役 渋沢篤太夫
   奥詰医師 高松凌雲  (以下略)
 
慶応三年(一八六七)正月十一日、フラソス船アルヘー号に乗り込み、横浜港を解纜(ラン ともづな)し、途中上海・香港・サイゴン等に寄港しつつ、マルセイユ経由で大博覧会の催されるパリに向かった。
 随員の中の渋沢篤太夫と杉浦愛蔵の二人は、この当時の見聞を詳細に記録、評論して共著『航西日記』をのこしている。この共著には当時先進国の文物が彼等の限にどのように映じたかが、いきいきと描かれている。
 横浜を出てから一五日を経た二十六日に、サイゴンに上
陸した。この地は当時仏領印度支那といわれたところ(いまはベトナム)の首都で、総督(鎮台長官)が駐在していた。  
慶応三年正月二十六日(西洋暦三月三日)サイゴンにて朝七時、本地官船の迎によりて陪従して上陸す。軍艦祝砲ありて、騎兵半小隊馬車前後を警護し、鎮台の官邸にいたる。席上奏楽等畢りて、其の本国の博覧会に模擬せし、奇物・珍品を雑集せる所を一見し(下略)
 とあって、総督官邸に博物館的施設が付設されていたことを記している。
二月二十二日 (西洋暦三月二十七日)アレクサンドにて、(前略)此の地は古国にて殊に首府なれば、古器物の考証に備ふべきもの多く博覧会場に収めてあり。皆太古の物にて、多くほ土中より掘出したる棺櫛の類と見ゆ。(中略)戸も腐朽せず、依然と乾からびたる手足・腹部とも幾重も巻きたるなり、世にいわゆるミイラならん。(下略)など、寄港地の博物館の所見を記している。
 三月七日、いよいよフランス首府パリ到着。同月二十四日の使節徳川民部大輔昭武は、皇帝ナポレオン三世に謁見し、国書を捧呈した。
 国書の内容は、源慶喜の名で、パリ万国博覧会の開催を祝し、使節をして同盟のよしみを表わさせること、なお使節昭武をパリに留学させるので、よろしく指導を請うと述べ、皇帝への贈呈品五点の目録が別に記された。
その第一に水晶玉とある。甲州産であろう。博覧会場についての記事に触れよう。
 
五月十八日(西洋暦六月二十日)午後二時より博覧会を観るに陪す。荷蘭留(フランス)学生等も従へり。博覧会場はセイネ(セーヌ)河側に一箇の広敞(ショウ 高い)の地にて周囲凡そ一里余、(中略)其中心は形楕円にして巨大の星宇を結構し、門口四方より通じ、彩旗を立て繞らし、(中略)東西諸州此の会に列する国々、其排列する物品の多寡に応じ、区域の広狭を量り各部分を配当せり。仏国は自国の事故最も規模を盛大にし(中略)英吉利は其六分の一を占め、白耳義(ベルーギー)は其十六分の一を占め、魯西亜(ロシア)・米利堅(アメリカ)は三十二分の一に過ぎず、西班牙(スペイン)・都児格(トルコ)は其半にして、葡萄牙(ポルトガル)・希臘(ギリシャ)は又其半に過ぎず、我邦の区域も是等と同等にして、これを支那・暹羅(シャム)両国と三箇に分ちて配置せしが、我邦の物産の多く出でしにより、遂に其半余りを有つに至れり。場中排列する所のもの(中略)自然の化育によりて成る物、或は窮理の上より神を極め精を盡して造りし物(中略)古器珍品を衆めて残す所なく、下は現世発明の新器を陳ねて余すことなし。
 
 と記し、精巧な蒸気機関、これを使ったエレベーター、アメリカ出品の耕作器械・紡績器械の精妙なこと、スイス製電信機の卓越していることに感歎している。杉浦・渋沢らが『航西日記』に記した感懐は、使節昭武・博役山高信離のひとしく共にしたことであろう。『徳川昭武滞欧記録』の中に「博覧会出品目録」にその詳細がのせてある。のべ数千点におよぶ出品物の中には、鉄砲・太刀・甲胃などの武具を始めとし、雁皮紙・美濃紙などの和紙類、梗米・粟・蕎麦など穀類、鍬・万能・稲扱など農具の炉、『農業全書』・『農家益』などの農書にまでおよんでいたという。
 しかし、陳列品の内容は、欧米先進国の精巧をきわめた工業製品と、東洋後進国の農業を主とした製品とが歴然と比べられて、当時の後進国日本の有様が痛々しく、一世紀余りの今日から回想して今昔の感に堪えない。
 パリ万国博覧会が終わると、使節昭武は幕府と締盟した各国を歴訪することになって、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス等を訪問し、元首に謁見した。信離も主席随員の一人として随行した。諸国歴訪を終えると昭武はパリ留学の身となり、信離は傳役を免ぜられて留学生取締役を命ぜられた。
 こうしている間に、同年十月十四日、徳川第十五代将軍慶喜が大政奉還をしたので、昭武以下は帰国することになった。また徳川宗家では慶喜が隠退し、田安亀之助が宗家をついで徳川家達と改名した。朝廷では慶応四年(明治元年)五月、家達を禄高七〇万石の静岡藩主に補任し、有能な旧旗本を抱えさせた。
 信離は、幕府瓦解とともに弾正・主計・石見守等の称号をやめ、慎八郎の通称に復した。
 静岡藩当局では、信離に対して藩に出仕を命じて大目付に補し、翌明治二年正月に相良奉行として地方の行政に当たらせた。
 藩では静岡学問所を開設し、かつての仏国公使向山黄村を頭取(校長)とし、信離の盟友杉浦譲は同学問所の五等教授に任命された。

武川衆末裔 明治政府官僚としての山高信離

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明治政府官僚としての信離
 明治維新の大変革によって武家政治は終わり、天皇親政の新政府が成立したが、明治政府の当面した障壁は人材の払底であった。
 欧米先進諸国に追いつかねばならぬ、との至上命令を課された明治政府にとり、最大の課題は、新進の頭脳と力量をそなえた人材をいかにして得るかにあった。
 権力の中枢は、明治政府建設の原動力、三条・岩倉・西郷・木戸・大久保らの人傑によって占められたが、新政府の眼目である財政・民政・外交・司法・立法など、中央権力樹立のために不可欠の実務を推進し得る人材に欠けることは、目前の致命的な弱点であった。
 これに対し、旧幕臣中の有能な人材を多く召し抱えた静岡藩は多士済々であったから、新政府要路が静岡藩に着眼したのは当然であり、甚だしいのは函館戦争(五稜郭の戦い)に敗れて降伏し、獄中にあった人々までが、釈放された直後に新政府に出仕した例もある。
 それらの中から二、三の例を拾ってみる。
**勝安芳**
勝安芳は旧幕府の全権として、東征大総督府参謀西郷隆盛と談笑の間に江戸城を開城し、江戸市民の生命財産と徳川家の存続を全うした。やがて静岡藩主に仕えて移ったが、明治五年明治政府に迎えられて海軍大輔となり、翌年十月参議兼海軍卿(大臣)に任ぜられた。
**榎本武揚**
榎本武揚は旧幕府海軍副総裁として同志を率い、函館五稜郭に寵って官軍に抵抗したが、官軍の黒田清隆の説得に応じて降伏し、禁獄三年ののち明治五年一月に釈放、その直後北海道開拓使四等出仕となり同七年一月海軍中将、特命全権公使としてロシヤ駐在、外務卿副島種臣を助け千島樺太交換条約を締結した。
**新井郁之助** 
新井郁之助は甲州市川代官新井清兵衛の嫡男で、長崎海軍伝習所に入り、勝安芳に学んだ。幕府瓦解後、榎本武揚と行動をともにしたが、明治五年に釈放されて開拓使五等出仕、北海道開拓使学校(札幌農学校)長・内務省地理局次長・測量局長・気象台長を歴任した。
 
信離は静岡藩相良奉行として治績を挙げる間もなく、明治三年十月太政官より同藩の権少参事に任ぜられ、ついで同五年二月十日付けで大蔵省七等出仕、博覧会御用掛となった。
 博覧会というのは、当時は博物館の事業で、本来の目的は古今東西にわたって、考古学資料・美術品・歴史的遺物その他の学術的資料をひろく収集保管し、これを組織的に陳列して公衆に展覧するにあり、開化思想の盛行した維新当時にふさわしく重要な施設であった。
**廃仏毀釈**
ところが、明治政府が神仏分離令を発布すると、その行きすぎが廃仏毀釈の暴政となり、全国的に仏教への圧迫、仏教的史跡・文化財の破壊という暴挙が流行した。政府がその行きすぎに気付いた時はすでに遅く、取り返しのつかぬまでに文化財破壊が進んでいた。
 ここにおいて古社寺の宝物であった文化財の緊急の所在確認、収集・保存の必要性が識者の問で強く叫ばれるようになり、先進国の博物館事業を範としての推進が要望された。
 しかも当時の政府の施策は富国強兵・殖産興業にあったから、これに関連する美術工芸の振興にも、博物館の使命は小さくなかった。
**ウィーン万国博覧会**
明治五年二月、大蔵省七等出仕として博覧会御用掛を命ぜられた信離は、同年十月には博覧会書記官に昇進した。翌六年一月には大蔵省六等出仕に進み、この月オーストリヤの首府ウィーンで催されるウィーン万国博覧会に、一級書記官として派遣されたのであった。この博覧会は、明治政府としては最初に参加する博覧会として、政府では事務総裁大隈重信、同副総裁佐野常民、ほかに事務官二人と、御用掛に渋沢栄一、書記官に山高信離、という顔触れを派遣した。渋沢・山高両人は七年前のパリ万国博覧会での見聞を役立てている。
**米国博覧会** 
ついで明治八年二月には米国博覧会事務取扱いを命ぜられる。この年三月三十日に博覧会事務局と改称し、大蔵省より内務省に移管される。
信離は同時に内務省博物館掛に任ぜられ、五月米国博覧会事務官を命ぜられた。
 明治九年、内務少丞に任ぜられる。同十年二月、パリ博覧会事務取調を命ぜられ、六月同博覧会事務官に任ぜられる。
**メルボルン博覧会**
明治十一年六月、勲五等に叙せられる。同十二年五月、オーストラリヤのシドニー博覧会事務官を命ぜられ、翌十三年二月同地のメルボルン博覧会事務官を命ぜられる。同年四月内務省書記官、内国勧業博覧会事務官、大蔵省書記官兼任、六月従六位に叙せられる。
**博覧会履歴** 
明治十四年、内務省博物局および所属博物館を農商務省に移管したので、信離は同時に県南務省書記官に任ぜられ、同七月博覧会掛長、八月工芸課長兼芸術課長を命ぜられる。
 同十五年十二月農商務権大書記官。同十七年十月大阪府絵画品評会審査長を命ぜられる。
 同十八年十月勲四等に叙せられる。同年十二月博物局長に任ぜられる。
 同十九年三月、博物館を農商務省より宮内省の所管に移され、四月一日博物館長心得を命ぜられる。
同二十一年一月、博物館は宮内省図書寮所管となり、博物館長に任ぜられる。
 同二十二年五月、図書寮附属博物館を廃し、帝国博物館・帝国京都博物館・帝国奈良博物館を設置する。同時に信離は帝国博物館理事・美術工芸部兼工芸部長を命ぜられる。
 同二十三年三月、第三回内国勧業博覧会審査幹事を命ぜられる。
同十一月勲三等瑞宝章を賜わる。
同十二月奏任官一等(すなわち勅任官)となり、翌年従五位に叙せられる。
 同二十七年二月、帝国京都博物館長・帝国奈良博物館長兼任となり、京都在勤となる。
 同二十八年十二月、特旨をもって位一級を進められ、正五位に叙せられる。
 同二十九年五月、古社寺保存会委員となる。
 同三十一年二月、帝国博物館鑑査委員、四月、全国漆器生産府県連合共進会審査長を命ぜられる。
 同三十二年八月、パリ万国博覧会出品鑑査委員を命ぜられる。十二月(勲三等)旭日中綬章を賜わる。
 同三十三年六月、帝国博物館評議員、七月一日、博物館官制改正(帝国博物館を東京帝室博物館、帝国京都博物館を京都帝室博物館、帝国奈良博物館を奈良帝室博物館と改称)。 
同日、京都帝室博物館長を本官と心得べき旨令せらる。
 同三十四年一月、従四位に叙せらる。翌年五月、特旨をもって位一級を進められ、正四位に叙せらる。
 同三十九年、勲二等に叙せらる。
 明治四十年(一九〇七)三月十六日、病いにより逝去した。享年六十六歳。よって考えるに、前年すでに老病を理由に職を辞するに当たり、多年の勲功により勲二等に叙せられたものであろう。信離の法号を「紫山院殿明卿嬉翁大居士」といい、山高家歴代墓所のある東京新宿区弁天町の宗参寺に葬られた。
 旧幕臣の明治政府に出仕した人々の多くが、藩閥の圧迫に押されて不遇に甘んじたとき、ひとり山高信離が、正四位勲二等、京都帝室博物館長の要職にのぼり、わが国文化財関係の最高峰と仰がれたのは、その比類ない学識と手腕が幕藩の埼を超越した結果とみられる。
 信離は少時、渡辺華山の高弟椿椿山に入門し、以来孜々として南画の修業につとめ、遂に紫山と号して一家を成すに至った。その同門の先輩に浅野楳堂がいる。楳堂は甲府勤番支配・京都町奉行を歴任し、和漢書画の鑑識に長じ、わが国で楳堂の右に出る者はないといわれるが、信離は棋堂と双壁といわれる。
 山高家二十七代は信離の男、五郎が継いだ。五郎は船舶史の研究家として知られ、その生涯をかけての著述『日の丸船隊史話』は、得難い名著との評価を受けている。五郎はまた画技に巧みで、著書の挿画はみな自筆である。
 二十八代は五郎の嫡男登が継いだ。登は官界にあって功成り名遂げ、登の弟茂は洋画家として一家を成し、独歩の作品で知られている。信離―五郎―茂の三代には美術家的資質のすぐれた遺伝があるように考えられる。

武川衆 山高別家

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山高別家
 山高親重が一家を創立する
 武川衆山高家の第一二代宮内少輔信直の男親重は、通称を孫兵衛といい、天正二年に生まれた。母は逸見兵庫頭の息女といわれる。
 逸見家の祖はもと甲斐源氏の総領であった。のち総領を武田氏に譲ったが、武田・小笠原とならび称された甲斐源氏中での名門である。
 山高家が逸見家と縁組みしたことから考えても、その家格の高かったことが窺われよう。
 親重は、武田家没落の際は九歳の少年であった。父信直が、武川衆の諸士とともに徳川氏に仕えることになったが、少年の親重は、父の命でしばしば諸方に人質に赴いたことがあり、つぶさに辛酸を嘗めたのであった。
 天正十九年に、陸奥の九戸に一揆が起こり、家康は豊臣秀吉の部下として討伐に向かったので、親重も武川衆の諸士とともに出陣した。
 親重は、この陣中ではじめて家康に謁した。この時が親重の初陣といわれるが、僻遠の奥州の戦場で貴重な体験をしたのであった。
慶長五年八月、石田三成に応じた真田昌幸を討つことを、家康は嫡男秀忠に命じた。秀忠は昌幸の籠城する信州上田城を攻撃した。この攻城戦で、親重は秀忠の将大久保忠隣に属して奮戦したが、昌幸は次男信繁(いわゆる幸村)とともによく守って屈しなかったため、空しく時日を移し、秀忠は九月十五日の関ケ原の戦いに参戦できなかった。
 関ケ原役ののち、家康がふたたび甲斐を領するにおよび、武川衆を旧領武川の地に還任させる方針をとった。この時親重は、親友の成瀬正成に頼み、父と別格に知行を賜わりたい旨を家康に上申した。このことは、父の家を出て別家を創立することを意味する。親重の父信直には男子は親重のほかはないので、信直の跡目は親重の長男信俊を養子として継がせ、別家親重の家は、親重の次男信保に継がせたいというのであ
る。
 家康は、成瀬を介しての親重の願いを許し、親重の長男信俊を祖父信直の養子とし、親重の跡目は次男信保が相続するように命じた。その上で親重には旧領山高村の高三一〇石九斗二升の内、二七五石五斗三升を知行させた。
 親重の父信直は、さきに鉢形領に采地一二〇石余を与えられていたが、この時、加恩七〇石余を与えられ、同時に采地を男余郡のうちに移された上、ここで二〇〇石を知行した。
 こうして山高氏は本、別両家となり、武川衆の軍役は、名字の地山高村に住する親重が負担し、やがて武川十二騎に列するのである。
 
山高親重と信保・信澄
 親重は、山高別家を創立して武川衆に列し、故郷に錦を飾ったのであった。
 関ケ原役ののち、家康は諸大名の賞罰を行い、甲府藩主浅野幸長が、関ケ原の戦いに先立ち、慶長五年八月二十三日に西軍の将織田秀信の守る岐阜城を猛攻してこれを陥れ、ついで瑞竜寺の砦を陥れて敵五百余人を討ち、関ケ原合戦当日は敵陣南宮山を牽制した功績、さらに戦後京都御所を守衛し、京都市内の治安維持に努めた功績等を高く評価し、同年十月、紀伊国において高三七万六五六〇石余を与え、和歌山城に移らせた。
 翌六年二月、家康は甲斐国を直轄地とし、政務処理のために甲府城代を設け、禄高六万三、〇〇〇石の重臣平岩親書をこれに任じた。
 ついで同八年一月、家康は当年三歳の九男五郎太を甲府藩主とし、親吉を城代とした。
 慶長十二年間四月、甲府藩主徳川義利(五郎太政め、のち義直)は尾張国名古屋藩主に転じ、城代平岩親吉も同国犬山城主となった。
 幕府は、甲府城の重要性にかんがみ、奉行小田切茂富・桜井信忠の両人に本丸を守らせ、武川衆・津金衆のうちから一二人を選んで城番を命じた。この一二人を武川十二騎という。
 山高親重も馬場信成・米倉信継・知見寺盛之らとともに武川十二騎に選ばれ、甲府城番として甲府城を警衛し、民政にもあずかった。
 慶長十九年の大坂冬の陣に活躍したが、翌年の夏の陣には京都にいて出陣しなかった。
 元和四年(一六一八)将軍秀忠の三男忠長が甲府に封ぜられると、武川衆はこれに属し、同八年忠長が信州小諸城主を兼ねると、武川衆は小諸城番をも勤めた。同九年秀忠が退いて家光が将軍職につくと、かねてから不仲であった忠長との軋轢が表面化し、寛永八年五月には大逆の汚名のもとに甲府へ蟄居を命ぜられた。遂に翌九年六月には改易となり、
翌十年十二月六日、講地上州高崎で自刃した。
 忠長の家臣らも連坐し、武川衆もすべて禄を失って処士(浪人)となり、郷里に退いて謹慎した。
 山高親重は謹慎一〇年ののち、寛永十九年十二月十日、再出仕の命を蒙り、本領安堵の上、大番勤仕を命ぜられた。大番は書院番とならんで両御番と呼ばれ、旗本のうちで最も名誉とされる将軍家護衛の部隊とされていた。
 親重は大番現役のままで慶安二年(一六四九)八月九日に没した。七十五歳。傑山親英居士と註した。妻は武田家の臣跡部紀伊守景孝の女である。
 親重の嫡男信保は、宗家の信直の養子となった三左衛門信俊の弟である。信保は慶長十一年の生まれで、通称を五郎左衛門といった。
 元和二年、十一歳で将軍秀忠に謁し、同四年父親重とともに甲府藩主徳川忠長に仕えた。
 寛永九年忠長の改易に伴い、処士として山高村に退き、謹慎した。この時の生活について、『寛政重修諸家譜』の信保譜の一節に「かの卿罪かうぶらせ給ひしのち流浪し」と見えているが、これは誇張した表現であろう。というのは、親重・信保父子は禄を取り上げられたとはいえ、山高家には祖先伝来の私領いわゆる名田手作前があったはずであり、それに譜代と呼ばれる家の子郎党の裔がいたと思われるから、塾居・謹慎はともかく、流浪というような事実があったとは信じられない。
 やがて一〇年の歳月は経過し、寛永二十年七月一日に再出仕の恩命があり、将軍家光に謁した。約一年間は非役であつたが、正保元年(一六四四)六月には父と同じく大番に列する栄誉を担い、慶安元年八月の父の死により、同年十二月父の遺跡を継いだのである。
 それより一二年後の万治三年 (一六六〇) には駿河国の富士川・由比川の堤防工事を奉行した。信保は土木技術に長じ、地方巧者としてすぐれた行政的能力をそなえていた。その結果、翌寛文元年五月には石見代官を命ぜられた。石見代官は石見奉行ともいわれ、幕府直営の石見銀山の支配に当たる要職である。
 近世日本の銀の比価は金一両(四匁二五グラム)に対し、銀六〇匁(二二五グラム)で、外国に比べておよそ三倍に近い高値であったから、銀を産出する石見・但馬の銀山は幕府の宝庫に相違なく、代官には清廉の能吏を任用した。これによっても信保の人柄が推察されよう。
 この年、信保がこれまで知行した山高村の采地を、下総国相馬・菖飾両郡のうちにうつされ、甲州とのつながりも絶えてしまった。
 信保は石見国在任中の寛文十年五月二十七日、病んで没した。享年六十五。法名寿石。
❖山高信澄 
信保の遺跡は嫡男信澄が継いだ。信澄は、寛永六年に誕生、正保二年に十七歳で将軍家光に謁して大番入りを命ぜられた。寛文四年正月賄頭に転じ、役料二〇〇俵を与えられた。同十年、職務精励の廉で一三〇俵加増された。
 賄頭というのは、江戸城内の膳所・奥・表それぞれの台所 (調理場)へ、米麦・魚肉・読菜など、いっさいの食料品を供給することをつかさどるもので、若年寄支配下にあった。
 信澄は宝永二年七十七で没した。法名道光。
❖山高氏と高龍寺
 山高氏の初期の菩提所は、府中一蓮寺であったと思われる。高龍寺が開創されたのは、『甲斐国寺記』によれば、「山高越後守源信之天文元壬辰年()建立」とある。『甲斐国志』には、「山高孫兵衛親重ノ開基ナリ」とあるが、これは誤りで親重は中興開基とすべきである。
 信之が開基した当時は高隆寺といい、その旧跡をいま寺窪といっているが、そこは集落から離れた低湿な地で、寺地に適しなかった。
 信之から五代目に当たる親重は、別家を創立して祖先以来の名字の地山高村を采地に与えられたのを機に、慶長十六年に伽藍の敷地にふさわしい地を相し、寺窪にあった高隆寺をそこに移して伽藍を整備し、山梨都下積翠寺村の興国寺第一〇世康山文券和尚を中興開山に講じ、自身は中興開基となったのである。
 親重は高龍寺をたんなる禅寺とするに甘んぜず、禅風挙揚のために雲水修行の法隆寺院にしようと、秀吉・益道南和尚の何には客殿造営の準備をととのえたが、慶安元年、工事着手を前にしながら病死してしまった。
 そこで親垂の嗣子信保は亡父の遺志を遂げようと、客殿の造営につとめ、是鏡和尚の代に当たる慶安三年に落慶を見、江湖僧を置いて修行をさせることになった (江湖僧とは、『甲陽軍鑑』に「学問僧を(中略)洞家にては江湖僧と云い、関山派にては衆寮衆と申され候」とあるように、曹洞宗の
修行僧をいう。)。
 親重の生前の意志は高籠寺を法瞳寺院にするにあった。法隆寺院とは、法幢を立てることのできる寺院ということで、法幢とは、禅寺院で、説法・法論などのあることを示すために立てるのばり(瞳)のことである。法幢を立てるには多年の修行とその実績が長老らに認められることが必要で、武田勝頼が大泉寺に与えた「分国曹洞門法度之追加」の第一条に  
江湖ノ轟侶、嘉声ヲ関東関西二発セズ、アマツサヘ名利
ノ頭首ヲ一向二勤メザル未徹漠ハ、タトヒ知識ノ印証有
ルモ、法幢ヲ建テ児孫ヲ立ツベカラザルノ事
とあり、また「天下曹洞宗法度」の第一条にも、
三十年ノ修行成就ノ人ニアラズシテ、法幢ヲ立ツル事。をきびしく禁じているのが、その証拠である。
 親重が、高龍寺をたんに山高家の菩提所とするのにあきたらず、江湖僧を置き、法憧を立てることのできる、すぐれた内容をもつ禅道場にしたい希望をもっていたことを知った嗣子信保が、亡父の遺志を遂げるように努め、遂にこれを実現したことを知るのである。
 信保は、さらに菩提所高龍寺の経済的安定を確保するため、広大な寺領を寄進した。高龍寺近辺に開墾した田畑合計三一筆、面積一町七反七畝九歩。この分米一〇石であった。
 信保は、慶安四年十月九日に、この間の事情を詳しく記した覚書を高龍寺に贈った。そのあと、信俊の兄で宗家の当主になっている信俊に相談し、兄弟連署の書状を作成し、これを高龍寺の本寺、興因寺に贈った。それは次のようなものである。
  謹んで啓上いたし候、したがつて先祖菩提所山高村高隆
寺、古来本尊これなく御座候。然るところに父親英居士
(親重)近年存じ立ち、寺取り立て申すみぎり、死去い
たされ候。これにより、拙者共、去る秋建立つかまつり、
是教和尚に申し請い、住居し来り候。かの地の文券和尚
を開山に奉じ、興困寺の御末寺につかまつりたく仮の旨、
親英望み置かれ候。しかしながら小地の儀に御座候のあ
いだ、御末寺諸役の義、末代に・いたるまでかの寺を御
免許下され候様に、御約諾つかまつりたき由、かたく申
し置かれ供。か様の旨、御同心においては、向後の証拠
として尊墨を仰ぎたてまつり侯。恐憧謹言。
             山高三左衛門 信俊 (花押)
             山高五郎左衛門信保(花押)
 (慶安四年カ)十一月四日 
  猶なお、右の段自由のいたりに御座候はば、他の儀いら
い続きがたく存ずるところに御座候、遠国について尊顔
を拝せずして件の仕義に御座侯、以上
 
右の山高氏兄弟の連署書状によって、高龍寺の中興ならびに、もと無本寺であったのに、興困寺末になった事情が明らかになる。山高別家は、親重以後においても信保・信澄と人材が輩出し、名門たるに恥じない。
 信保の次男信久が創立した第三の山高家も、有能な人材が輩出し、禄高も五〇〇石に至っている。
 山高氏一族がそろって明治の廃藩置県まで家運を維持できたことはめでたい限りである。

北杜市武川町 唐土大明神旧記&山高氏

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北杜市武川町 唐土大明神旧記
(武川村誌 一部加筆)
 
解説
 「唐土大明神旧書記」という標題の山高八左衡門信賢の歌集である。
山高信賢(一六五六一七一三)は山高家二十四代であり、柳沢吉保の姉の子にあたり、和歌にも堪能で正徳二年九月、五十一歳の時山高幸灯宮に自筆自詠和歌百首を奉納した。奉文を書いた山高八左衛門信礼(一六七九~一七四八)は山高家二十五代であり、奉文にあるように、享保七年十月、将軍吉宗が下総の国瀬崎に鷹狩に行った際、供奉して船中にて菱喰雁を射とめ褒美を貰い、その弓に奉納文をつけて幸灯宮に奉納している。山高氏が文武両道の達人であったことの一つの証左といえよう。
 
 「山高八左衛門信禮唐土大明神旧書記」
  奉文 享保七壬貢歳(一七二二)十月十八日
 征夷大将軍吉宗公御鷹狩之為供奉帯弓箭至武蔵下総之堺角田川而乗小船射留菱喰雁之時北風烈吹浪高牟不依神徳者如何豈有得利哉其後於殿中為褒美美服三領下賜之徹感応骨髄之余記微志納訖。
    吉田流弓道大蔵派松倉六良左衛門指南
        山高八左衛門尉源信礼 花押
《読み下し》
 征夷大将軍吉宗公御鷹狩りの供奉の為、弓箭を帯び、武蔵下総の堺角出川にて小船に乗り、菱喰雁を射留る暗北風烈しく吹きて浪高し。神徳に依らずんばいかんぞ凱利を得るあらんや。其の後殿中に 於て褒美と為て美服三領これを下賜せらる。徹感骨髄に応ずるの余り、微志を記してこれを納めおわんぬ。
奉文
 正一位唐土大明神者ハ元祖ヨリ以来崇奉リ猶文名字之末流ニ至ル迄恵窓事今以小少尊敬ノ余リニ集置ル。白詠ヲ自筆シテ心ノ実ヲ宝前ニ供奉ル。
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