小淵沢町文化財 中原遺跡
『小淵沢町誌』小淵沢町及び北巨摩の遺跡報告書
八ヶ岳南麓標高九二〇メートルの尾根上にあるこの遺跡は、国鉄中央線の小淵沢駅北西約一キロメートル、中央自動車道小淵沢インター出口に位置している。
国鉄小海線が小淵沢駅を出て、清里方面に向うため西から東へ大きな半円を描いたその中心にあって、古来より八ヶ岳の代表的な縄文時代遺跡として知られていた。北側にある井詰湧水はこの遺跡に直接関係をもち、八ヶ岳山麓の遺跡はこうした遺跡の近くにある湧水を無視することはできない。
昭和七年発行の北巨摩教育会郷土研究部編『郷土研究第一輯、先史原史時代調査』によれば、縄文時代の壺・要形土器・把手・土偶・耳飾り(滑車型)、石錐・石匙(いしさじ)、打製石斧・摩製石斧(いしおの)、石包丁・石棒・石剣・石皿などが発見され、それらの遺物は当時の小淵沢小学校や、地元の小尾森造・清水義邑らによって保管されていたことが当時の記録に残されている。
現在その遺物は四散して行方がわからないが、その後有孔鍔付土器や大型深鉢土器が農耕中に発見され、井戸尻考古館に於いて復元展示されたことから、全国的にも中原遺跡の名はよく知られるところとなった。特に有孔鍔付土器は全国的にも最大規模のもので、胴を飾る文様はマジカルで特異のものである。
昭和四十七年十一月より十二月の二か月間、中央自動車道建設用地内の発掘調査が県教育委員会によって実施された。調査区は遺跡北側の東西二〇〇メートル、南北五〇メートルの約一万平方メートルである。この中から縄文時代中期住居跡九軒、同後期住居跡一軒、平安時代住居跡三軒、縄文時代土墳、配石遺構などが検出された。縄文中期の住居群は東群と西群に分かれ、あたかも対略しているようであるが、分布調査の結果では、調査区南側の広い区域で両群は結びあって、大きな半円形をなした集落で奉ったと想像される。
特に南側からは中期中頃の大きな土器片や石器が表面採取できることから、古い時期に南側に住んでいた人々が、住居を建て替えるたびに北側へ移り住んだとも考えられる。また、古い資料によれは後期晩期に多く使用された滑車形耳飾や石剣が出土していることからも当時の集落が想定される。これは八ヶ岳南麓の縄文時代集落跡として最も代表的な遺跡と言える。さらに、平安時代の住居群が発掘されたことによって、この時代に八ヶ岳山麓に住んでいた人々の足跡を知る上で重要な遺跡である。