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山梨県甲州市勝沼 柏尾で抗戦した近藤勇

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柏尾で抗戦した近藤勇
(『山梨県歴史の旅』 山梨県観光連盟監修 堤義郎氏著)
幕末の風雲がさかまいた慶応三年(1867)夏ごろから、にわかに「ええじゃないか」という奇妙な踊りが、東海・近畿を中心に多くの地方へ広がった。 
それは民衆を押し包み、押し出すような勢いであった。
ええじゃないかええじゃないか
くさい物に紙をはれ破れたらまたはれ
ええじゃないかええじゃないか
こんな歌を、時には野卑な文句にかえて鳴物入りでうたい、狂ったような人びとが夜も昼も踊りまわった。人気のよくない家へ舞いこみ、勝手に酒をあおったり、品物をかつぎ出したりするので、町役人がかけつけても何のききめがなかった。だれが始めたのかは、わからずじまいになったが、何でもお伊勢様のお札が空から降って、おめでたいことが起こるとの話によるらしかった。幕府当局者は、この騒ぎをただあきれ顔で見ていた。
ねらわれた甲府
だが、「ええじゃないか」の乱舞がどうにか鳴りをひそめたら、民衆にとっては物騒なうわさが伝わってきた。その年の暮れ、江戸にいる薩摩藩の武士たちが甲府城の乗っ取りをたくらんでくり出し、幕府の八王子守備隊に打ちのめされたばかりか、さらに薩摩藩邸が幕軍の砲撃をあびて焼かれたというのである。
それから幾目もたたぬ慶応四年一月、京都の伏見・鳥羽で慕府の兵と、長州・薩摩・土佐の兵が激戦をまじえ、幕軍のみじめな敗戦を招くと、十五代将軍に就任したての徳川慶喜はほうほうの江戸へ逃げ帰った。京都に生まれた新政府は徳川慶喜追討の令をかかげ、二月なかば、薩・長・土三藩の兵を主力とする東勇征軍が三方から錦旗をひるがえして進発した。
折りも折りの三月一日、慕府が和戦両論にわかれ、騒然とした江戸を出て、甲州街道を下り始めた武装集団があった。
彼らは甲陽鎮撫隊と称し、隊長は大久保大和剛といっていたが、実は京都で泣く子もだまされた新撰組の近藤勇だった。
 
新撰組の残党ら
鎮撫隊の隊員とは、新撰組の残党や幕兵などをかき集めて二百人前後。
小銃をそろえ、大筒といわれた小型の大砲二門を大八車に乗せて引いた。軍用金には慕府から五千両を引き出し、めざす甲府城の獲得に成功すれば、隊長は十万石、その他の連中も恩賞にあずかる約束をとりつけていたようだ。
近藤勇は武蔵多摩郡石原村(搬棟欄)の出身で、剣をとれぱ天然理心流の達人とされ、幕術仰治安強化による浪人募集に応じ、京都守護職のもとで新撰組が結成されると、ライバルの芹沢鳴を暗殺したかどうかして隊長になった。市中見まわりを命じられ、特にねらいをつけたのは尊王攘夷の運動家で、元治元年(1864)の池田屋襲撃は尊接派に大きなショツクをあたえた。
だから、のちのちまで天下の志士を追いまわした元凶とみなされ、小説や映画のかたき役にされたが、ひっきょうは「勝てば官軍」時代の悪役であろうか。 
数年もの間、命をまとの新撰組をきびしく統制した手腕をみれば、凡器ではなかったと評価してよかろう。
一日違いで後手
江戸を出発した甲陽鎮撫隊は、軍用金もたっぷりとあって新宿で前祝いの散財遊びをやり、隊長の出身地では大歓迎をあび、だいぶ時間をつぶした。近藤勇は大名のように、威勢よくカゴに乗って行った。甲州街道は途中から雪どけで難行軍となり、隊員のうち数十人がゆくえをくらました。
三月五日先頭が残雪の笹子峠を越え、駒飼の宿場に着いたら、意外に甲府城にはすでに東征軍が入城しをいう。彼らは一日ちがいで、先を越されたのだ。それでも、近藤らはひるまなかった。
脱走者の補充は土地のあばれ者を狩り出すときめ、とりあえず柏尾まで進出して柏尾坂の上に陣取った。
要所を固めて、付近の家から提供させた薪をドンドン燃やしながら、景気よく気勢を挙げる。そこに布陣したまま、副隊長の土方歳三が横浜から千人の援兵くるというのを待つことにした。強そうな武士の一隊が乗り込んだと知って、ぽつぽつ参加を申しこむ者もあったし、すべてはうまく運びそうに見えた。
弁当もちの見物
柏尾の山中から、近藤勇は甲府の町奉行にあてる手紙を屈けさせた。
「甲府取締りを命ぜられ、まかり越したるところ、官軍すでに入城のおもむき、われわれは官軍に抵抗する気は毛頭なきにつき、貴殿のお取計らいをもって進軍を差し止めるよう官軍の大将へ申出られたく」といった内容である。まるで子どもだましだ
いつの間にか、見物の群集が続々とおしかけてきた。ワラジ履き、弁当持ち、身じたくは十分に、日川の岸や山々の中腹は、みるみるうちに黒山の人でうずまった。その見物人が六日朝、わっと声をあげたが、それも道理、甲府の方から東征軍の大部隊が急行してくるのが見えた。
東征軍の行動は素早かった。信州下諏訪で甲州路へ送りこんだ支隊は、甲府城にはいると、近藤らの迎撃を知ってたちまち千人余の部隊を向かわせたのである。この指揮をとった谷守部はのちに干城と名乗り、九州の西南戦争で勇名をあげ、わが国最初の農商務大臣に任ぜられた。東征の軍を起こしてから、はじめてぶつかる敵兵である。
「いよいよ、きよったな」
両足をふんばっていた近藤勇は、相手の軍隊をみとめてにやりと不敵な笑いを浮かべた。
破裂しない砲弾、
東征軍は棉尾にせまると、まず三隊にわかれブドウ畑に散開して攻勢をとった。その一隊には天下の糸平と名を売った飯田商人の困中糸平が案内役をつとめた。土佐の砲兵隊が砲撃を開始する。けたたましい銃声がとどろく。せまい山峡は、きな臭い煙硝のにおいがたちこめた。
じりじりと、攻撃洪進んだ。午後、鎮撫隊が設けた二重のサクが破られ、正面を攻めた一隊は坂の下へ肉薄したものの、行く手は大木が横たえられ、民家が放火にあって燃え出した。おまけに上の方から銃撃のねらいうちとなっては攻める側の苦戦である。
息をつめていた観衆よりすれば、こんないい見せ場はない。「山上にて見物せる数千の男子、東のものは新撰組に加担し、西のものは官軍に加担し、我知らず山を下り、それ打て、やれ打てと官賊の戦争とみに百姓の戦争と化さんとす」
と書いた本がある。ちとオーバーな感じはするが、この大事のときに、鎮撫隊の方は重大な誤算を生じた。
砲術係の結城無二三が、部下十五人ほどを連れて味方になるものを募るために山を下りたまま帰っていなかったので、せっかく苦労して持ってきた大砲は発射の方法がわからず、口火を切ったから砲弾がすぽりと落ちるだけだった。それをみやげに拾った人もいた。
遠まわりの成功
その間に、間道通つて西南の岩崎山へ登った東征軍の土佐兵が一斉射撃を放った。敵は少数、破裂しない大砲を撃つのだから負けはしないと見た。
これで鎮撫隊は崩れた。乱戦が起こる中を、佐々木一という者が斬り回って血路を開き鶴瀬の宿場まで後退して陣を立て直そうとしたが、もはや大勢は明らかだった。
v近藤らは足をひきずって敗走を重ね、三十人ほどの者は川ぞいに天目山の方面へ逃げた。見きりをつけて、脱走する者が続出した。
彼らは八王子で解散したが、むしろ消滅の形に近かった。戦闘が激しかったとはいえ、双方の死傷は数十人を出なかったようだから、めっぽうの拘ち合いをしたのだろう。
七日から、東征軍は追撃に移った。途中の家を怪しいと睨めば、荒々しく捜索にふみこみ、残敵はその場で斬った。十四日、ゆっくりと新宿に到着。江戸では最早、新政府を代表する西郷隆盛と、幕府方の勝海舟が、江戸城開城の条件をめぐる談判を行っていた。
捕えられた近藤勇
近藤勇はどうしたかというと、混乱する江戸を走り抜けて下総流山に行き、また募兵を集めにかかったが、結局は新政府軍に捕らえれた。板橋本陣での調べで、なぜ甲府へ行ったかとの詰問に「命を受けて参った。甲州は人心のけわしい所で、官軍御通行のみぎり、いかようの挙動に出るかもはからず順撫のため命じられたことである」と答えたとは、しらじらしい弁解になろう。薩摩藩は寛大な刑をとなえたらしいが、強硬な意見が多く死罪ときまった。四月二十日、黒紋着を着て刑を受け、首は京都へ送られ三条河原にさらされた。三十五歳であった。
ところで柏尾の山を下りたままになった大砲さしず役の結城無二三だが、この人は勝沼方面で味方になる者を集めているうちに、情勢が急変して動きがとれなかった。甲州の生まれだから、すきを見て市川大門へのがれ富士川沿いに東海地方へ出た。明治になったらクリスチヤンとして帰郷・塩山などで熱心に伝道活動を続けたり、乳牛を飼ったりして、その変わりように人びとは目をくるくるさせた。

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