韮崎市 武田の里
願成寺
韮崎駅からバスで10分、願成寺下車徒歩五分。
国指定重要文化財の木造阿弥陀如来と脇侍像がある)
韮崎駅の南東を流れている釜無川にかかる武田橋を渡ると、大きな堂宇が見えてくる。地元の人たちが「御堂」と呼ぶ願成寺である。この寺は、武田氏の始祖である武田信義を開基として再興された寺で、後白河法皇から鳳凰山の山号を賜わったという甲斐の名刺である。
甲斐の中世史をいろどった武田氏の始祖武田信義とは、清和源氏の一流である甲斐源氏の祖源新羅三郎義光の曽孫にあたる人物。その信義が活躍した時代は、ちょうど伊豆に流されていた源頼朝が平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉に幕府を開いた時代と一致している。
頼朝が平氏打倒の兵を挙げたとき、信義をはじめとする甲斐源氏の一統は、もちろん頼朝支援のために挙兵した。とくに、あまりにも有名な治承4年(1180) の富士川の戦いで、甲斐源氏が果たした役割は大きく、その後の源氏の勝運を決したといっても決して過言ではない。
信義は駿河守護となり、頼朝の御家人として大いに活躍したのであったが、やがて、甲斐源氏の勢力は頼朝の排除するところとなり、信義は失意のうちにこの世を去った。一族の中には頼朝によって謀殺されたものも多かったというから、戦国の世は恐ろしい。
願成寺の境内には、その悲劇の武将武田信義の墓がある。本堂から西へ一100メートルほどいったところが墓所で、信義と夫人、乳母の三体の五輪塔がひっそりと立っている。信義の無念を思いながら眺めると、その思いがなんとなく伝わってくるような気がする。
ところで、この願成寺の本尊は、国の重要文化財にも指定されている阿弥陀如来三尊像。寄木造りで金漆箔が施された仏像は、藤原時代末期の作とされ、かすかな微笑をたやぇたその表情は、まさしくおだやかそのものである。昭和三六年に保存庫が完成し、仏像は今ではコンクリートの建物の中に安置されている。(昭和58年記)
武田八幡神社
駅からバス15分、武田八幡入口下車徒歩五分。信玄再建の広壮な本殿が建つ。
韮崎市民俗資料館
駅から徒歩20分。
韮崎市 甲斐きっての武田八幡神社
顧成寺の裏道から舗装道路へ出て、西へ二〇分ほど歩くと、森の中にある武田八幡神社に到着する。この神社は、平安時代に宇佐八幡宮が遷座したものとされ、その後、石清水八幡宮の御霊を勧請したという甲斐きっての由緒正しい八幡宮である。とくに、武田信義は氏神としてこの八幡宮を崇敬し、手厚い保護を加えたという。なお、現在みられる同神社の本殿は、戦国時代に武田信玄が再建したもので、国の重要文化財に指定されている。
鳳凰三山への道・甘利山
武田橋の一つ下流にかかる橋が舟山橋。この橋を渡ると甘利山入口となる。標高1672メートルの甘利山は、今では頂上まで車で行かれるようになったが、歩けば、たっぷり4時間はかかる。六月のレンゲツツジの開花期にで、林道は埋まってしまう。甘利山の頂上付近には、レンゲツツジのほか、アツモリソウ、スズラン、シモツケソウといった高山植物も生育しており、まさに高山植物の宝庫といったところだ。
甘利山は、南アルプス鳳風三山への前衛にあたる。甘利山から千頭星山までのルートは、なだらかな草原。しかし、千頭星山から辻山までのコースは、ツツジ(躑躅)を見ようとする人たちの車で、林道は埋まってしまう。甘利山の
頂上付近には、レンゲツツジのほか、アツモリソウ、スズラン、シモツケソウといった高山植物も生育しており、まさに高山植物の宝庫といったところだ。
甘利山は、南アルプス鳳凰三山への前衛にあたる。甘利山から千頭星山までのルートは、なだらかな草原。しかし、千頭星山から辻山までのコースは急坂となり、ゆうに三時間はかかる。
この辻山から南御室小屋までは尾根を辿っての一時間コースとなる。
この鳳凰三山への登山ルートは他にもあり、夜叉神峠からのコースが最も楽でポピュラーであろう。しかし、甘利山からのコースは途中の風光、高山植物の豊富さなどからいっても抜群で、なかなか捨てがたい。
韮崎文学碑めぐり
韮崎駅に降り立つと、サッカー少年の銅像がある。韮崎はサッカーの盛んな町で、昭和五七年一月に行なわれた全国高校サッカー選手権大会で、韮崎高校チームが準優勝に輝いたことはよく知られている。
そのサッカー少年の銅像の前に北原白秋の歌碑があり、碑面には
「韮崎の白きペンキの駅標に 北滞日のしみて光るさみしさ」
と刻まれている。明治四二年の十一月、白秋は信州小諸からの帰りにこの韮崎駅へ降り立ち、この歌を詠んだ。当時二四歳であった白秋には、このときまだ癒えぬ失恋の思いがあったのだという。
周五郎の名作『山彦乙女』の世界
平和観音の立像がある七里岩の突端あたりは、市民公園となっているが、ここには、山梨県出身の作家山本周五郎の碑がある。周五郎は大月市で生まれているが、本籍地はこの韮崎とした。碑面には、韮崎を舞台とし、武田家再興に悲願をかけた男をテーマにした周五郎の名作『山彦乙女』の中の一節が刻まれている。
「葦火が四つ、火花をちらしながら炎々と闇を焦がしていた。そのゆらめく光りが、巨きな杉の樹立と、大社づくりの古びた神殿と、その前に設けられた、方四間の舞台を、照らしだしていた。神殿の席には、四つ目菱の紋を打った幕が張ってあり、扉を開いた内陣に、白の大口に腹巻を重ねた老人一人(それはみどう清左衛門であった)が、神燈を護るかのように、端坐しているのが見える 」
これは四月一一日の夜半に、武田家再興を祈願して催される薪能の場面を
描写したものだが、『山彦乙女』には、他にも韮崎市内の武田氏にちなんだ史
跡がふんだんに登場しており、とくに、先にみた願成寺、武田信義の墓、新府城、武田八幡神社などは重要な舞台となっている。
碑面の裏には、「旺盛なる精神力の人、意欲的の人にして平素泣きごとは言わない根性の人なり」と周五郎の人となりが刻まれている。
周五郎の碑の近くに夙(こがらし)塚といわれる句碑が立っている。
「木からしに吹きとかる杉聞かな」
という句は芭蕉のものだともいわれるが、定かではない。
小林一三 宝塚創設者
さて、韮崎には明治末年に、一代で阪急、東宝、宝塚を築きあげた財界の大立者小林一三の生家跡がある。彼は文字通り明治の立志伝中の人物だが、単に財界に君臨しただけではなく、戦争中の第二次近衛内閣に商工大臣として入閣した政治家でもあった。現在、生家跡は児童公園になっていて、園内には老人いこいの家などがある。小林一三翁生誕一〇〇年の記念碑などもあって、市民くつろぎの場ともなっている。
市民の熱意が建てた民俗資料館
山本周五郎の文学碑が立つ七里岩上を北へ一五分ほど行くと、昭和五五年三月にオープンした韮崎市民俗資料館がある。一帯は桑園なので、赤い屋根の市立老人ホーム「静心寮」と隣り合わせの鉄柵朋コンクリート二階建ての資料館は遠くからでもよくわかる。
昨今の歴史・民俗ブームで、県内の各市町村では歴史民俗資料館の建設が意欲的に進められている。その際の資料館の建物の多くは、旧家屋を利用したものが多く、韮崎市の場合のように、市が予算を組んで、立派な建物を建てたというケースは少ない。韮崎市の場合は、韮崎市を構成する旧村十一カ村の文化活動がそれぞれに盛んであり、市民の聞から文化的遺産を後世に残そうという声が起こり、まったく新しい資料館の建設が実現したものだという。市民の歴史・民俗に対する深い理解が、新しい資料館を建設させたという稀有な例ということができよう。
二五〇万円で再現した農家の居間
展示品の多くは、明治から昭和初期ごろまで使用されていた農具が中心となっているが、歴史民俗資料の調査、リストアップなどの作業は、文化活動を推進する市民の手によってなされたものであるという。
展示品の目玉は、二階のすみに復元された明治初期の農家の居間であろう。これは資料館の建設費総額六七〇〇万円中の二五〇万円を投じたといわれるだけあって圧巻である。居間には囲炉裏を中心にして生活する当時の人びとを模したロウ(蝋)人形が置かれてあり、昔を知らない若い世代にとっては、得がたい教材となっている。
諸説さまざま〝ニラサキ〟の由来
韮崎の地名の由来については、じつにさまざまな説があるが、韮崎市出身の郷土史家佐藤八郎氏は『甲斐地名考』の中で、それらの説を次のように幼和介している。
まず、漢学者でもあった大森快庵が『甲斐叢書』で説いた(「按ずるに、ニ
ラはニラミの略語にて、七里岩の突端が船山と対立し、相睨む如きより名づきしならん」)ニラミ崎がニラ崎となったとする説。
ついで、甲斐の地誌の原典『甲斐国志』(文化一一年=一八二四・甲府勤番支配松平定能編集)にある「韮崎トハ片山七里岩、連綿卜長ク細ク韮ノ葉ノ如ク延ビタル岩井、屈然トシテ尽クル所ナレバ韮崎卜名ヅク」という説が紹介されている。
さらに、『韮崎町制六十年誌』(昭和二六年刊)中では、郷土史家赤岡重樹
氏が、七里岩の上にニラの群生があったことから、韮崎の地名が生まれたとしているという。この赤岡氏の説を受けて、韮崎の民俗学者山寺仁太郎氏は、ニラは古代人の生活の資として重要視されていたから、ニラの多量に産する土地は大切な土地とされ、そういう土地にニラの字を付すことは、ごく自然な地名の命名法ではないかとされているという。
それはともかく、韮崎という地名は、甲州街道が江戸幕府によって統轄されたとき、河原部落と高下村を合わせて「韮崎宿」として採用されている。もっとも「韮崎」の地域をもっと広大に解する見方もあり、武田勝頼が築城した新府城を「韮崎新城」と記している史料もある。いずれにしても韮崎という地名が肯いものだということに変わりはない。