信玄堤
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
さきに石和のところでもちょっと触れたが、甲州の国中地方は、昔から洪水の瀕発する厄介な土地として知られた。四方の山々に降る雨は、笛吹川・大武川・御勅使川・釜無川・荒川など無数の網の目のような流れとなってこの盆地に集注するが、この多量の水のはけ口はわずかに富士川の渓谷一路のみである。
富士川は日本三急流の一として知られるが、如何に急速につっ走ってみても、多勢に無勢で、とうていはききれない場合もある。淡水はとうぜんのつきものといったような国柄である。
吉田東伍は、藷川の親分格の釜無川について
平時清浅にして、一帯の渓流のみ。而も秋夏涼にあたれば、暴璧還、濁流汎濫、故に四五首間の広さに及ぶ所あり。
と、ほぼその性格を描いているが、「甲斐国志」になると、一層適確に語っている。
南方崕絶る所を竜王鼻と云。古は其下深淵森漫たり。是より河灘東南へ向ひ、中郡有数村は皆水下に在りき。或時は荒川に会し、或時は笛吹川を突き、乱流極まり無く、石和に奔溢せりとぞ。
国土経営は、治水と用水とを二大根幹とする。用水の妙を発揮した例は武蔵野開発などにみられ、治水の妙は甲斐武田にみられる。甲斐の洪水にほとほと手を焼いた武田信玄は、二十年間という長い試錬に打ち勝って、狭い国土を極限にまで征服し、ついに豊能な農業圏を作りあげた。
庶民のたゆまぬ協力のあったことはいうまでもない。
信玄の治水法は、自然力で自然力を相殺するという事を基本としたという。水の奔流するところは敢て逆らわず、なだめすかしてその突流を緩和する事を主眼とした。その自然順応の苦心のあとは今も随所に残っているが、その代表的なものに、中巨摩郡竜王町にある信玄堤がある。
これは釜無川が御勅使川を合流する地点の対岸に作られたもので、天文十一年(一五四二)に河除け工事に着手、将棋頭・掘切・十六石・霞堤など前人未発の妙計をもってし、二十年の歳月を費やして完成したものである。
しかし、治水そのものは最終的な事業とはならない。そこに豊饒肥沃な田園が広々と霞み、幾千の農民が鼓腹撃壌する平和境を顕現してこそ目的は達せられる。信玄はこの堤が完成したとみると、今までの不毛の地に竜王河原宿を設
け、移住を奨励して、棟別役すなわち宅地住民税を免除し、荒地開墾のことに従わせると同時に、堤の巡視保護に当らせた。これで完成である。これが今の本竜王聚落である。
川は流れる。俗称信玄橋から信玄堤をみると、釜無川は素直に涼々として歌い、桜咲く堤の下を南へ南へと流れている。遠く霞の奥に富士のみ山も笑いかけているようだ。堤の上はかなり幅広で、松・榎・桜などの巨木が繁茂して、長いながい緑地帯を作っている。野鳥のさえずりが時には騒々しい。春の日永には、レジャーの人達でかなりの賑わいを見せるという。
ここに、飯田蛇笏翁の目のさめるような一文を紹介しよう。
カーバイド銃の空筒をかついだ老爺が果樹園の木隠れにあらはれ、ねらひもせずに腰のあたりへ筒を横たへたままでずどんと一発打放ったのは、この季節の名物威銃の響きである。それと薄煙りも見えない好晴の空、その空いっぱいに翔けむらがるおびただしい稲雀、一大合唱を天にみなぎらせて、あちらへ傾いたかと思ふと、颯とこちらへ流れかかり、さら又天の一方へと 翔け上る雲の如き大群である。
いま、稔りの秋はまさに関である。夢のごとく変転するに迅い世上、しかも又悠久なる故国の情、山河無韻のしらべをつたへてうたた感懐のふかいものがあるのである。 4
以上は「鵜飼霊地の秋」と題する随筆の末段である。とうぜん笛吹川あたりの叙景であるが、それとこれとは地続きで近い。秋ともなると、ここにもそうした風光が展開する。ツルゲーネフの散文詩でも読むようである。
堤下の一膳めし屋へ寄って、ライスカレーを食いながら、おばあさんから色々の話を聞く。小娘時代には橋がなく、渡し舟に揺られながら隣村へ往き来した話、北の方の並木の中で暴漢に襲われた荒っぽい話、甲府東方の一宮浅間神社の祭礼には、御輿がこの釜無川まで、「わツしょいわツしょい」、とやってくる話、ここまで来ると疲れはてて、「わツしょいわツしょい」、が「……」と疲れの合唱になるという話、この肝心な「……」の掛声をわたくしはつい忘れてしまったのだからだらしかない。
帰りしなに、おばあさんが珍しいものだといって、冷蔵庫から出して山独活(うど)を三本くれた。三寸ばかりのやつである。少し歩いてから貰ったマッチを出してみると「小料理・芳竜・竜王町信玄堤際☎2355」とあって、ちょっとがっかりした。とても「小料理」などという柄ではない。それに「芳竜」という屋号もつまらない。こういう時は、のんきで気楽な安あがりの一膳めし屋に限るのに……。