清和源氏が甲斐国へ 源頼信(新羅三郎義光の父)
(中世『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)一部加筆
そもそも清和源氏が甲斐国とかかわりを持ったのは、これよりさきの長元二年(一〇二九)、義光の祖父である頼信が甲斐守に任ぜられた時に始まる、というのが通説となっている。頼信は清和源氏の祖、源経基を祖父とし、また鎮守府将軍源満仲を父とする剛毅明快、武勇に優れた武将で、よく兵法に長じ、また甲斐の民心を得た人物であったとされている。治部権少輔から左馬権頭、伊勢守、陸奥守を経て甲斐守に叙任され、のちに上野介、常陸介、そして鎮守府将軍に進み、従五位に至った。
この頼信が武人としての名声を轟かせたのは、長元三年(一〇三〇)に起こった「平忠常の乱」で、一兵も費やさずに鎮圧したこと、つまり戦わずして平定したことによる。忠常の乱は平安時代中期の大乱として知られる平将門の乱(九三五~四〇)後、約一世紀を経て起こった東国における内乱で、長元元年、房総・武蔵地方に勢力を張る大家族に成長していた忠常が、安房の国衛を襲って国守の惟忠を討ったことに端を発する。朝廷は始め検非違便平直方に
討伐を命じたのだが、すでに三年の問に南関東一帯に武威を強めていた忠常が相手では容易に鎮圧することができず、直方による忠常討伐は失敗に終わる。
このため朝廷は直方に替えて甲斐守頼信や坂東諸国司に忠常追討を命ずるのであるが、これが意外な結末をもってあっけなく終息することになる。それはかねてより頼信の武勇を知る忠常は、頼信が追討使に任命されたことを知り、一戦も交えることなく板信が兵を動かす前に自ら甲斐に来て軍門に降ったからなのである。頼信は降人としての忠常を京都に護送することになるが、途中の美濃野上(岐阜県関ケ原町)で忠常は病没してしまう。
「忠常の乱」平定を即座に解決した頼信の武名は一層高まり、頼信はこの勲功によって美濃守に任ぜられて甲斐国を去ることになるが、のちに義光を始祖として起こる甲斐源氏が甲蓼国に強大な勢力を保持し、その曽孫らの協力によって鎌倉幕府が創建され、あるいは戦国時代の武田氏へと命脈が発展していく甲斐国とのかかわり合いが、さきに述べたようにこの頼信より始まったというのは以上のような経緯からである。
忠常の乱の鎮まったころより東国における指導権は桓武平氏から清和源氏へと移行、また領主制が形成されるようになった。(註、この頼信に所在に関する地域・史蹟・伝承も殆どない。山梨県は武田信玄のより、甲斐源氏新羅三郎義光を始祖としたために、頼信研究は遅れている。)
頼信の子、源頼義 義光の父
(中世『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)一部加筆
頼信の子頼義もまた父に劣らず、平安時代中期における名将の誉れ高き武将であった。さきの忠常の乱では父を補佐し、その後、天喜五年(一〇五七)には嫡子義家とともに陸奥へ遠征して安倍頼時を伏諌、さらに康平五年(一〇六
二)には煩時の子・貞任、宗任兄弟が反乱を起こしたため、鎮圧に向かい、まず貞任を厨川柵で滅ぼし、ついで宗任を降伏させるなど奥州十二年合戦ともいわれる「前九年の役」で軍功をあげている。そして父と同じく甲斐国守に任ぜられ、こうして父子二代にわたる声望、甲斐国はもとより東国各地の在地小領主層に大きな信頼をかち得るところとなり、東国地方における源氏の地歩を確立、その威勢はつとに高まった。この頼義の第三子が義光なのである。
頼義の第三子が義光(甲斐には来ていない)
義光は、はじめ左兵衛尉に任ぜられ、のちに刑部丞、常陸介、甲斐守を経て刑部少輔・従五位上に至り、大治二年(一一二七)十月二十日、七一歳で没した。一説には同年八三歳の高齢で没したともあり、これで逆算すると寛徳二年
(一〇四五)後冷泉天皇践昨の年の出生となるが、このあたりは定かではない。
義光の墳墓は近江国・天台寺門派の総本山、長等山園城寺の北方、新羅善神社手前に土饅頭式のりっぱな墓があり、「先甲院殿峻徳尊了大居士」と諡(おくりな)されている。この義光が左兵衛尉のとき「後三年の役」が起こり、兄義家が清原武衡・家衡を相手に苦戦していることを知るや、官奏して東下りを乞うたが許されなかったため、止むなく自ら官を辞して奥州に下り、義家を授けて乱を平定した。この功により刑部丞、やがて甲斐守に任ぜられるのである。
義光の甲斐国司受領については『尊卑分脈』や『武田系図』に、その記述のみられるところではあるが、その年次については、いま一つ確証を欠いている。
これについて佐藤八郎氏は『韮崎市史』のなかで『本朝世紀』・『為房卿記』などによる考証として、義光の甲斐守在任期間を「嘉保三年(一〇九六)から康和元年(一〇九九)までの一期四年間と論推されている。
義光の甲斐国守在任中の居館跡と伝えられているのは大城、またの名を若神子城(北巨摩那須玉町若神子)というが、義光の甲斐守叙任による甲斐国土着についての確たる史料の存在は認められない。
ただ『甲斐国志』古跡部には
「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」
と記されているが、上野晴朗氏はその著『甲斐武田氏』のなかで、このことに触れて「若神子は上代の逸見郷一帯の中心であって、その初期はこの地方の上代の豪族逸見氏の旧領であり、ここを義光が根拠にしていたのではないかと推定される」としている。
『甲斐国志』並びに『正覚寺伝』によると、同所にある曹洞宗の古刹陽谷山正覚寺は義光の子義清が父の菩提を弔うために建立した寺と伝えており、同寺には義光の牌子を置いている。
義光の武勇にまつわる伝説は、さきの足柄山吹笠伝授のほかに、奥州への道を急ぐ義光たちが大菩薩山中で濃霧のために道に迷っていたのを白髪の老農夫が峠まで案内役をつとめてくれ、礼をのべようとしたら霧の中に源氏の旗印し
である八旗の白旗のひるがえるのを見て、これぞ軍神の加護であると思わず南無八幡大菩薩と唱えた。これにより大菩薩峠と名付けられたという説話(『東山梨郡誌』)があり、さらに『口碑伝説集』には幼少時の義光が父頼義に伴われて新羅明神を参拝した際、神官が立派な御子に成長するよう祈願した折、自綾に花菱文様の織り込んだ打ち敷布を与えられたことからこの花菱紋がのちに武田家の定紋になったという伝説も伝えられている。いずれも源氏礼讃から生まれた説話であろう。
源義清 新羅三郎義光の第三子
(中世『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)一部加筆
さて、義清は新羅三郎義光の第三子で、刑部三郎・武田冠者と号した。『吾妻鑑』には安田冠者とも記している。刑部三郎とは刑部丞義光の三男ということであり、『武田系図』などによると、義清は承保二年(一〇七五)四月の生まれとなっている。『小笠原系図』には近江国志賀御所で出生したとある。四九歳で出家し、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没したとある。
しかし義清開基の若神子・正覚寺の牌子には法名を正覚寺殿陽山清公大居士、久安元年の没としており、その没年に四年のずれがある。長兄は刑部太郎・相模介と号する義業(常陸・佐竹氏祖)であり、
弟に刑部四郎・平賀冠者盛義(信濃・平賀氏祖)らがいる。
義清がはじめ武田冠者と号したのは、さきの任地が常陸国那賀郡武田郷に拠ったからであるとされ、一子清光とともに常陸国三の宮の神領を犯して濫行したことにより甲斐国へ配流された。ここで武田氏の出自は常陸・武田郷よりの発祥説が生じているのである。
ただ常陸国における義清・清光の父子濫行説については、義清の甲斐入部を天永年間とし、また清光の出生を天永元年とした場合、年代的に合わないことにもなるのであるが、いずれにしても、この義清が甲斐源氏のなかで最初に甲斐に土着した人物(磯貝正義氏著『武田信玄』)と目されているのである。
義清の甲斐入部は平安時代後期の天永年問(一一一〇~一一一五)ごろと推定されており、はじめ市河荘・青島荘の下司として市川・平塩岡(市川大門町)に居館を定めた。のちに逸見の地へ移り、大八幡・熱那・多麻などの荘園を掌握し甲斐源氏の基盤を築いた。義清がのちに逸見冠者と称したのはこのためであろう。
ところで、この義清が甲斐に入国したのは国司としてではなく、前述のように常陸国における漂の罰蔓って流罪されてきたという説の一つの根拠となっているのは『尊卑分脈』に「配流甲斐国市河圧」と記されていることからであ
るが、これに対して『二ノ宮系図』には「甲斐ノ目代青島の下司」として入部したと記されている。
『甲斐国志』も古跡部で義清流罪説に疑問を投げかけており
「京師ヨリ出テ外土ノ宰トナルヲ左遷、左降卜云フ、義清初メ官ヲ授カリ市
川ノ郷二入部シタルヲ誤リテ、京師ヨリ遷サルト憶ヒ配流卜記シタルナラン、必ズ流積ハ有ルべカラズ、「二ノ宮系図」ニ甲斐ノ目代青島ノ下司トアルヲ得タリトス、即チ市川下司力云々」
と記して流罪説には否定的である。
源義清 逸見冠者黒源太清光
(中世『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)一部加筆
甲斐入部の義清が、はじめに市河の荘・平塩岡に居館を構え、甲斐源氏の勢力拡大につとめて実質的甲斐に根を下ろし、名実ともに在地豪族としての姿をはっきりさせた義清こそが、甲斐源氏の実質的な始祖であると見るべきである
かも知れない。
やがて義清は逸見へ進出、勢力を拡大していくことになるが、これは父祖の頼信、頼義、義光と受け継がれた遺産ともいうべき八ヶ岳山麓開拓を継承するものであった。この義清の嫡男が逸見冠者黒源太と号する清光なのである。
清光は天永元年(一一一〇)六月十九日、市川・平塩岡の居館で生まれている。母は上野介源兼宗の女であるという。清光誕生のころは、父義清が八ヶ岳・逸見地帯へ勢力伸長を図っていたころであろうと考えられる。
清光が号した黒源太とは源氏の嫡家で使われた嫡男の通称であり、また逸見冠者と称したのは、のちに清光が峡北地方逸見荘園の経営に当ったからである。
逸見荘は塩川の上流、八ヶ岳南山ろくに開けた台地一帯という地形的にも恵まれ、古代からの甲斐三官牧(相前・真衣野・穂坂の御牧)や小笠原牧に近接している上に、信濃の佐久や諏訪地方へ通ずる交通上の要衝でもあった。清光が逸見荘経営の本拠地居城と定めたのが谷戸城であったとされるが、大八田(長坂町)の『清光寺伝』によれば、義清により逸見荘の荘司として経営を委された清光は、初め祖父以来の居館であった若神子館にほど近い津金・海岸寺続きの眺望のよい小丘に「源太城」を構築したが、あまりにも荘園の端に位置するため、八ヶ岳を正面として逸見台地を一望にできる谷戸に城を築いたのが谷戸城であるという。城は八ヶ岳の南山ろく、西寄りに位置しており、『吾妻鑑』治承四年(一一八〇)九月十五日の条にみえる「逸見山」に比定されている。別名を茶臼山、近世では城山とも呼ばれている標高八六二メートルの独立した丘陵である。
(註、このあたりの著述は歴史資料を持たない説。市川から逸見への進出の確かな資料提示が待たれる。地域の神社仏閣の由来を見れば山梨県中に新羅三郎義光の由来伝説が多くある。これは武田信玄が始祖としたことから始まるもので、後世につくられたものが多い。)