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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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真田丸 真田幸村の抜け穴と抜け穴合戦 叔父真田信尹

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真田丸 真田の抜け穴と抜け穴合戦

『名城の謎と怪奇』「不思議・伝説の城めぐり」早乙女貢氏他著
 
真田幸村の陣所となった〝真田丸″は、はじめ後藤又兵衛基次が大坂城平野口城門の出丸 として構築を計画していたものである。
 幸村はその出丸に目をつけ、大野治長や毛利勝永に申し出て、それを〝真田丸〟にすることの許可をとりつけた。
理由は叔父真田信尹が徳川家康の臣であるため、秀頼公からも二心があるのではないかと疑われているかもしれぬ。したがって、その出丸に真田一族が入り、平野口の城門を閉じれば、真田だけが城外に突出したかたちで残る。そうすれば秀頼公も安心であろうし、われらもまた思いきった働きができるというものである。
と、だいたいそういったことだったが、ひそかに、自分のための出丸として縄張りをしていた後藤基次は、この幸村のやり方に立腹した。
 大野治長は基次をなだめるために、大坂方の幹部である〝五人衆″に加え、大名格としたので基次はいちおう満足したという。
 幸村は基次の計画を一部修正して出丸を構築したといわれるが、〝真田の抜け穴〃と称されるトンネルは、基次が設計していたものをそのまま用いたのではあるまいか。
 一度は機嫌を損ねた基次も、その後は幸村と緊密な連携作戦をとり、夏の陣では、真田丸の抜け穴を伝って出て家康の本陣を急襲し、逃げまどう家康を追いつめた基次が、家康を槍で刺した。家康は旗本たちの手で駕籠に乗せられ、戦場を離脱して一路南へ走り堺の南宗寺にたどり着いたが、そのとき、すでに家康は息絶えていたという。
 それが本物の家康か、替え玉としての影武者か、事は判然とはしないが、南宗寺の開山堂の床下に埋められた家康のために墓の卵塔が堂裏に建てられていたと伝えられている。元和九年(一六二三)に秀忠と家光が当山へやって来て、堂裏の卵塔を拝し、菩提を弔ったというから、まるで架空の話とはいいきれない。
 抜け穴は、真田の抜け穴にかぎらず、落城の場合に城外へ脱出するためのものというだけでなく、むしろ、抜け穴を用いて敵陣を急襲するということのほうが重要であったように思える。
 また城外にある味方との連絡とか、敵情偵察とかにも用いられた。冬の陣龍城中に徳川方から派遣されて来た使者を接待するのに、生き鯛を膳に載せてみせた大野治長は、「このようなものでよければ、いつでも」といって笑ったという。使者に、徳川勢のなかに内応者がいると思わせる策だろうが、この生き鯛は天守の下の帯曲輪に設けた抜け穴から城外へ出て、堺で買ってきたものである。大野治長の腹心、米倉権右衛門がおもにその任についていたといわれる。
 抜け穴の出入口は、豊臣・徳川両時代とも天守の下の帯曲輪にあって、豊臣時代の城は東側にあって東南へ通じており、徳川時代の城は東西両空堀の石垣の中を通って東西へ通じていたようである。
 冬の陣での抜け穴合戦は藤堂高虎の穴掘りからはじまった。西の方から城中へ掘川抜いたというその抜け穴は幅二間半(約四・五メートル)、高さ一間(約一・八メートル)、杭木には桧材を使い、三尺(約九〇センチ)進むごとに灯台を吊るした。城中はすでにそれに気づき、藤堂勢が穴から城中に入り、出口を掘り抜いたところを待ちかまえていて糞尿を流し込んだ。いつの時代でも龍城戦で困るのは糞尿の始末である。大坂城内では、その糞尿の格好の捨て場所として藤堂勢の穴を使ったわけだが、籠城戦糞尿譚の雛型は楠木正成の千早城にもある。
 また井伊勢も城内へ突撃する坑道を掘ったが、城内からも井伊勢を迎え撃つ坑道を掘り進めた。しかし、それは食い違ってつながることなく、そのうちに冬の陣は講和を迎えて終わったので井伊勢の穴掘りもそのままになったという。
 こういった話をくくり合わせてみると、抜け穴というものは城にはつきものだし、城攻めには坑道掘りがつきものであって、さほどめずらしいものでも、特殊なものでもなかったようである。
 秀頼が落城前に糒(ほしい)庫の抜け穴から脱出していたとしても、そう不自然な話ではない。

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