北杜市大泉町 谷戸城、清光の墓について
『甲州風物誌』上条馨氏著 昭和三十年代頃記 平成五年発刊
前文略
谷戸城址へは北側から登った。ここは甲斐源氏三代の清光の城である。長坂町の大八田(おおばった)に清光寺を建てたその武将の居城である。
頂の郭跡は土塁で大きく二つに区切られ、規模は小さいが、七百年前のおもかげは、今にその跡をとどめている。
本丸跡と思われるところには、八幡神社が祀られ、清光没後、清光の霊をも合祀して、甲斐源明神として今日に至っている。
遠くで鳴いていたカツコウが、この時すぐ近くの松の木に来て鳴き出した。ホオジロがヒノキの頂で胸を張って鳴いていた。
歩を南へ移すと、すばらしい眺望である。左手に遠く茅ガ岳の裾野が、一直線のスロープを長く引き、右手には駒ガ岳・鳳凰山がきり立って迫り、南方四里の下に、ここからもはっきりそれとわかる新府城の小山が、墨絵のように映り、その先は遠く甲府盆地となって、霞の中に消えている。はるか十数里の中空には、すばらしい富士が、美しいスロープを引き、その雄大さと広大さとを一望のもとに収めるこの谷戸城は、さすがに甲斐源氏発祥の居城として、ふさわしいものである。この谷戸城址に立ってみて、はじめてこの居城の意味がわかった。標高八百五十メートル、南方大手口からの登り道は、六十メートルの一直線の急坂で、そこを下ると右鳥居があり、文字のうすれた「谷戸城址」の県町史跡標が建っている。城の麓の西側を「城の腰」といい、城の南側の一世冊の部落を城下(じょうした)といっている。
清光はこの城で、建久六年六月病にかかり、正治元年六月十九日に没したと、史書には記してある。
今から七百五十年前のことである。江戸時代の史書にも、清光の墓は大八田の清光寺と、この谷戸の二カ所にあることが記されている。盛土の高さ一丈余、上に五輪の石塔一基、高さ五尺ばかり、人もしこれに触れると、必ず崇りあり、とも記されている。
城の麓を西に回ると、高さ二メートルほどの塚が路傍にあり、上には松とモミの大木が四、五本鬱蒼としている。これが清光の塚であろうかと、上ってみると、太い松の根元に、石の耐が一つと、墓石の台石と思われるもの二つが、半ば土にうずまっている。笠石、胴石は見当たらない。道をへだてた向こう側に、もう一つ小さい塚がある。石の観音像のあるそこに登ってみると、まさしく笠石が一つころがっている。笠石は宝筐印塔である。今から百五十年前までは、五尺の高さの墓石であったのが、今は台石が別々に転がり、かえりみる人もなくなってしまった。
傍の田の畦を塗っている百姓に聞いてみた。
「あの塚が清光の墓ですか」といっても、そこにいた四人とも誰も知らない。
「何なら、あの森のある家が神主さんの家だから、聞いてごらんなせえ。森越さんというがね」
神官の屋敷には一人の老人がいた。この村の神官である。
それから清光の墓のことを尋ねた。
たしか、甲斐国志にそんなことが書いてあるとのことだが、しかし今は村人でもそれを知っている人は少ない。昔は今の松の樹のある塚にあったのではなくて、観音さんのあるところの、もう一つ北に塚があったのを、その塚の土が壁土によいので、採掘し始めた時に、墓石を他に移したわけだが、その時、台石と笠石を別々に移してしまったとのこと。四十年前までは、たしか五尺ばかりの墓石塔があった由。
以上のことが、この老神官の話でわかった。谷戸の清光の墓とて、甲斐国志に明記され、今も時には遠方からたずねてくる者もあり、せめて墓石だけでも一緒にしてやりたいものと意向を話すと、
「じゃ早速、部落の組長にも、息子にも話して一緒のところへ置きやしょう」
と、森越神官は語った。(以下略)
註、この城はすっかり形を変えた。城を復元した模様だが、それと同時に甲斐源氏の足跡はここからは消えたしまった。
開源神社があったころが懐かしい。